そのうつ病は、本当にうつ病なのか

もしあなたが、気分の落ち込みや意欲の低下などを感じて、心療内科や精神科を訪れれば、十中八九、「うつ状態」や「うつ病」という診断を付けられ、抗うつ作用や抗不安作用のある薬を処方されるだろう。

しかし、今日、「うつ」で心療内科の外来を訪れる人のうち、本当に「うつ病」の人は十人に1人もいない。

それでも現実には「うつ」の診断のもと、抗うつ剤などの薬剤が投与される。

本来のうつ病は中高年に始まる病気である。

それまでずっと活発で、まめに働き、元気だった人に多い。

そんな人が、四十、五十を過ぎて、急に活力を失い、悲観的なことばかり考え始めたら、本当のうつ病の可能性が高い。

しかし、二十代や三十代の人に「うつ」のような症状が起きていたり、あるいは若い頃から似たような症状が続いていたり、一時的に治っても繰り返していたりする場合は、「うつ病」ではない可能性の方が高い。

本当にうつ病に罹っている場合は、抗うつ剤の服用は有効な治療法で、自殺などの悲しい結末を避け、回復することにつながる。

ところが、本当のうつ病ではない場合に、いくら抗うつ剤による治療をしても、良くなるどころか逆にだるくなり、薬の副作用ばかりが出て、むしろ調子が悪化してしまうこともある。

また、抗うつ剤に比べればずっと使いやすい抗不安剤のような薬を使って、症状だけが軽減したとしても、本当の原因には手当てをされていないので、症状はすっきりとは良くならないばかりか、薬を止めるとすぐに症状がぶり返し、悪化することになる。

薬で症状だけを紛らわしている状態だからだ。

こうなると、抗不安剤に依存してしまい、根底からは良くもならないのに、かといって薬を止めることもできないという事態に陥ってしまう。

こうしたことがざらに起きているのである。

本当の原因も必要な手当てももっと別にあるのだが、的外れな診断と治療を無理にあてはめようとするので、治療してもちっとも良くならないか、良くなっても効果は一時的で、またすぐに悪化するということになってしまう。

なぜ、こんなことが起きてしまうのだろうか。

その原因の一つは、医学モデルでは「症状」だけで診断することが当たり前に行われているということがある。

この風潮は精神医療において顕著で、症状のチェックリストだけで診断する医師も珍しくない。

そこに落とし穴がひそんでいる。

たとえば、気分がふさぐ、眠れない、集中力がないといった症状があったとしても、それを起こす原因はさまざまである。

そもそも、病気であると決めつける前提さえも怪しい。

もしかすると、ただ学校や会社で嫌なことがあっただけかもしれないのだ。

ところが医師は、「『症状』を見ると、病気=原因を『診断』する」という思考回路ができてしまっている。

この思考回路がすなわち「医学モデル」に他ならない。

医師は当然のごとく、医学モデルにそって、「患者として連れてこられた存在を診てしまう。

チェックリストで必要な基準を満たしていると、自動的に診断が下ってしまうのだ。

この方法で”量産”されている代表的な疾患が「うつ」であり、最近では「ADHD(注意欠如・多動症)」などの発達障害にも及んでいる。

そしてもう一つの要因は、診断と治療の関係の逆転である。

これはどういうことか。

本来は、客観的な診断がまずおこなわれ、その診断に基づいて治療を考える、というのが道筋である。

だが、現実はそうとは限らない。

というのも、医師はどんな疾患も治せるわけではないからだ。

治療できないものは、診断しても治せない。

だが医師の本能としては、「患者を治したい」と思う。

それゆえ、自分が治せない診断をして治療を断るよりは、治療の可能性がある診断をして治療しようとする。

それは言い換えると、医師が持つ治療のレパートリーに診断が左右されるということだ。

医師の治療の中心は、薬による治療である。

効く薬がある病気や症状ならば、医師はその薬を処方することで、病状を改善するチャンスがある。

使える薬がない診断をしても、「うちでは治療できない」と言うしかなくなる。

誠実な医師であれば、そう患者に告げる場合もある。

しかし、せっかく来てくれた患者のために、何とか助けになりたいと思う場合もある。

治療するためには、薬の効果が期待できる病気と診断するか、「病気自体は治らないかもしれないが、症状は薬で改善が期待できる」として、症状に対して薬を投与するかである。

したがって、医師が薬の治療にしか関心がないか、他に方法をもたないという場合には、本当ならもっと適正な診断のもと、より有効かつ根本的な対処がある場合でも、薬物療法を前提とした診断がおこなわれ、自動的に薬が投与されることになる。

