アドラーのいう「共同体」の概念を言葉のままに受け取って、実際の宇宙や無生物をイメージすると、理解をむずかしくしてしまいます。
さしあたってここでは、共同体の範囲が「無限大」なのだと考えればいいでしょう。

たとえば、定年退職をしたとたんに元気をなくしてしまう人がいます。
会社という共同体から切り離され、肩書を失い、名刺を失い、名もない「ただの人」になること、すなわち「普通」になることが受け入れられず、一気に老け込んでしまう。

でもこれは単に会社というちいさな共同体から切り離されただけにすぎません。
誰だって別の共同体に属しているのです。
なんといっても、われわれのすべてが地球という共同体に属し、宇宙という共同体に属しているのですから。

確かに、いきなり宇宙は想像できないでしょう。
しかし、目の前の共同体だけに縛られず、自分がそれとは別の共同体、もっと大きな共同体、例えば国や地域社会に属し、そこにおいても何らかの貢献ができているという気づきを得てほしいのです。

では結婚もせず、仕事を失い、友を失い、人付き合いを避けたまま、親の遺産だけで生きている男がいたとしましょう、彼は「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」のすべてから逃げているわけです。
こんな男でさえ、なんらかの共同体に属してると言えます。

例えば彼が、一片のパンを買う。
対価として一枚の硬貨を支払う。
そこで支払った硬貨は、パン職人たちに還元されるだけではありません。
小麦やバターの生産者たち、あるいはそれらを運んだ流通業者の人達、ガソリンを販売する業者の人達、さらには産油国の人達など、様々な方々に還元されているはずだし、つながっているわけです。
人は共同体を離れて「ひとり」になることなど絶対にありませんし、できません。

これは空想ではなく、事実です。

アドラーの言う共同体とは、家庭や会社のように、目に見えるものだけでなく、目には見えないつながりまで含んでいます。

それではなぜ複数の共同体を意識し、より大きな共同体を意識していくべきなのかを考えていきましょう。

繰り返しになりますが、我々は皆複数の共同体に所属しています。

家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属し、といったように。

では仮に、あなたが学生で「学校」という共同体を絶対視していたとします。
つまり、学校こそが全てであり、わたしは学校があるからこそ「わたし」なのだ、それ以外の「わたし」などありえない、と。

しかし当然、その共同体の中で何らかのトラブルに遭遇することはあるわけです。
いじめであったり、友達ができなかったり、授業についていけなかったり、あるいはそもそも学校というシステムに馴染めなかったり、つまり、学校という共同体に対して「ここにいてもいいんだ」という所属感をを持てない可能性は。

この時、学校こそがすべてだと思っていると、あなたはどこにも所属感を持てないことになります。
そしてより小さな共同体、たとえば家庭の中に逃げ込み、そこに引きこもったり、場合によっては、家庭内暴力などにはしる。
そうすることによって、どうにか所属感を得ようとする。

しかし、ここで注目してほしいのは「もっと別の共同体があること」、特に「もっと大きな共同体があること」なのです。

学校の外には、もっと大きな世界が広がっています。
そして我々は誰しも、その世界の一員です。
もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。
転校するのもいいし、退学したってかまわない。退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。

ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が学校に感じていた苦しみが、「コップの中の嵐」であったことがわかるでしょう。
コップの外に出てしまえば、吹き荒れていた嵐もそよ風に変わります。

自分の部屋に閉じこもることは、コップの中にとどまったまま、小さなシェルターに避難しているようなものです。つかの間の雨宿りはできても、嵐がおさまることはありません。

そこで覚えておいてほしい行動原則があります。
われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまった時、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴けという原則です。

学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。

仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として振る舞っていたとしましょう。
しかしそんな権力や権威は、学校という小さな共同体だけで通用するコモンセンスであって、それ以上のものではありません。
「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。
理不尽な要求をつきつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。

これは「私とあなたの関係でもいえることですが、もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。こちらから捨ててしまってかまわない。

関係が壊れることだけを恐れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。

目の前のちいさな共同体に固執することはありません。
もっとほかの「わたしとあなた」、もっとほかの「みんな」、もっと大きな共同体は必ず存在します。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するにはより大きな「共同体」を意識しましょう。

※参考文献:嫌われる勇気 岸見一郎著