”責めていないのに、責められていると感じる”

たとえば、親が恨みがましい性格であるとする。

つまり、いつも子供に「罪悪感を持て」という要求を暗にしている。

その結果、子供は被責妄想になる。

つまり、責められていないのに責められていると感じてしまう。

だからこそ逆に、誰からも好かれようとするのである。

誰からも好かれていないと不安なのである。

そうした破壊的メッセージで心が深く傷ついていれば当然、「この破壊的メッセージを消してくれ」という願望が出てくる。

この要求が、幼児的願望の要求と一緒になる。

この二つの要求が一緒になった時に、生まれつき誰もが持っている幼児的願望をはるかに超えたもの凄い欲求となる。

その欲求のはげしさに、普通の人は耐えられない。

それが神経症的欲求である。

いつもいつも誉められることを求める。

相手に犠牲的献身を求める。

自分のほうから人を愛する気持ちは全くなく、ただただ愛されることを求める。

だから、この要求の激しさに世の中の普通の人は耐えられなくなって、ノイローゼの人から逃げ出すのである。

ノイローゼの人のむちゃくちゃな要求に接して、周囲の人は、「なんでそこまでするの」となる。

そして最後は「いい加減にしなさいよ、もうつきあいきれないわ」となってしまう。

普通の人は、「あの人には常識が通じないから」と言って去っていく。

したがって、ノイローゼの人やうつ病になるような人の周囲には、まともな人はいなくなる。

周囲にいる人は、その人を利用しようとする「質の悪い人」ばかりである。

かくて彼らは、最後には孤独に苦しむ。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、まずは周囲にいる質の悪い人たちと距離をとることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著