対人恐怖症の中に、「赤面恐怖症」というのがある。

普通の人は赤面を悪いとは思っていないが、対人恐怖症の人は赤面を悪い事と思っている。

「赤面恐怖症の人は赤面を屈辱的に解釈する」と説明されている。

しかしもっとよく考えてみると、「赤面が悪い」と思っているわけではない。

「自分が悪い、ありのままの自分はダメだ」と思っているのである。

そう自分を解釈しているから、自分が赤面すると自分の赤面を屈辱的に解釈するのである。

それがコンプレックスである。

傷を負った人ほど、立派な服をつけたがるコンプレックスの心理

コンプレックスが強い人は心がボロボロに傷ついている。

そのコンプレックスが強い自分を飾り立てているのがダイヤモンドであり、有名大学卒業という経歴であり、エリートコースである。

風呂には入っていないし、下着は汚れている。そこで体は臭い。

コンプレックスが強い人はそれなのに香水をつけて、ダイヤモンドをつけている。

外から見ると、ダイヤモンドが見えて香水が匂っている。

そういうことをしているのが、対人恐怖症のコンプレックスが強い人など、先に挙げた人達である。

コンプレックスが強い人は貧しい心の周りを、社会的成功がキラキラしている。

コンプレックスが強い人は外から見ると綺麗だが、中が汚れている花電車のようなものである。

コンプレックスが強い人はそうした中身の貧弱な自分を守るために、ダイヤモンドが必要なのである。

心理的に健康な人は自分を守る必要がないから、ダイヤモンドを必要としない。

心理的に健康な人ではなく、神経症的傾向の強いコンプレックスが強い人が、ダイヤモンドを身につけられない場合には無気力になる。

コンプレックスが強い人はボロボロに傷ついている心を癒すものがない。

コンプレックスが強い人はコミュニケーション能力がなくて、働く意欲もない人達である。

対人恐怖症のコンプレックスが強い人をはじめ、先に挙げた人達は「自分は人から嫌われる何かを持っている」と思い込んでいる。

「自分さえ自分が嫌いなのだから、他人もまた自分を嫌いだろう」と思うのは当然であろう。

自分がトマトを嫌いなときに、他人もまたトマトが嫌いだろうと思うのと同じである。

自分だけが持っている、「人から嫌われる何か」

ではその「人から嫌われる何か」とは何だろう。

実は、本当に嫌われるものが先天的にあるわけではない。

小さい頃から「お前は厄介者だ」「私はあなたが嫌いです」と言われてきたから、「自分は人から嫌われるものを持っている」と思い込んでしまった。

そしてそのコンプレックスがばれるのではないかと、おびえているのである。

べつにその人が小さい頃に特別厄介者であったわけではなく、周囲の人に愛する能力がなかっただけなのである。

そのコンプレックスが強い人も、愛されて育てば、自分をまったく違ってイメージしている。

しかしコンプレックスが強い彼らはそうした人間環境の中で育っているから、幼児的願望が満たされていない。

つまり、コンプレックスが強い人は大人になっても心の中は人よりもわがままで自己中心的である。

そうなれば、コンプレックスが強い人は何事も思うようにならない。

その結果、コンプレックスが強い人は憎しみを持つようになっている。

コンプレックスが強い人はその憎しみの感情を、心の底に抑え込んでいる。

コンプレックスが強い人は無意識に憎しみがある。

コンプレックスが強い人は憎しみの感情が強ければ、相手に心を開けない。

コンプレックスが強い人は「人とコミュニケーションするためには、心を開かなければならない」といわれても、心を開けない。

相手もまた、そのコンプレックスが強い人の無意識にある憎しみの感情に反応して近寄らない。

コンプレックスが強い人は溺れそうなら、藁にだって手を伸ばせ!

対人恐怖症のコンプレックスが強い人をはじめ、先に挙げた人達は、人生という川で溺れそうになっているのである。

しかし、コンプレックスが強い人はその危機意識がない。

コンプレックスが強い人は自分も、心理的に健康な人と同じ道を歩いていると思っている。

コンプレックスが強い人は自分は溺れそうになっていると思っていない。

コンプレックスが強い人はそれが、「現実にコミットしていない」ということである。

コンプレックスが強い人はそこで、助けてくれそうな人を探さない。

そしてコンプレックスが強い人は「オレはこれだけダイヤモンドを持っている」と叫んでいるようなものである。

でもコンプレックスが強い人は毎日を生きるのが苦しいから、「何かこれじゃーいけない」と心の底では思っている。

コンプレックスが強い人は何だかわからないが生きるのが辛いから、「今のままではいけない」と心の底では感じている。

もし人が生きるのが「何だか分からないけれども辛い、苦しい」と感じたら、人生の川で溺れかかっているのである。

これがうつ病者をはじめ、心に問題を抱えているコンプレックスが強い人である。

ところがコンプレックスが強い人は溺れかかっている姿をひとに見せたくない。

コンプレックスが強い人は自分が溺れていると認めたくない。

逆にコンプレックスが強い人は「オレはダイヤモンドを持っている」とダイヤモンドを見せるから、普通の人は「イヤな人だな」と思う。

助けてくれない。

助けるどころか、コンプレックスが強い人はダイヤモンドを見せるから、ダイヤモンド目当ての人ばかりが周囲に集まる。

コンプレックスが強い人にはずるい人が周囲に集まる。

質の悪い人達である。

溺れている姿を見せたときにきてくれる人が、溺れている自分に必要な人なのである。

対人恐怖症のコンプレックスが強い人達をはじめ、先に挙げた人たちは「オレはダイヤモンドを持っているぞー」と叫ぶから、周囲にはずるい人ばかりが集まる。

コンプレックスが強い人はいくら偉そうにして威張っていても、相手には心の底は見えている。

そのコンプレックスが強い人が社会的な立場が強くて、力があっても心の底は見えている。

だからコンプレックスが強い人が燃え尽きたときに周囲の人は、そのコンプレックスが強い燃え尽きた人に同情していないのである。

つまり質の悪い人しか周囲にいなくなっていたということである。

コンプレックスが強い社会的なエリートが不眠症になる、自律神経失調症になる、うつ病になる、中には自殺する。

コンプレックスが強い人は「オレはエリートだ」と思っていたのが、「オレはダイヤモンドを持っているぞー」と叫んでいたときである。

「オレは溺れかかっている、助けてくれー」と叫べば、まともな人が集まるのである。

ただ、コンプレックスが強い人は現実にはなかなか「助けてくれー」と叫べない。

それはそのコンプレックスが強い人達が憎しみを持っているからである。

「助けてくれー」と叫べるのは、素直な気持ちの人である。

素直な自己主張は「そのオダンゴ、ちょうだい」と言えること。

対人恐怖症のコンプレックスが強い人達をはじめ、先に挙げた人達は、川で溺れかかっているという比喩でなければ、いつも針の道を歩いているようなものである。

※参考文献:無理しない練習 「自分らしく」生きたほうが好かれる 加藤諦三著