回避を脱する上でカギを握るのは、自分が問題から逃げていることに気づき、もう逃げないと覚悟を決めることである。

立ちはだかっている課題に向かっていこうと決心することである。

後に精神医学の世界的大家となるカール・ユングは、少年の頃、今の時代に生まれていれば、「発達障害」とか「自閉症スペクトラム」という診断を受けるようなタイプの子どもだった。

他の子どもとうまく遊べず、空想の世界に浸って一人で遊ぶのを好んだ。

空想と現実を混同してしまい、常識はずれないたずらをしてよく叱られた。

不器用で運動が苦手で、神経質で不安が強いところもあった。

引っ込み思案で不安の強い傾向には、遺伝要因だけでなく、養育環境の影響もあっただろう。

カール・ユングの母親は不安定な人で、子どもに対する関心が薄かった。

カール・ユングもそんな母親に対しては近寄りがたさを覚え、夜いつも一緒に寝るのは、父親とだった。

だが、父親も浮世離れした回避型愛着スタイルの人物で、父親にも母親にも、カール・ユングは安心できる関係をもつことができなかった。

父親は小さな村の牧師で、古代語の研究者を目指したこともあり、家には古い書物がたくさんあったため、カール・ユングは文字や本に早くから関心を抱いた。

地元の小学校では成績も良く、牧師の息子として特別扱いされていたので、過敏なカール・ユング少年も大過なく過ごすことができた。

状況が変わったのは、十歳になり、バーゼルの町のギムナジウムに通い始めたことからである。

そこに集まる生徒は、周辺の町村の中でも選りすぐりの、裕福で社会的地位も高い家の子息ばかりだった。

貧しかったカール・ユングは、穴の開いた靴をはき、冴えない服装で学校に通わなければならないわが身に、恥ずかしさや劣等感を覚えるようになった。

そのうえカール・ユングは、自信をもっていた学業でも挫折を味わう。

村の小学校では優等生だったが、秀才ぞろいのギムナジウムでは平凡な生徒でしかなかった。

しかも、不器用なカール・ユングは図工や体育が苦手な上に、代数の成績も悪かった。

数学の抽象的な概念が理解できなかったのだ。

教師たちもカール・ユング少年を劣等生扱いし、彼のプライドはズタズタになった。

こうしてカール・ユングにとって、学校は嫌でたまらないところになっていった。

十二歳のとき、他の生徒に突き飛ばされた拍子に、歩道の縁石で頭を打ち、意識を失った。

その瞬間、カール・ユング少年の脳裏に、もう学校にいかなくて済むという考えが駆け抜けたという。

以来、意識を失っては倒れるという発作を繰り返すようになった。

発作が起きるのは、必ず面倒な課題を課せられたときだった。

この発作は、かつてはヒステリーと呼ばれ、今日では転換症状と呼ばれるものである。

転換症状は身体症状を引き起こすことによって、心的ストレスから逃れようとするものである。

つまり「疾病利得」を得るのである。

カール・ユング少年がひそかに期待したように、両親はギムナジウムを休ませることにした。

彼は誰にも邪魔されず、好きな遊びや読書をし、漫画を書き、空想に耽って時間を過ごせる身分となった。

にもかかわらず、カール・ユング少年の気持ちは晴れなかった。

これについてカール・ユングは「自分から逃げていることに何となく気づいていたのだ」と自伝の中で語っている。

カール・ユングの病状を診察した医師たちは、てんかん発作かもしれないと言い、だとすると、当時の医学では完治する見込みはなかった。

両親は悲観し、息子の行く末を案じた。

欠席が半年ほど続いたある日、カール・ユングは父親が訪問客に心中を打ち明けるのを耳にしてしまう。

「もし医者が言うような病気なら、あの子はもう自活することもできないだろう」

父親の悲嘆に暮れた言葉を聞いたとき、カール・ユング少年は、自分の未来がこのままでは閉ざされてしまうかもしれないという危機感を抱いた。

その瞬間、心の中で何かが起きた。

彼自身が自伝に記している言葉を引用しよう。

「私は雷にでも打たれたかのようだった。

これこそ現実との衝突であった。

『ああ、そうか。頑張らなくちゃならないんだ』という考えが頭の中を駆け抜けた。

それ以来、わたしは真面目な子どもになった。

静かにその場を離れ、父の書斎に入り、自分のラテン語の教科書を取り出し、身を入れて勉強しはじめた。

10分後、失神発作があった。

椅子からもう少しで落ちるところだった。

