エディプスコンプレックスとは

安心感が育たないと人を信じられない

恥ずかしがり屋の人は、小さい頃母親の側にいて「安心した、くつろいだ」という体験がない。

子どもは母親が側にいるところでは安心してすぐに寝てしまう。

恥ずかしがり屋の人は、そういう安らぎの体験がない。

無防備になったことがない。

無防備は心理的な成長に大切。

小さい頃は無防備になれないとコミュニケーションできない。

人はノーマルなコミュニケーションができていれば、不幸にはならない

やさしい母親が側にいてくれれば、子どもは部屋が明るくても、粗末なソファでもすぐに寝てしまう。

いや、疲れていれば床の上でも寝てしまう。

不安なら豪華なベッドでも人は寝られないが、安心していれば冷たい床の上でも寝てしまう。

恥ずかしがり屋の人は、そういうくつろいだ雰囲気を小さいころに体験していない。

生きている証はコミュニケーション。

恥ずかしがり屋の人には、小さい頃にコミュニケーション能力が育っていない

最初は安心感。

それは「人を信じること」。

次にコミュニケーション。

執着性格者や恥ずかしがり屋の人などうつ病になるような人は、幼児期に人と接することの怖さを体験している。

恥ずかしがり屋の人は、安心できない幼児期から安心できない少年少女期に入っていく。

ギルマーティンの調査を見ると、子どもが恥ずかしがり屋になればなるほど、母親は社会を避ける母になっている。

社会を避ける母が同時に子どもを避けることもあるだろう。

あるいは子どもに過剰にかかわることで、その不満を解消しようとすることもあるだろう。

いずれにしても子どもには耐え難い母親である。

逆に妊娠中の母親がリラックスし、楽しいことをする性格だと、男らしい、または女らしい子どもが生まれる。

[母親が妊娠中いつも家のなかにいた]については、「恥ずかしがり屋の大学生」で52%、「恥ずかしがり屋の大人」で67%。

「自信のある大学生」では11%である。

[妊娠中も母親が働いていた]については、「恥ずかしがり屋の大学生」で0%、「恥ずかしがり屋の大人」で0%。

「自信のある大学生」では10%である。

[働いていないけれど社会的には活動していた]については、「恥ずかしがり屋の大学生」で48%、「恥ずかしがり屋の大人」で33%。

「自信のある大学生」では79%である。

[成長期に母親が働いていた]については、「恥ずかしがり屋の大学生」で67%、「恥ずかしがり屋の大人」で77%。

「自信のある大学生」では19%である。

おそらく、これらのことは恥ずかしがり屋の人ばかりではなく、執着性格者などうつ病になるような人にも当てはまるのではないだろうか。

エディプスコンプレックスで紐解く「人が怖い」とはどういうことか

「人が怖い」というときに二つの種類がある

ひとつは嫌われるのが怖いとか、自分の心を読まれるのが怖いとかいうものである。

もう一つは心理的な恐怖と肉体的な恐怖が混在したような恐怖である。

後者の場合には、恐怖症の人でないとなかなか理解しにくいところがある。

蛇が怖いとか、ライオンが怖いとかいうのはだれでもわかる。

しかしそれと違って、後者の意味で「人が怖い」ということはふつうの人には理解しがたい。

人はべつにライオンのように咬みつくわけではない

女性恐怖症の男性は肉体的な力では女性より強い。

しかし女性が怖い。

もちろん「怖い」というときには心理的なことを言っているのであるが、それでも恐怖症でない人にはなかなか「人が怖いという感情」は理解しにくい。

しかし「あの人から殺されそうなので、あの人が怖い」と言えば、だれでも理解できる。

フロイトのエディプスコンプレックスはほぼこれと同じと考えてよいのではないか。

母親をめぐる父親との葛藤である。

このコンプレックスを解決することに失敗することが神経症だと、フロイトは主張する

エディプスコンプレックスにともなう父親への罪悪感を処理することなどに失敗する。

娘が持つのはエレクトラコンプレックス。

罪悪感というと柔らかく聞こえるが、これはそれぞれの父親によって程度が違う。

もっともシビアになれば「父親に殺されるかもしれない」という恐怖感である。

ふつうの人はこのエディプス・コンプレックスを解消して成長していくのだから、べつにそれほどの大事ではない。

もし、エディプスコンプレックスの解消の失敗が神経症というフロイトの主張どおりだとすれば、多くの人は神経症にならないのであるから、ふつうはエディプスコンプレックスの解消に成功している。

