”どのくらい傷つくかは育った歴史による”

イソップ物語に「ブタとヒツジ」という話がある。

羊飼いが、草原で草を食べているブタをつかまえると、ブタは大声で泣いてジタバタと大騒ぎをした。

そこでヒツジが、「そんな大声で泣くな」とブタに言う。

「自分たちはいつもヒツジ飼いにつかまるけれどもそんなに騒がない」と言う。

そこでブタはヒツジに言う。「あなたはつかまっても毛か乳をとられるだけだが、わたしはつかまると肉をとられて死ぬ」

同じようにつかまるけれども、その内容はブタとヒツジでは違う。
ブタとヒツジに対する羊飼いの期待が違う。

ブタが「イヤだ、イヤだ」と騒いでもブタはブタなのである。
羊飼いは羊飼いで勝手に、ブタとヒツジとは違った期待をする。

ブタに要求されるものと、ヒツジに要求されるものは違う。
ブタが、「自分にヒツジと同じことを要求してくれ」と言っても通らない。

人も同じである。
相手の言葉に傷つきやすい人と、傷つきにくい人とがいる。同じ言葉にどのくらい傷つくかは、人によって違う。
同じ言葉に泣いて騒ぐ人もいるし、騒がない人もいる。
同じ言葉が同じに受け取られるものではない。

傷ついている人に、「そんなことくらいで、何で傷ついて悩んでいるのだ」と言っても、その人は傷ついているのである。

あるいは、「何でオレはこんなにすぐに傷ついてしまうのだ」と嘆いても、傷つくものは傷つく。
甘えが満たされていない人や、自己蔑視している人や、ナルシシストは、傷つきやすい。

人がどのくらい傷つくかは、その人が決められるものではない。
そのひとがどのような脳を持って生まれたか、どのような環境で育ったかによって決まる。

さらに、どのくらい長くその心の傷に苦しめられるかは、人によって違う。
傷ついても、案外すぐに癒されてしまう人もいる。

逆に、なかなか癒されない人もいる。
小さな心の傷で生涯苦しみ続ける人もいる。

ちょっとした言葉で深く傷つき、死ぬまで苦しむ人もいる。
言った人がすっかり忘れている言葉で自殺する人だっている。

癒されない傷か、癒される傷かは、傷自体の問題ではない。
その傷を受けた人の心の問題である。
なかなか心の傷が癒されない人は、それが自分なのだと受け入れるしかない。

すでに述べたように、そこから自分がすることが見えてくる、そこから解決が見えてくる、そこから覚悟ができてくる。

傷つかないような強い人間になろうと思うのは間違いである。
人は人、自分は自分と言うことが理解されていない。

さらに、人が周囲から何をどう期待されるかは、そのひとが決められることではない。

羊飼いの期待はブタにとっては辛いし、ヒツジにとっては辛くない。

たとえばある人が大学に落ちた。
そして死ぬほど落ち込んでいる。立ち直れない。

それを見て、「いいじゃないか、大学なんか落ちたって」と言う人がいる。
しかし、同じ落ちても、その落ちた重さは人によってまったく違う。
よい大学に入ることが人間の価値だと家で洗脳されている子供だっている。

このように、ものすごいプレッシュアーを親からかけられて落ちた人に、「いいじゃないか」と慰めても、それは慰めにはならない。
意味がないどころか、逆に傷を深くする。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、すぐ傷ついてしまうのも自分なのだと受け入れることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著