だが、何分も経たないうちに再び気分がよくなって、勉強を続けた。

『こん畜生!失神なんかするものか』と自分に言い聞かせて、そのまま先へと進んだ。

およそ15分もすると、二度目の発作が来たが、最初の発作とおなじく過ぎていった。

『今こそ、まっしぐらに勉強するぞ!』と、わたしは頑張った。

そしてさらに半時間後、三度目の発作が襲ってきた。

なお、わたしは屈服せず、もう半時間勉強した。

ついに発作が克服されたということを実感した。

急にこれまでの何カ月にもまして気分が良いのを感じた。

事実、発作はもう二度と繰り返されなかった。

その日以来、わたしは毎日文法書と練習帳で勉強した。

数週間後、再び登校するようになった。

学校でも発作に襲われることはなかった。

魔法はすっかり解けた」(『ユング自伝』)

こうして、ユングが「このままでいいのか」と自分の心に問いかけ、自分の人生から逃げないという覚悟を決めた時、回復の瞬間は訪れたのである。

そして、自身の経験からカール・ユングは、精神的な症状が、苦しみに向き合うのから逃げることで起きるということ、その苦しみに向き合うしか、真の克服はないということを学んだのである。

トラウマ記憶と症状の二重のハードル

回避という状況をつくり上げている心理構造は、二重の回避反応によって強化されている。

一つは、心が傷ついた状態で、傷を再び受ける危険のある場面や状況を避けようとする防衛反応である。

これは、不快な経験をしたときに、誰にでも生じ得る回避反応である。

もう一つは、次の段階として、回避に失敗したときに生じる精神的動揺や拒否反応である。

これは、身体的症状としてあらわれることもあり、この場合、回避している場面や状況に再び飛び込んでいくのは、とても恐ろしく困難なことになる。

カール・ユングの場合であれば、クラスメートからのいじめやからかい、失敗によって生じた心の傷や劣等感がまずあった。

だからそういう危険のある学校に行くことは、できれば避けたいという思いがある。

その思いが、失神発作という症状として表面化すると、失神発作を避けるために学校を休むということが正当化され、回避に根拠が与えられる。

失神発作がある限り学校には行けないということによって、学校という傷つけられる場所を回避することができる。

言い換えれば、傷つくのを避けることに成功したということである。

失神発作という症状は、それを周囲にも自分にも納得させるために必要だったわけである。

こうした状況にあるとき、周りが無理やり学校に行かそうとしたところで、失神発作が悪化するだけで、何の益もなかっただろう。

ではなぜ、カール・ユング少年は、この二重の回避のワナから抜け出すことができたのか。

それは、目先の快不快ではなく、人生というもっと大きな視点で自分の状況を振り返ることができたからだ。

それは、自分のしていることが、自分の可能性を狭め、向き合いたくない場面から逃げているだけだということを悟るとともに、そうした生き方に対して自分からノーと叫び、人生を取り戻すために自分を変えようと決意することであった。

回避を乗り越えるためには、このプロセスが必要になる。

つらい現実や不安に向き合うことの恐怖よりも、人生の可能性を失ってしまうことの恐怖の方が大きくなり、逃げていた現実や不安に立ち向かっていこうと、心のありようが180度転回するのである。

それはカール・ユング少年のように、ある瞬間に急激に生じることもあれば、長い時間がかかることもある。

急激に生じたように思える場合も、実際にはすこしずつ転回が準備され、何かのきっかけで、それをはっきりと自覚するようになるのがふつうだ。

カール・ユング少年の場合も、半年の間ぶらぶらして過ごしながら、その退屈な思いや逃げているという呵責を味わう中で、決定的な気づきの瞬間が用意されていたのだろう。

時間の長短はあるが、回避のワナを克服する人は、必ずこうした心理的転回を経験する。

「逃げていてもしょうがない」「どんなに不安でも、飛び込んでいくしかないんだ」-そう腹をくくるのである。

すると、不思議なことに、それまで不安で、怖くて、とても近寄れないと思えた状況が、それほど大したことではないように思えてくる。

そして、実際飛び込んでみると、その状況が、自分の不安がつくり出した幻にすぎないことがわかる。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著