アドラーが共同体感覚の概念を提唱したとき、反発はたくさんありました。

心理学は科学であるべきなのに、アドラーは「価値」の問題を語り始めた。

そんなものは科学ではないと。

アドラーの話は複雑なのでここでいったん順番を整理します。

いきなり宇宙だの可香谷未来だのと考えるから、話が見えなくなってしまう。

そうではなく、まずは「わたし」について、しっかり理解する。

続いて、一対一の関係、つまり「わたしとあなた」の対人関係を考える。

そしてようやく、大きな共同来が見えてくるのではないかと。

そこで最初に、「自己の執着」です。

「わたし」に執着するのを止めて「他者への関心」に切り替えよ、ということです。

そこでなぜ自分が気になるのか考えてみました。

たとえば、ナルシストのように自分を愛し、惚れ惚れと自分を見つめているなら、話も早かったのかもしれません。

しかし己を忌み嫌うリアリストは己のことを嫌悪しているからこそ、自分ばかりを見ている。自分に自信が持てないからこそ、自意識過剰になっているのです。

たとえば会議のとき、なかなk手を挙げられない。

「こんな質問をしたら笑われるかもしれない」「的外れな意見だと馬鹿にされるかもしれない」と余計なことを考え躊躇してしまう。

それどころか人前で軽い冗談を飛ばすことにも、ためらいを覚えてしまう。

いつも自意識が自分にブレーキをかけ、その一挙手一投足をがんじがらめに縛り付けている。

無邪気に振る舞うことを、自意識が許してくれないのです。

まず、「自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない」という話。

これは多くの人が実感している悩みかもしれません。

では、もう一度原点に立ち返って、あなたの「目的」を考えてみましょう。

あなたは無邪気な振る舞いにブレーキをかけることで、なにを得ようとしているのでしょうか。

つまり、あなたは無邪気な自分、ありのままの自分に自信を持てていないということです。
そしてありのままの自分による対人関係を回避しようとしている。

きっとあなたも、部屋の中に一人でいれば、大声で歌ったり、音楽に合わせて踊ったり、威勢のいい言葉を発したりできるはずですから。

ひとりであれば、誰もが王のように振る舞える。

要するにこれも、対人関係の文脈で考えるべき問題なのです。「無邪気な自分がいない」のではなく、ただ人前でそれができないというだけのことですから。

では、どうすればいいか?

やはり共同体感覚です。

具体的には、自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚をもてるようになること。

そこで必要になるのが「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになります。

まずは「自己受容」から説明しましょう。

アドラーの「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」ということでした。

われわれは「わたし」という入れ物を捨てることもできないし、交換することもできない。

しかし、大切なのは「与えらえれたものをどう使うか」です。

「わたし」に対する見方を変えいわば使い方を変えていくことです。

ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。

自己肯定ではなく、自己受容です。

この両者には明確な違いがあります。

自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「私は強い」と、自らに暗示をかけることです。

これは優越コンプレックスにも結び付く発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。

自らに嘘をつくものではありません。

もっとわかりやすく言えば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、本当の自分は100点なんだ」と言いきかせるのが自己肯定です。

それに対し、60点のじぶんをそのまま60点として受け入れた上で「100点にちかづくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。

仮に60点だったとしても悲観する必要はありません。

欠点のない人間などいません。

人は誰しも「向上したいと思う状況」にいるのだと。

逆にいうとこれは、100点満点に人間などひとりもいない、ということです。

そこは積極的に認めていきましょう。

そこで「肯定的なあきらめ」という言葉を使っています。

課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。
われわれは「何が与えられているか」について、変えることはできません。

しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。

だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。

わたしのいう自己受容とは、そういうことです。

交換不能なものを受け容れること。

ありのままの「このわたし」を受け容れること。

そして変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つこと。
それが自己受容です。

以前、カート・ヴォネガットという作家同じような言葉を引用していました。

曰く、「神よ、ねがわくばわたしに、変えることのできない物事を受け容れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ」

そう、我々は何かの能力があ足りないのではありません。ただ”勇気”がたりていない。

すべては”勇気”の問題なのです。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、交換不能なものを受け容れること。ありのままの「このわたし」を受け容れること。

そして変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つことです。

※参考文献:嫌われる勇気 岸見一郎著