”ものを通して愛情を求める”

ここまで読んで、「誰でも幼児的願望はある程度あるのではないか」と思う人もいるだろう。
しかし、今述べている人たちは、普通の人とは違う。

幼児的願望を日常生活に即していえば「甘え」とか「わがまま」は、あくまでも「この人」に「甘えたい」ということである。
あるいは「この人」に対する「わがまま」である。
「この人」からリンゴをもらいたい、「この人」に服を買ってもらいたい、「この人」と一緒にどこそこへ行きたい。
あくまでも「この人」がみたしてくれるのでなければ、「甘え」「わがまま」も意味がない。

それが心理的に健康な人の「わがまま」であり、「甘え」である。「この人」以外の別な人がくれたリンゴでは意味がない。

ところが、幼児的願望を持っている人は、リンゴをくれる人が「この人」でなくてもいい。誰がリンゴをくれるかは問題ではない。
「もらう」ことが大切なのである。

誰がくれたリンゴでもうれしい。
対象の無差別性である。

むしろ大切なのは、高価なリンゴか安価なリンゴかである。
したがって、逆に、誰がくれてもそのリンゴに文句を言うのが幼児的願望を持っている人の「甘え」であり、「わがまま」である。

「あの人があの辛い環境の中でリンゴをくれた」という喜びがない。
くれたリンゴが安物だと面白くない。それは幼児的願望を持っている人には「この人」もいないし、「これが欲しい」というものがないからである。

とにかく不愉快なのである。
幼児的願望を持っている人は、エーリッヒ・フロムのいう近親相姦的衝動やナルシシズムなどの基本的な愛情要求が満たされていないからであろう。

幼児的願望を持っている人は、とにかく愛情を求めているので、別にリンゴが欲しいわけではない。

幼児的願望を持っている人であれ、心理的に健康な人であれ、「わがまま」はある。
ただ、心理的に健康な人は、「この人」に「これをしてほしい」ということが明確である。

「この人」にスープを作ってもらいたいというのが心理的に健康な人の「わがまま」である。
心理的に健康な人は、「この人」が「こんなスープしか作ってくれない」と不満になる。
他の人の時には文句は言わない。したがって、「おいしいスープ」を作れば解決する。

幼児的願望を持っている人は、誰であってもスープをつくってくれればいい、求めているのはスープではなく愛情なのだから。
しかし、スープをつくればその後は「サラダを作ってくれ」と言う。

それは繰り返し言うように、別にスープが欲しいからではない。この私にスープをつくってくれるという愛情が欲しかっただけである。
だから、不満はいつになっても解決しない。

とにかく次から次へと要求が出てくる。それはそのものを通して愛情を求めているので、そのもの自体が欲しいわけではない。
「それ」が欲しいから「欲しい」と言っているわけではない。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著