ナルシシストへのアプローチの初め

自分のカムバックの邪魔になるからというので、同棲している女性を殺してしまった歌手が話題になったことがある。

この歌手がカムバックしようとしているとき、同棲している女性と一緒にいると不機嫌になったのではないだろうか。

再び華やかな舞台にあこがれる

再び皆からちやほやされたいと願っている。

そう願いつつ活動をつづけてファンなどが再び少しずつできてくる。

そのファンと会うとき、この女性が一緒に来たらどうなるか。

ファンとの会合に出かけていくのに、この女性が一緒だったらそのあいだ中、この歌手は不機嫌なのではなかろうか。

自分の身勝手な欲求にとって、この女性は邪魔なのである。

自分のわがままなナルシシズムの欲求の満足を妨害しているのがこの女性である。

このナルシシストの歌手は欲求不満になる。

ただいかに身勝手な歌手とはいえ、この女性を責めるわけにはいかない。

頭ではいくら何でも自分のほうがわるいということぐらいはわかっているだろうから。

ナルシシズムはちょうど神経症の原因が甘えたくても甘えられないところにあるように、不機嫌というのも攻撃したくとも攻撃できないところにある。

また一方で心理的にはその人に依存しているナルシシズムという場合もあるだろう

一方でその女性に心理的に依存しているので、その女性といることが精神的に必要でありながら、他方でその女性がナルシシストの自分の身勝手な欲求にとって邪魔になる。

こんな両価的なナルシシズムの状態のとき、人は不機嫌になる。

ナルシシズムはちょうど高校生が親を心理的に必要としながら、同時に自立への願望もある。

依存と独立への葛藤の中で、家がおもしろくなくて、家の中でふてくされているようなものである。

幼い子どもでいえば、プーッとふくれながら、お母さんの手を握っている。

ふつうの人は、今述べた歌手のように邪魔になったからといって相手を殺したりすることはない。

しかしこの歌手と同じくらい心理的に幼稚なナルシシストの人というのはいくらでもいる。

この歌手と同じように他人からちやほやされたいと願っているナルシシストの人はいくらでもいる。

そしてこの心理的に幼稚な歌手と同じように、自分がちやほやされるのに邪魔な存在となる人と一緒にいて不機嫌になっているナルシシストの人もまたいるであろう。

そうするとナルシシズムの内づらはどうしてもわるくなってしまう

ドン・ファンというタイプの男性がいる

Aという女性とつきあったかと思うと今度はBという女性に移り、さらにCへと心を移していく。

そしてまもなくDという女性にあこがれはじめる。

そしていつもいろいろな女性にもてていたい。

こんなドン・ファンの心理を考えてみると、ナルシシズムの不機嫌や内づらのわるさというものを理解する一助になるのではないか。

Aという女性に恋をした。

しかしBという女性にもあこがれた。

そしてAという女性との関係が定着してしまうと、このAという女性はBとの接近に邪魔になる。

こんなとき、ドン・ファン、ナルシシストは外づらがよく内づらがわるくなる。

そしてBという女性に対してはどちらかというと内気で謙遜をよそおい、Aという女性に対してはAの立場を無視したような身勝手な欲求を持つ。

自己中心的欲求が心の中を支配しはじめる。ナルシシズムである。

エーリッヒ・フロム(新フロイト派の精神分析学者)は、内気と謙遜の背後に人はナルシシズムを隠していることが多いというが、その通りであろう。

外づらのよさの背後にナルシシズムを隠している人がいる。

その隠されたナルシシズムがあらわれたのが内づらのわるさである。

外づらのよさが内づらのわるさに変化したときは、その外づらのよさの背後に隠していたものがあらわれてきたときである

自分のカムバックに邪魔になるといって同棲中の女性を殺した歌手だって、その女性に接近していくときは、ナルシシズムを自分にも相手の女性にも隠していたであろう。

ところがナルシシストは同棲をはじめると、その背後に隠していたものが表面に現われてきてしまう。

ナルシシストは身近な人になってくるとどうしても内にあるものがでてきてしまう。

その内にあるものとは、エゴイズムでありナルシシズムであり、母親固着であり、エゴセントリシティ―(自己中心性)である。

神経症者は、パーソナリティに矛盾を抱えている。

ナルシシストは冷酷な利己主義者でありながら、同時に行動はときに極端な非利己主義になる。

もちろんナルシシストは本質的には冷酷な利己主義者である。

ナルシシストは外づらが極端な非利己主義でありながら、内づらが冷酷な利己主義である。

それが「内づらがわるくて外づらがよい人」である。

ナルシシストはほめられたい

立派な人と思ってもらいたい

ナルシシストはほめられることで自分という存在がある。

ほめられることで自分の存在感を獲得する。

ナルシシストはそこで立派な行動をする。

立派な人になる。

ナルシシストは仕事で成功する。

行動特性としては立派な人である。

しかしその人の内づらはナルシシズムである。

社会的な言動がどうであれ、心はナルシシズムである。

だからナルシシストは傷つきやすい。

そしてナルシシストは傷ついて怒る。

ナルシシストは怒りを表現できなければ憂うつになる。

不機嫌になる。

ナルシシストだから、心は自分さえよければよい。

他者には無関心。

その結果、ナルシシストは「仕事で成功、人間関係で失敗」といわれる人になる。

「内づらがわるくて外づらがよい」というのも心理的にはナルシシズムと同じである

