同じ人間関係の中にいても、楽しんでいる人もいれば、苦痛に感じている人もいます。

それは心のあり方に違いがあるためです。

人の中にいることで感じてしまう苦痛は、その人の心が勝手につくり出している場合が多いのです。

ですから、自分の心の持ち方を変えることで、気持ちが楽になります。

人の中にいるのが苦痛な人は、こまごまと気をつかって人に接しています。

人の話を聞いているときにも、「今、なにか言うべきか。

それとも、なにか言ったら出しゃばりと思われるかな」とか、「相手はどんな反応を期待しているのだろう。

『違う』って言ったら、気を悪くするんじゃないか」などと、考えています。

自分が話しているときも、「つまらない話と思ってるんじゃないか」とか「話がくどすぎないだろうか」などと気を回しています。

「緊張しているのがわかってしまうのではないか」と心配している人もいます。

こんな風に、いつも気を張り詰めて、心も体も緊張状態です。

あるがままの自分を抑えて、無理した自分でせっしようとするから、緊張するのです。

「あるがままの自分でいいのだ」と決意して、「あるがままの自分でいよう」と心がけると、ずいぶんと気持ちが楽になります。

楽に人と接するには、手の込んだ技巧は必要ないのです。

むしろ、今まで身につけた技巧が邪魔をしていることが多いのです。

さあ、深呼吸して、「あるがままの自分で接しよう」と、決意しましょう。

自分の気持ちに素直に従う

あるがままの自分であろうとすることは、自分の心に素直に従うことです。

弱みを見せてもいいのです。

劣っている姿を見せてもいいのです。

演技をしてもいいのです。

劣っていることを知られたくない。

優秀だと見られたい。

認められたい。

注目を得たい。

承認されたい。

誉められたい。

讃えられたい。

だれでもこうした欲求があります。

このために、自分を偽る部分があります。

多少の演技が入ります。

それもまた、自分の素顔として受け入れることです。

なぜなら、こうしたことは、「人からよく見られたい」という気持ちだけでなく、「そのような人でありたい」という自分の願いの表現でもあるからです。

その時、その場で、自分の心の動きのままに行動しようとすることです。

もちろん、自分で改められるところは改めようと努力するのですが、改められない自分の弱さや醜さ、不十分さは、それとして意識すればいいのです。

意識することは、自分にこうした面があることを受け入れることでもあります。

これまでは、自分のそうした面を見ないようにしてきました。

そのために、言い訳したり、自分をごまかしたりする必要がありました。

でも、受け入れれば、もはやそんな必要はなくなります。

これによって、自分の現実の姿を、いっそうよく見ることができるようになるのです。

むろん、あるがままの自分であろうとすることは、「自分の嫌な面を抑えない、遠慮なく出す」ということではありません。

だれでも人に好かれたい欲求があります。

いい人と思われたい気持ちがあります。

周囲の人を喜ばせたい気持ちがあります。

人の中にいるのが苦手な人は、こうした気持ちが人一倍強いものです。

ですから、その素直な気持ちに従えば、相手に不愉快な感情を抱かせるような言動はできないのです。

あるがままとは、また、自然にみせようとすることではありません。

不安や戸惑い、緊張や心の動揺などを隠して、平静を装うことではありません。

人目を気にして不自然な行動になってしまったとき、自然に見せようとすればするほど、不自然な行動になってしまうということは、多くの人が体験することです。

不安や戸惑い、緊張や心の動揺などは、自分で思っているほど、他の人は気がつかないものなのです。

自分ではそうしたものが大きく感じられるのですが、他の人から見えるものとして外に表れることはそれほそないのです。

それに、そうした場面では、他の人も同じように緊張しているものです。

第一線で活躍している歌手、俳優、タレント、お笑い芸人の人たちは、不安や緊張と無縁のように見えますが、実は内心ひどく緊張していると語ることが少なくありません。

ですから、緊張する心を抑えて自然に見えるようにと、無理をしないことです。

