楽しい努力ができる人、苦しい努力しかできない人

自己価値感人間の努力は、内発的な成長力の発現に向けられています。

すなわち、自分の興味や適性、希望、夢などにつながる目標の達成へと向けられています。

このために、彼らの努力には、挑戦する喜びや、自己成長、充実感などがともないます。

もちろん、自己価値感人間とて避けられない苦役はあります。

しかし、それらに真摯に立ち向かいつつ、それだけに終わることなく、自分の興味や夢と重なる努力をも併行しておこなっています。

また、失敗したり、挫折感をあじわったりすることも当然あります。

そのようなとき落胆はしますが、そのために自信喪失の感情が広がってしまうことはありません。

そもそも自分がしたかったことに挑戦していたのですから、残念だとは思いますが、これまでの努力を無駄とは感じません。

さらに、彼らは強迫的な欲求から解放されていますから、自分の目標や夢が自分の潜在能力から考えて現実的でないと判断すれば、現実的なものに修正する柔軟さがあります。

現在を精一杯生きることが必然的に未来につながっているという揺るぎない確信を持っているために、彼らの努力は、「いまを充実して生きている」という実感とともにあるといえます。

これに対し、自己無価値感人間にとっての努力は、自分のなかから発生した自分本来の目標に向けての努力ではなく、人から賞賛されるためであるとか、他人からの非難を避けるためであるなど、他者を意識した努力なのです。

このために、自己無価値感人間は、強迫的な努力をする人か、もしくは、全面的に努力を放棄した人になります。

強迫的な努力に向かう人は、いつでもより高い社会的価値の達成をめざします。

このタイプの人は、真面目な努力家になり、いわゆる「良い子」であったり、競争心の強い人であったりします。

こうした強迫的な努力が悲劇的なのは、自分が楽しいと思えないもの、自分にとって意義がわからないものにでも、必死にがんばってしまうことです。

たとえば、勉強がすこしも楽しいと感じない優等生。

実際にどう役立てるか見通しもないのに、次々と資格取得に精を出す人。

いつも自分を犠牲にして周囲の人のために働いてしまう人などです。

こうした涙ぐましい努力は、他者からの賞賛を求めておこなっていることです。

ですから、どこにも非の打ち所が無いようにしないと安心できないわけで、完璧主義に陥ることになります。

しかし、完璧であることなど不可能ですから、つねに不全感につきまとわれることになるのです。

こうした人にとって失敗をしたり批判を受けたりすることは、自分の存在価値そのものが脅かされることになります。

なぜなら彼らの自己価値感は成功や人からの賞賛によって維持されているからです。

ですから、失敗や人からの評価を失うことを極力恐れます。

そのために、努力の成果がえられるほど、彼らの努力は不安や焦りによってますます加速化されていくのです。

自己無価値感人間のなかには人並み以上の努力によって、特別に高い業績を上げる人がいます。

官庁や企業などで幹部の地位に上ったり、作家や芸術家として世に知られるようになったりする人もいます。

しかし、社会的には成功しても、「自分の人生はどこか間違ったのではないか」という疑念が残り、いつか本当は能力がないことが露呈してしまうのではないか、という不安を感じたりします。

といって、こうした自己無価値感人間の努力を冷笑するのは誤りです。

そうならざるを得なかった必然的な状況があったのであり、また、人一倍の努力が、じっさいに彼らの人生を構築していく支えとなるからです。

こうした人たちは、多くのストレスを抱えながらも、社会的に安定した生活を築き、相応の幸福な人生を送るのが大部分なのです。

自己無価値感人間のなかには、努力を放棄するという第二の道を歩いてしまう人がいます。

この道は、当然ながら、能力を生かし切れない人生、非建設的な人生、場合によっては破滅的な人生となります。

このタイプの人は、努力しても報われなかった養育環境であるとか、努力するための素養が育まれなかった養育環境などに起因します。

また、そもそも本人の潜在能力の低さのために、社会的価値と合致した方向での自己価値感の獲得を断念してしまった場合もあります。

しかし、こうした人も自己価値感への欲求そのものはなくなりません。

いや、むしろ、満たされないためにいっそう強くなり、屈折した形で自己価値感を獲得しようとします。

それはたとえば、自堕落、無気力のままに過ごすとか、幼さを強調するなどです。

これにより、親や周囲の注目や配慮、援助を引き出すことができ、自分はそうした特別な配慮や援助に値する存在だと感じることによって、自己価値感欲求を満たそうとするのです。

あるいは、意固地な反抗や、非行などで親を困らせたりすることで自己価値感を得ようとします。

こうした子どもに対して、口では「困った子だ」と言いながら、親はどこかで歓迎してしまっています。

なぜなら、その子に必要とされているということで、親自身も自己価値感が満たされるからです。

こうした共依存的関係によって、子どもは、ますます努力する能力が奪われ、努力することは苦痛以外の何ものでもなくなってしまいます。

「自分は自分」と「人の目が気になる」

自己価値人間は、外界と自分との関係を信頼しているので、関心や諸欲求が自己と外界へバランス良く向けられています。

このために、彼らの価値観や判断・行動は偏りがなく、民主的・社会的価値と合致しています。

外界と交流しながら、必要な場合には、外界に対して超越的態度をとることもできます。

すなわち、自分でどうにもならないことについては、必要以上に心の混乱をきたさず、受け入れることができます。

このように、自己価値感人間は、社会や集団と融和しながら、「自分は自分」という姿勢を堅持しています。

いっぽう、自己無価値感人間は、自己価値を脅かされる不安と、無価値感を補おうとする強迫的な欲求に突き動かされて外界に接します。

ですから、いつでも外界へ警戒的な態度をとり、人の目が気になることになり、自分自身のままでいることができません。

自分を人と比べて値踏みするようにもなります。

自分より地位が高い人からの評価は、とりわけ自己価値感を左右します。

そのために、そうした人に接するとき、必要以上に緊張してしまい、自己防衛の口実を考えたり、卑屈に取り入ったりします。

また、逆に、ふてくされたり、ふてぶてしい態度をとることで、相手からの評価を強引に拒絶しようとする人もいます。

最初から好意的な評価を期待しなければ、自己価値感がそれだけ傷つかずにすむというわけです。

こうした表われ方の違いはあっても、自己無価値感人間は、人から嫌われることをひどく恐れ、人の評価をつねに気にしていることで共通しています。

※参考文献:なぜ自信が持てないのか 自己価値感の心理学 根本橘夫著