ナルシシストの外づらのよさは「仕事で成功」の部分である。

それがナルシシストの行動特性である。

「内づらがわるくて外づらがよい」は神経症の一つの症状であるが、同時にナルシシストの特徴でもある。

ナルシシストは慈善事業をしているような立派な人がいる。

そういうナルシシストな人が家で家族に暴力をふるう。

ナチスの幹部のような極悪な人の親が、敬虔なクリスチャンということがある。

敬虔なクリスチャンが外づらで、子どもに示す内づらはひどかったのだろう。

おそらく彼らの親はナルシシストなのである。

ナルシシストは子どもには関心がない。

でもナルシシストは敬虔なクリスチャンだという。

ナルシシストは子どもの言動が自分の評価の障害になれば子供に怒りがわく。

ナルシシストの子どもが残虐な大人に成長しても不思議ではない

社会的に大問題を起こすような「よい子」は、親子ともども皆ナルシシストなのである。

ナルシシストはほめられたい。

ほめられることで自分という存在を確認している。

つまりナルシシストは親も子どもも、心理的に成長することに失敗している。

一口にナルシシズムといっても、ナルシシズムには二種類がある

そう考えないと、いろいろなナルシシズム現象は理解できない。

ナルシシストは賞賛を求める、ほめられることを求める。

しかもその特徴は「受身的に」求めることである。

これはフロムがいう謙遜の裏に傲慢があるということに通じる。

ナルシシストは、あからさまに優越や才能を誇示しないが、気付かれないように密かに賞賛を求めている。

この種のナルシシストはもっとも質がわるい。

あからさまのナルシシストのほうがまだ気分がよい。

これを「隠されたナルシシズム」という。

ナルシシストは「私なんか、私のような者が」といいながらも、賞賛を求めている

ナルシシストは「私のような者が」といいながらも、隠れたるメッセージとして結婚を要求し、しっかりと結婚するような女性である。

肉体的精神的ヒポコンドリーに存在するナルシシズムは、見分けにくいが、虚栄心の強い人のナルシシズムも同じである

ナルシシストは自分に対する賞賛を求めるけれど、他者の意見には注意を払わない。

そしてナルシシストは軽蔑的な無関心を示す。

ナルシシストは無関心で「相手にしていない」というよりも、「私は、あなたのような人を相手にしないわ」という侮辱的な態度の無関心である。

批判に敏感ということはすでに指摘している。

そして隠されたナルシシズムは特に批判に敏感なのである。

さらに、ナルシシストの問題は、批判でないことさえも批判と受けとってしまうことである。

おそらくナルシシストは心の居場所がないのであろう。

ナルシシストはどこにいても自分の居場所がない。

心がほっとする場所がない。

ナルシシストはありのままの自分でいられる場所がない。

自己陶酔しながらも安心して「ありのままの自分」でいる場所がない。

ナルシシストはどこにいても自分でない自分を見せていなければならない。

そうした心の居場所がないナルシシストは、おそらく「他者による自分の評価」にしがみついて生きていなければならない。

自己執着である

ナルシシストは自分の心が「まわりの人は自分をどう思っているか」ということに占拠されている。

自我の確認が他者に逃避している。

ナルシシストはとにかく自分がよく思われることで精一杯。

人のことを考える心のゆとりがない。

自分の心の居場所があれば、批判に異常に敏感になる必要はない。

批判に対して敏感なのは「隠れたるナルシシスト」である。

「隠れたるナルシシスト」は否定的な感情を内づら化している。

悲観主義者は「隠れたるナルシシスト」である

ナルシシストは否定的な感情を内づら化しているから、将来を悲観的に見る。

誇大な自我のイメージを持ち、自己陶酔していながらも無意識では「自分は偽物である」と感じている。

意識における誇大な自我イメージと、無意識での「自分は偽物である」という自己イメージの矛盾がナルシシストのパーソナリティである。

ネガティブ・ナルシシズムは、その偽物コンプレックスが表面化したものである

ナルシシズムは劣等感と優越感が同じコインの表と裏である。

ナルシシストはどんなに誇大な自我イメージを持ち、自己陶酔していようとも、心の底では自分は本物でないと感じている。

とにかく無意識の領域では自己蔑視が激しい。

ナルシシストはだから現実が怖いのである。

うぬぼれながらも心の底では「あいつは俺と違って本物だ」というような劣等感がある。

それがナルシシズムの現実への怯えである。

ナルシシズムは思想家であるカール・ヒルティ―のいう「外で子羊、家で狼」である。

それもナルシシストである。

それは外ではナルシシズムの偽物コンプレックスの側があらわれ、怯えて自信がない

ナルシシストはそこでやたらに迎合する。

家では誇大な自我のイメージの側があらわれて凶暴になっているのである。

家ではナルシシスト、外ではネガティブ・ナルシシストといってもよいだろう。

ナルシシズムは現れ方が正反対であるが、本質は同じである。

ナルシシストが救われるためには、自分の無意識に偽物コンプレックスがあるということを認めて、それに直面し、それを乗り越える以外にはない。

ナルシシストは内づらがわるくて外づらがよい人も、同じである。

自分の心の底にナルシシズムがあることを認められるか、 認められないかである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著