しかし、なかには対人恐怖症になる人もいる。

これらの人はこうした葛藤が大人になってもまだ解決されていない。

それは、ふつうの人よりもエディプスコンプレックスにともなう罪悪感が深刻だということである。

こうした葛藤を解決することに失敗するような人は、罪悪感が「殺されるかもしれない」という恐怖感なのである

そしてもちろん、エディプスコンプレックスの人はこの恐怖は抑圧される。

そのエディプスコンプレックスの人の意識から追放される。

無意識の領域に追いやられる。

本人は自分が「父親から殺される」という恐怖感を持っているとは意識していない。

しかしそれは、そのエディプスコンプレックスの人の無意識の領域に存在している。

この「殺されるかもしれない」という恐怖感の置き換えが起きていると考えれば、「人が怖い」ということは理解できる。

父親への恐怖感が一般的な他者に置き換えられている。

そう考えれば、対人恐怖症や恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人の「人に近づくのが怖い」などの心理は理解できる。

「殺されるかもしれないという恐怖感」を持っているとすれば、他人に対して「臆病、警戒心、不信感」を持つことになるであろう。

「エディプスコンプレックス」が招く対人恐怖

「殺されるかもしれないという恐怖感」は、普通の人には理解しにくいことであろう

しかし、父親といってもふつうの父親ばかりではない。

寛大な父親もいれば、世間一般のごくふつうの父親もいれば、権威主義的な父親もいる。

さらに神経症的傾向の強い父親もいる。

その権威主義的な父親にもマイルドからシビアまでいろいろある。

神経症的傾向の強い父親もまた、いろいろである。

重傷の神経症者もいれば、軽症の神経症者もいる

父親が強度の神経症者になれば、子どもがエディプスコンプレックスで「殺されるかもしれないという恐怖感」を持つのはべつに不思議なことではない。

そして、エディプスコンプレックスの人はその恐怖感が置き換えられて「人と会うのが怖い」と思うのもべつに不思議なことではない。

父親の神経症の程度に応じて、エディプスコンプレックスの子どもの「臆病、警戒心、不信感」の程度が違うだけである。

だから恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人が、「人に近づくのが怖い」というのにも程度がある。

それほど「臆病、警戒心、不信感」がなくて、人と話すことが出来る人から、ものすごく臆病で人に近づけないエディプスコンプレックスの人までいる。

世の中には人と話すのが好きな人から、人を避けるエディプスコンプレックスの人までいる。

何をしゃべっているのだろうと不思議になるくらい、楽しそうにペラペラといつまでも話している人から、話していても視線を合わせられないエディプスコンプレックスの人までいる。

「殺されるかもしれないという恐怖感」などと言うと、だれでもどこか違和感があるだろう

恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人でさえそうした言葉に違和感があるだろう。

しかしそれでは、エディプスコンプレックスの人は自分の「臆病、警戒心、不信感」をどう説明するのだろうか?

人に近づけない傾向をどう説明するのだろうか?

は視線を合わせるのが難しいのをどう説明するのだろうか?

エディプスコンプレックスの人は人といて居心地が悪いのをどう説明するのだろうか?

なぜ自己主張を避けるのであろうか?

なぜ自己表現など怖くてできないのだろうか?

