この項目の「コントロール」という言葉は、ほとんどの人がよく知っているでしょう。

けれど私たちは、「ある程度」という言葉の意味がつかめません。

コントロールというのは、できているかできていないかのどちらかに思えてしまうのです。

コントロールを「すべてか無か」で考えてきた私達の経験からいえば、それを手放す気になど到底なれないでしょう。

手放すとは「コントロールを失う」ことと同じだと信じ込んでいるからです。

自分をとりまく環境があなたに及ぼす力をコントロールしようとするのは、生き延びるためのメカニズムです。

それは身体的な意味での自衛手段でもあるでしょう。

そして、子ども時代のあなたにとって生きる意味を与えてくれるものでもあったのです。

物事をコントロールしようとする態度は、不安定で予測のつかない家族の生活に秩序と安定をもたらそうとする試みです。

子どもがどうしていいかわからず、無力感や怖れに圧倒されそうなとき、コントロールというのは力の感覚を与えてくれます。

子どもが身につけるコントロールの方法は二つあります。

一つは外面のコントロール。

つまり自分の周囲の物事に対して支配権を握ろうとすることです。

もうひとつは内面のコントロール。

自分の感情や望みを抑え込んで不都合を起こさないようにすることです。

ある子どもたちは外面をコントロールすることで、生活の中の問題をなんとか切り抜けようとします。

自分や兄弟に対して親代わりとなって物事を処理しようとしたり、中には母親や父親の親代わりをする子どももいます。

アダルトチルドレンを抱えていたティムは十一歳のとき、弟や妹がベッドに入る時間を管理していました。

寝る前にちゃんとお風呂にも入らせていました。

文字通り彼の責任で面倒をみていたのです。

朝になると、学校に行く前に弟たちの昼食が準備できているかどうか確かめるのも忘れませんでした。

こうやって子どもたちは、生活の中に秩序と安全をもたらそうと全力を尽くします。

他の人をコントロールし、物事をコントロールし、その場をコントロールしようとするのです。

多くの子どもたちは、外面のコントロールと同時に、自分の心の中にある目にみえないものもコントロールしようとします。

自分の感情を抑えるのが非常に上手になる子どももいます。

こうやって感情の切り捨てが始まるのです。

「怒ってなんかいない。

どうしていちいち怒ることがある?

どうせ前にもあったことだし」

「別に恥ずかしくなんかない。

もう慣れてしまったもの」

「ううん、悲しくなんかない。

この前私が泣いたら、散々ひどいこと言われたじゃない」

ニーズを抑えて、何かを期待したりほしがったりしなくなる子どもたちもいます。

「別に友達の家に行かなくたっていい。

だって、誰が妹の面倒をみるの?」

「誕生パーティーがなくたってかまわない。

どうせお父さんはいてくれないんだし」

「お母さんがPTAの集まりにでてくれなくたっていい。

この前に来た時は、ひどいことになったもの」

これらは目に見えない内面でのコントロールです。

望みや感じていることを抑えこむよう自分をコントロールすることで、これ以上の痛みに直面しないよう防衛しているのです。

孤独の中に閉じこもることで自分をコントロールする子どももいます。

片隅に身を潜めて本を読むのです。

自分の部屋で想像の世界に浸ったり、十代になるとなるべく家にいないようにしたりします。

彼らは人付き合いを避けてこんな境界をつくるのです。

「私に近づくな。

あなたなんて必要じゃないし、一緒にいてほしいとは思わない。

私がつらい感情を見なくてすむように、一人で安全にできることをさせておいて」。

子ども時代の体験によって、その人のコントロールの強さや方法は異なります。

けれど私がたくさんの人に出会ってきた中で、いつでも次の点は共通していました。

1.身体的、情緒的に家族の中での混乱がひどいほど、子どもはあらゆる面でのコントロールの必要性を強く感じる。

2.家族の問題状況がより早いうちに始まって進行した場合ほど、子どもは外面よりも内面をコントロールするようになる。

3.家族の中で外面の問題をコントロールしている子どもがすでにいる場合、別の子どもはその必要がないため、自分の内面をコントロールするようになりがち。

4.外面をコントロールする人は自分の内面もコントロールする。

ただし逆は成り立つとは限らず、内面だけをコントロールする人もいる。

子ども時代の私達にとって、外面のコントロールも、内面のコントロールも、生き延びるための努力でした。

その環境の中では、意味のあることだったのです。

残念ながら、今でもコントロールの必要性に駆られていることによって、おとなとしての生活に問題が起きています。

私達は何年もの間、自分を守ろうとして過度に警戒し、他人や自分をあやつろうとしてきました。

他人へのコントロールは、「こうしろ」と命じるあからさまなものに限りません。

親切をよそおったり、犠牲者を演じたり、不機嫌な態度をとることで、相手を動かそうとすることもあります。

私たちは自分の物の見方にこだわって視野が狭まっているため、他の人から見れば明らかなことが分かりません―自分が頑固で、権威主義的で、要求が厳しく、融通がきかず、完全主義になっているということが。

私達は他の人が言うことに聞く耳を持ちません。

会話でも人間関係でも相手を締め出しています。

助けを求めようとしません。

他の選択肢が考えつかないのです。

私達は安全を確保することに目を奪われて、しばしば自分の内面はお留守になり、怖れと自己否定感でいっぱいになって、おなじみの手段に頼ります―コントロールです。

けれどその結果は、私達が望んだものとは逆です。

ニーズは満たされません。

人間関係はバランスを失います。

結局は、警戒し過ぎて疲れきってしまいます。

けれど悲しいことに、他にどうやっていいのかわからないのです。

物事が正しく進んでいくように必死になっているのに、なぜまずいことになるのかわからなくて混乱しながら、うつの波に襲われたり、悲しみや痛みに対処するための不健康な方法に頼ってしばしば何かに依存したりします。

子ども時代に自分の生活をコントロールしようとしていたことに気付かない人もいて、そんな人はよく、親がいかに自分をコントロールしようとしたかという話をし、自分はその犠牲者なのだとほのめかします。

こうした人は、おとなになって次の二つのいずれかの態度をとるようになります。

ひとつには犠牲者の立場をとり続けて、自分をコントロールしようとする相手と関係をつくること。

もうひとつは管理者の不在を埋めるように自分で自分の生活のあらゆる面をコントロールしようとすることです。

後者の人達の多くは、外から見ると明らかにイライラしていますが、自分では怒りの感情に気付いていません。

ほとんどの場合、これは自分をコントロールしていた親との関係に対する怒りです。

長いこと続いていた親のコントロールに対して、おとなはさまざまな形で反応します。

たとえば摂食障害の人は、自分が何を口に入れ、何を入れないかコントロールすることで、それまで虐待に近いコントロールの中で無力だった自分を埋め合わせようとしているのです。

別の例をあげるなら、異性の親から強いコントロールを受けたことへの怒りから、パートナーを支配するような関係をつくることがあります。

女性の場合で言えば、父親からコントロールされたことへの怒りを、夫を支配することで表現するのです。

※参考文献:子どもを生きればおとなになれる<インナーアダルト>の育て方 クラウディア・ブラック著 水澤都加佐監訳