そうではなく、「不安や緊張を知られても、なにも困ることはない」と思うことです。

緊張しなくなるように求めるのではなく、「今のままの自分で平気」という気持ちになることです。

あがり症の人なら「あがらなくなる」ように求めるのではなく、あがってもいいじゃないか、と思うことです。

緊張して声が震えてしまうのが苦痛という人は、それがなくなることが最も望ましいことでしょうが、とりあえず「声が震えても気にしない」という気持ちになることです。

このように居直ると、いつしか過度に緊張することもなくなり、声の震えも治まっているものです。

「あるがまま」は自分にも相手にも誠実であること

人と接するのが苦痛な人は、自分を抑えて、相手に気をつかうことが誠実なことだと思っています。

でも、それは自分に誠実なことでもないし、相手に誠実なことでもありません。

なぜなら、それは自分を偽っていることであり、それゆえに、相手を欺いていることだからです。

あるがままの自分で接しようとすることは、相手にも自分にも誠実であろうとすることです。

人間関係において、誠実に勝る対人技術などありえません。

誠実であることが、不安や緊張から解放され、人といることを楽しむための王道なのです。

あるがままの自分を出したら、嫌われてしまうのではないか。

嫌がられるのではないか。

そう心配するかもしれません。

しかし、そんなことはありません。

あるがままの方が、人は好意を持つものなのです。

赤ちゃんや幼い子どもの天真爛漫な姿は、周囲の人に自然に笑みをもたらします。

彼らはただ自分であるだけです。

あるがままの姿が、周囲に喜びをもたらすのです。

大人になっても変わりません。

多少の欠点があろうと、未熟な面があろうと、素直に自分を出している人が好かれるのです。

なぜなら、気を遣っている人には、周囲の人も、気を遣って接しなければと身構えざるをえないからです。

気をつかっている人は、「いい人」とか「信頼できる人」とは賞賛されますが、「気軽に付き合える人」とは言われません。

気をつかって接しなければならない「堅苦しい人」という印象を与えてしまうのです。

「あるがまま」でいることが本当の自信につながる

社交が苦手な人は、心の奥底で自信がありません。

あるがままの自分では受け入れてもらえない。

認められない。

意識しなくても、そんな思い込みがあるのです。

そのために、自分を抑えて、相手の気持ちばかり気にしてしまうのです。

自信には、表層の自信と深層の自信があります。

表層の自信とは、能力やスタイルなどが優れていることで得られる自信です。

こうした自信は、限定的な自信にとどまり、心全体の自信にはなりません。

たとえば、学校の勉強がいくらできても、社会で生活していく自信にはつながりません。

容貌に自信があっても、仕事に対する自信が持てるわけではありません。

それに対して、深層の自信とは、自分という存在自体への信頼です。

自分が劣っていようと、優れていようと、そんなことは超越した根底的な自信です。

これがしっかりと形成されている人は、あるがままの自分を素直に表現することができます。

自分の存在自体の揺るぎない価値を信じているので、失敗やマイナスの評価で過度に傷つくことはありません。

人間関係が重荷になるということは、この根底の自信が持てないために、人からの賞賛によって自信を持とうともがく姿でもあるのです。

どんなに仕事ができても、どんなに賞賛されても、それが自分の偽りの姿で得たものであったとしたら、自分の存在自体の価値と結びつくことはありません。

どこか空虚さを伴った自信にしかなりません。

これに対し、「あるがまま」とは、自分の存在自体を信頼することにほかなりません。

「あるがままで受け入れられた」「あるがままで認められた」という体験を繰り返すことで、あるがままの自分の価値を実感できて、自己信頼という根底的な自信へと導かれます。

●まとめ●
「あるがままの自分でいよう」と決意しよう
人前に出るとき、人に会うとき、人の中にいるとき、「あるがまま」を心がけよう。
「あるがままで大丈夫」と、何度も繰り返そう。

※参考文献:「つらい人間関係」がぐっと楽になるヒント 根本橘夫著