書いていけばキリがないほどのいろいろな疑問にどう答えるのだろうか。

そのもっとも底にある基本的なことは、「殺されるかもしれないという恐怖感」ではないだろうか。

底に流れているのはこの恐怖感である。

それぞれの問題を掘り下げていけば、みな恐怖感という地下水に行き着く

「殺されるかもしれないという恐怖感」という言葉はいかにもきつい。

それだけになかなか賛同してもらえないだろうが、その恐怖感にもいろいろな程度がある。

それは「自己主張できない」といっても、まったくできない人から、ある程度はできる人までいる。

恥ずかしがり屋でない人はふつうに自己主張できる。

なかにはつねに自己主張できる人もいる。

それぞれの人によって、この「殺されるかもしれないという恐怖感」は違う。

大人になってみれば、まったくない人から、無意識にものすごい恐怖感があるエディプスコンプレックスの人までいる。

だから「自分の言動がどうしてこうなってしまうのか」と自分で自分に嫌気が差しているエディプスコンプレックスの人、自分で自分をもてあましているエディプスコンプレックスの人などは、自分の無意識にはこの恐怖感があるのではないかと一度は疑ってみることである。

そしてこの「殺されるかもしれないという恐怖感」は、原点としてはエディプスコンプレックスであるが、この恐怖感は成長の過程で強化されてしまう危険性が高い。

いじめられるエディプスコンプレックスの人は戦わない人

つまり、この恐怖感を持つ人は怯えているから不当な力と戦えない

エディプスコンプレックスの人はだからいじめられやすい。

いじめる人は「だれをいじめるか?」で人を選ぶ。

いじめる人は戦わないエディプスコンプレックスの人をいじめる。

事実、ギルマーティンの調査を見ると、[子どものときにいじめられたか]という質問に対して、「恥ずかしがり屋の大学生」で81%、「恥ずかしがり屋の大人」で94%と異常に高い率を示している。

「自信のある大学生」は子どものときにいじめられていない。

子どものときにいじめられたのはなんと0%である。

この差はあまりにも歴然としている。

[ファイトバック(やり返す)したか?]という質問にもほぼ同じことが言える。

ファイトバックしない人は、「恥ずかしがり屋の大学生」で77%、「恥ずかしがり屋の大人」で94%、「自信のある大学生」は18%である。

幼少期から少年期へと成長する過程で「殺されるかもしれないという恐怖感」を持ち、それゆえに大人になっていく過程では、いじめる人の格好の餌食になってしまう。

エディプスコンプレックスの人はそうすればいよいよ人に近づくのは困難になるだろう。

いったん親との関係がうまくいかないと、エディプスコンプレックスの人は雪だるまのように恐怖感は強化されていく。

最悪の場合には、エディプスコンプレックスは対人恐怖症になったり、うつ病になったりすることのひとつの大きな原因になるのも不思議ではない。

子どもが親を恐れるのはエディプスコンプレックスばかりではない。

親の独占欲が子どもの罪悪感を生む

神経症的傾向の強い親はよく子どもを恨む

それは神経症的傾向の強い人は、人に対して独占的になるからである。

独占欲が強い。

たとえば独占欲が強い親は、子どもが友達と喜んで遊ぶことは不愉快である。

とにかく親である自分以外の人と子どもが親しくなることを喜ばない。

親である自分以外の人と旅行に行くのを喜ばない。

神経症的傾向の強い親は、子どもの忠誠で自分の心を癒しているのである

神経症的傾向の強い親は、自分の子どもへの要求がきわめて激しい。

その激しさについては案外、多くの著名な精神分析学者は気がついていないようである。

これは子どもがまだ小さいころだけではない。

親が神経症的傾向の強い場合には、子どもが大人になってもその要求はすさまじい。

たとえば自分の息子が結婚したとする。

配偶者の両親を大切にしようものなら、本気で殺したいと殺意を抱く。

その激しさはその親の神経症の程度による

つまり、この親の独占欲を、子どは小さいころから察知するということである。

しかし子どもは友達と遊びたいし、学校に行く年齢になればいろいろな行事に参加する。

しだいに親とは別の世界をつくりだす。

この「親とは別の世界」をつくりだしたときに、子どもは罪悪感を持つ。

その罪悪感の程度は、親の神経症の程度によって違ってくる。

親の子どもに対する独占欲が強ければ強いほど、子どもの罪悪感は激しくなる。

その親が神経症的傾向の強い場合には、エディプスコンプレックスの人は「殺されるかもしれないという恐怖感」を持つ。

もちろんその恐怖感は心の底に抑圧される。

意識されない。

しかし、その抑圧された「殺されるかもしれないという恐怖感」は、そのエディプスコンプレックスの子の心を支配している。

おそらくそういうことが背景にあって、恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人は子ども時代が楽しくはないのだろう。