この場合、残念ながら、他の方法による改善の可能性はあまり考慮されない。

とくに、チェックリストだけで機械的に診断がおこなわれるような場合には、要注意だといえる。

つまり、「症状だけを見て、安易に薬を投与する」というケースが、あまりにも多すぎるのである。

長年の習慣でそれしかできないというのが、多くの医師の現状なのである。

そこには、医学モデル自体の限界も関係している。

「症状を呈している患者の病気を治す」という枠組みが、現実の問題に対応できなくなっているのである。

その結果、人々が必要としている手当てと、医療が提供するサービスの間に、重大なミスマッチが起き、結局、国民を薬漬けにするだけで、その幸福と福祉の改善には、対価(医療費)に見合うほど貢献できていないという事態にもなっている。

薬の効果の多くも、愛着システムを介している

そもそも、医学モデルにおける治療の主体を担う薬物療法においても、治療効果のうち、薬物の効果による部分がどれだけあるのだろうかという疑念もある。

抗うつ剤でも睡眠剤でも、多くの薬は、本物とそっくりの偽薬(プラセボ)を投与したときにも、本物とほとんど変わらない効果を生む。

薬の効果が本当にあったかどうかの判定は、じっさいにはじつに微妙なのである。

抗うつ剤などの場合には、偽薬の方が、副作用が少ないので(ちなみに偽薬でも、薬に過敏な人ではさまざまな副作用が出る)、本物の薬の方が治療成績が悪いという笑えない結果さえ出る。

とはいえ、当初はプラセボでも変わらない効果が見られたが、時間がたつにつれて本物の薬の方が効果を発揮し始め、効いた人と効かない人の差が少しずつ広がっていくという傾向は見られる。

ただ、プラセボでもずっと同じくらい効き続ける人も、少なからずいる。

つまり、薬に何の効果がなくても、かなりの割合の人で、本物の薬と同程度の症状改善がみられるのだ。

薬の効果のかなりの部分は、「お医者さんに診察してもらって薬をもらった」

ということの心理的な効果に由来する。

これがプラセボ効果である。

この効果は、医師に対する信頼が高く、医師との関係が良好なほど強い。

つまり、薬の効果はじつは、医学的な効果というよりも、話を聞いてもらったり体に触れてもらい、手当てを受けたという安心感から生まれているのである。

「手当て」と「暗示」による奇跡的な回復

これは、医学モデルが謳う「診断に基づく治療」などという大げさなものではなく、むしろ、泣いている子供を母親が抱き上げ、よしよしと撫でてあげる効果に近いだろう。

つまり、医学モデルよりも愛着モデルで説明した方が、納得のいく効果なのである。

なぜなら、症状の種類や診断名、治療の中身とは関係なく、何にでも効果が認められるのだから。

これと関連して重要と思われるのは、フランスのエミール・クーエが始めた暗示療法である。

クーエは町で診療所を開いていたが、その治療はじつに単純なものであったにもかかわらず、驚異的な効果を生んだ。

その方法は、「きっと良くなる」と患者を励まし、前向きで肯定的な発言や考え方を指導し、「症状が良くなる」という暗示を与えるというものであった。

たとえばクーエは、子どもの患者に対して、患部を撫でながら「なおる、なおる、・・・なおった」と一緒に唱えさせた。

その効果が絶大だったため、クーエの医院には、彼の診察を受けるためにフランス中から患者が押し寄せてきたという。

さらに注目すべきは、クーエの診療所で働いていたマドモアゼル・コフマンという女性の治療だ。

彼女は児童を専門に治療を行なったが、その効果は師のクーエさえも凌いでいた。

眼瞼下垂のため、七歳まで目が見えなかった子どもの視力を回復させたり、当時は不治の病であった結核性の病気を完治させるなど、文字通り奇跡的な回復をもたらしたという。

彼女の治療は、子どもを抱いて、優しく撫でながら、だんだんよくなっていることを語り続けるという簡素なものだった。

そして子どもが希望をもてるように、親にも決して否定的なことは言わず、前向きなことだけを話すように指導した。

抱擁や愛撫は、まさに愛着システムであるオキシトシン系を活性化する。

手で触れるという意味で、まさにそれは「手当て」なのである。

それに暗示療法を加えて効果を高めていたと思われる。

また、否定的な言葉かけをしないように親に指導するなど患者への親のかかわり方を変えていく点は、「愛着アプローチ」の先駆け的なものといえるだろう。

医学モデルではなく愛着モデルで考えるとき、今まで非科学的とされていた方法が、じつは、消毒薬を塗ったり必要もない薬を飲ませるよりも、ずっと理にかなった効果的な方法だといえるかもしれないのである。

※参考文献:愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる 岡田尊司著