ギルマーティンの調査を見ると「恥ずかしがり屋の大人」は、自分の子ども時代をほんとうに子どもではなかったと感じていることが多い。

それに対して「自信のある大学生」でそんなことを感じている人はゼロである。

正確な数字をあげれば「恥ずかしがり屋の大学生」で59%、「恥ずかしがり屋の大人」で71%。

「自信のある大学生」で0%である。

親に逆らう願望プロメテウスコンプレックス

プロメテウスコンプレックスといわれているものがある

プロメテウスはギリシア神話に出てくる。

ゼウスは人間に火を与えなかった。

プロメテウスはゼウスを欺いて火を盗んでくる。

火を盗んで人間に幸せをもたらす。

人は幼児期に火遊びをする。

自立していくためには火遊びをしなければならない

子どもが自立していく過程で避けがたい火遊び。

父親の目を盗み、危険を冒して火遊びをする。

親の神経症的傾向が強いと、子どもはこの火遊びができない。

火遊びをしようとする気持ちが心の中で動けば、まさに心の底にある「殺されるかもしれないという恐怖感」が動く。

それはものすごい罪悪感である。

とても怖くて親に逆らうことはできない

こうして火遊び願望は挫折した欲望となって、その人の心の底に存在し続ける。

エリートが四十代になってから心の中でプロメテウスが動き出して、罪責感との板挟みで自殺する人もいるという。

親の意向に逆らうことが子どもにとってどのくらい恐ろしいかは、これまた親の神経症的傾向の程度によって違ってくる。

親が強度の神経症者であれば、子どもが自立への動きをすれば、ほんとうにころされかねないトラブルに発展していく可能性だってある。

親も死ぬ覚悟で子どもの自立に反対してくる。

子どもの自立は神経症的傾向の強い親にとっても生きるか死ぬかの大問題だからである。

神経症的傾向の強い親は子どもを占有することで生きていられるのである

それだけに子どもの些細な言動に心理的に大きく影響される。

ときにはちょっとしたひと言で激怒する。

それだけ子どもの言動が大切だということである。

神経症的傾向の強い親は人間関係でいろいろなトラブルを抱える。

もちろん、そのトラブルを解決する能力はない。

しかし現実に生きるということは、そのトラブルをなんとかしなければ生きていけない。

そこで自分の感情の捌け口が必要になる

それが子どもである。

家のなかにゴミ箱がなければ、家のなかはキレイには維持できない。

それと同じで、親は子どもという感情のゴミ箱が必要なのである。

「心の殺人者としての親」

たとえば父親である夫が神経症者であるとする。

妻との関係がうまくいかない。

妻に憎しみを持つ。

しかしエディプスコンプレックスの父親は弱いからそれを意識できない。

無意識の領域に憎しみを追いやる

そこでエディプスコンプレックスの人はイライラする。

そのイライラを子どもに向けて発散することで解消する。

神経症的傾向の強い親は心理的に辛い。

何かを「すべき」だという「べきの暴君」に苦しむ。

すると、その辛さを子どもにプレッシャーをかけることで解消する。

これは精神分析に関する数々の名著があるカレン・ホルナイの言う「内的強制の外化」と言われる心理現象である。

つまりエディプスコンプレックスの人は子どもの心を縛っていく。

「べきの暴君」という用語もカレン・ホルナイの言葉である

そうしたときには、エディプスコンプレックスの親は確実に子どもの「心の殺人者」として現れている。

いずれにしろ神経症的傾向の強いエディプスコンプレックスの親は、その子どもによって心理的バランスを維持できている。

その子どもがいなくなれば生きていけない。

したがって子どもの心にプロメテウスが動き出したことを察知したときには、神経症的傾向の強い親は殺人的憎しみで子どもに立ち向かう。

親は殺したり殺されたりという激しい憎しみで心理的パニックになっている。

つまり神経症的傾向の強いエディプスコンプレックスの親はみずからの生命の維持に、「感情の掃き溜めとなる従順な子ども」を必要としているのである。

子どもの側からすれば「殺されるかもしれないという恐怖感」を持つのは当たり前である

しかし従順を強いられている以上、エディプスコンプレックスの人はその恐怖感を意識することは許されない。

無意識では親を恐れ憎んでいても、意識では親に対して「立派な親」であることを感謝していなければならない。

しかし、どんなに意識の上で親に感謝をしても、エディプスコンプレックスの人はこの「殺されるかもしれないという恐怖感」は無意識の領域で確実に息づいている。

ある従順なエディプスコンプレックスの息子は配偶者の親と一緒に旅行したときに、夢の中で自分の父親に刃物を持って追い回される夢を見ている。

その人は、親が鋭利な刃物を持って自分におそいかかってくるのを、夢からさめてもよく覚えている。

また別のエディプスコンプレックスの人は父親から暗闇の部屋に追い込まれて、毒蛇を放たれた夢を見ている。

恐ろしさにうなされて起きている

つまりその旅行などは、子どもを占有することで生きてきた実の父親の意向に逆らうことだからである。

そして親に殺されそうになる時に、守ってくれる人は一人もいないということが、この夢の解釈では大切なところである。

つまり親との関係がこのように歪んでいるときには、そのエディプスコンプレックスの子どもの周囲にいる人は冷たい。

母親をはじめ周囲の人は、そのエディプスコンプレックスの子を神経症の父親の生けにえにしながら、自分たちの安全を保っているのである。

その子は、親兄弟をはじめそういう冷たい人たちのなかにいる。

しかしエディプスコンプレックスの人はそのことには気がついていない。

そういう家族はたいてい「家族の愛」を唱えている。

みなで「家族の愛」を高らかに合唱している。

そのエディプスコンプレックスの子も意識の上では「家族仲良く」と思っている。

しかし無意識では、自分がひとりであることを知っている。

意識では「家族仲良く」であるが、無意識には孤独感がある。

このように家族の生け贄になっているエディプスコンプレックスの子が恥ずかしがり屋であり、そしてさらにうつ病などをはじめ心理的に病んでいくのである。

愛されて育った子、責められて育った子

愛されて育った人は、親が子どもを憎むとか、子どもを責めるとか、子どもを恨むとかいうことについてはなかなか理解できない

しかし子どもが受験に失敗したときに、子どもを責めるエディプスコンプレックスの母親がいることは認めるであろう。

子どもが不合格になって、心が傷ついているときに、「なんであなたはもっと勉強しなかったのよ」と子どもを責めるエディプスコンプレックスの母親がいることは認めるだろう。

では、なぜ子どもが傷ついているのに、さらに子どもを責めるのだろうか?

ふつうは子どもが傷ついているのだから、慰め励ますのが母親として当たり前である。

責めるのは、エディプスコンプレックスの母親が子どもの合格で自分の心の傷を癒やそうとしていたからである。

そのエディプスコンプレックスの母親はおそらく小さい頃、何か屈辱的な体験をして心が傷ついているのだろう。

その心の傷を子どもの成功で癒そうとしていたのである。

しかし癒せなかった。

そこで人は傷ついて苦しんでいる子どもの傷に塩を塗るようなことをする。

もしかするとそのエディプスコンプレックスの母親は親戚中でいちばん貧しくて、親戚の集まりではいつもイヤな体験をしていたのかもしれない。

そんなときにたまたま子どもの出来がいい。

そこでその子どもの成功で親戚を見返せると思った

親戚中の子どもが合格できないような有名校に合格することを期待した。

しかし失敗した。

だからエディプスコンプレックスの母親は傷ついている子どもをさらに責めるのである。

世の中には子どもの失敗を許せないエディプスコンプレックスの母親がいる。

それは子どもに自分の心の傷を癒やすことを求めているのである。

抽象的な言い方をすれば、エディプスコンプレックスの母親は子どもに愛を求めている。

人は、子どもだけが親に愛を求めると思っている

しかしこれは大きな間違いである。

母性的保護を失った子どもの観察で名高いボウルビィの言う「親子の役割逆転」は、そのことを言っている。

神経症的傾向の強い親は子どもに無条件の愛を執拗に求める。

そして子どもから愛されないと子どもを憎み、子どもを責め、子どもを恨む。

だから恨まれているエディプスコンプレックスの子どもはたいていやさしくて出来がよい。

神経症的傾向の強いエディプスコンプレックスの親は出来の悪い子は見捨てる。

いては邪魔なのである。

出来の悪い子では、世間を見返せないからである

心の傷を癒やせないからである。

世の中には親から愛されて育った子もいれば、親から愛を求められ、親の心の傷を癒やせなかったがゆえに憎まれて育ったエディプスコンプレックスの子もいる。

世の中には親から可愛がられて育った子もいれば、親にもてあそばれて育ったエディプスコンプレックスの子もいる。

傷ついたとき、親に癒された子もいれば、傷ついたときに親に塩を塗られたエディプスコンプレックスの子もいる。

それをすべて同じ親子関係と考えて、親子関係を説明しようとするから、人間の本質がわからなくなるのである。

いずれにしろ私たち人間には、エディプスコンプレックスやプロメテウスコンプレックスなど解決を求められているさまざまな心理的課題がある。

その課題の解決の難しさは人によってまったく違う。

エディプスコンプレックスの人はそれが長く苦しい命がけの作業になる人もいれば、それに失敗して自殺する人もいる。

逆にそれを意識することすらなく、いつのまにかすましてしまうエディプスコンプレックスの人もいる。

だから人と一緒にいて居心地が悪いと言う恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人もいれば、人といて楽しいと言う人もいる。

自意識過剰で相手をまったく見ていない恥ずかしがり屋のエディプスコンプレックスの人もいれば、相手をよく観察している人もいる。

エディプスコンプレックスの人は決して屈してはいけない

「殺されるかもしれないという恐怖感」は厚く閉ざされた氷の下で生きている

湖に張った厚い氷の下で魚が生きているのと同じように、エディプスコンプレックスの人の「殺されるかもしれないという恐怖感」は厚い氷の下で生きている。

その氷はなかなか解けない。

氷が解けて春が来るように、人間の場合にもその頑強な意識の抵抗がだんだんと弱くなって、エディプスコンプレックスの人はある日突然「殺されるかもしれないという恐怖感」が意識の上に表れることもある。

その恐怖感が意識化されて春が来る。

幸せになる。

人が怖くなくなる。

自己主張ができるようになる。

人に助けを求められるようになる。

人とコミュニケーションができるようになる。

自分の感情を表現できるようになる

それがエディプスコンプレックスやプロメテウスコンプレックスが解消されたときである。

これらのコンプレックスが解消されたとき、人生の未解決な課題が解決されて、恥ずかしさの心理も消えていくのである。

先にも記した通り氷の厚さは人によって違う。

北極の氷のように厚い氷もあれば、張っているか張っていないかも分からないような薄い氷もある。

でも氷が厚いことがすべて悪いわけではない。

北海道の春と沖縄の春とではどちらが美しいだろうか

どちらの春が「ああ、春が来たー」という感動を呼ぶだろうか。

それは人それぞれである。

アメリカだって同じである。

東海岸のボストンの人の中には、西海岸のロスのほうが気候がいいと言ってロスに移り住もうとする人がいる。

たしかに一般的にはロスのほうが気候がいいと言われている。

しかしボストン郊外の湖の厚い氷が解けて「ああ、春が来たー」という感動は、ロスでは決して味わえない。

どちらになるかはその人の運命である

「親から殺されるかもしれないという恐怖感」など想像ができないような環境に生まれる人もいれば、「親から殺されるかもしれないという恐怖感」にエディプスコンプレックスの人はビクビクと怯えて生きなければならない環境に生まれる人もいる。

前者の人は自分の環境に感謝をすればいいのだし、後者のエディプスコンプレックスの人は自分の環境を乗り越えればいいのである。

それを乗り越えたときには「生きたー」という実感が生まれる。

それは何にも代えがたいものである。

エディプスコンプレックスの人はそれは名誉や権力や財産では決して得ることのできない感動の体験である。

ただそれには莫大なエネルギーを必要とする。

チャーチルはヒトラーとの戦いで「ネバーギブアップ」と言った。

それは「あきらめるな」と訳されている。

でもそれを「決して屈するな」と訳したい。

あなたは運命の戦いで「決して屈するな」。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著