“壊れた心は外から見えない”

この満たされない幼児的願望と破壊的メッセージによって破壊された心が、人間に神経症的な不安を与える。

そうなると、一時として安心して生きていられない。
強迫性があると安心感がない。

幼児的願望が満たされ、破壊的メッセージが心の中から消えて、人は初めて安心感をもって生きられる。

それがないと、誰と一緒にいても、何となく責められているような気持ちになる。
被責妄想である。

実際には責められていないのに責められていると感じてしまう。

そして、今度は心の底で「ここまで一生懸命にしているのに、なんで俺は責められなければならないんだ」と責められていることに怒りを感じるようになる。

すると、自分を責めている人を責める気持ちになる。完全に一人芝居である。

自分を責めていない人が自分を責めていると誤解し、それに腹を立てて、今度は逆に相手を責める気持ちになる。

そうなるとどうなるか。相手は責められている気持になり、そのノイローゼの人と一緒にいても不愉快である。そして離れていく。

現実の危害がないからと言って、誰もが安心して生きていられるわけではない。

現実が平和で何の危険性がなくても、人は不安で生きられなくなる。

安心感とは心の問題で、外側の世界の危険の問題ではない。

安心して生きる、それは心の問題である。

人間は生まれた時に幼児的願望を持っている。

その状態を心理的に零歳とするならば人によっては二十歳になった時にはマイナス二十歳になる。

生まれた時には破壊的メッセージは与えられていない。

したがって、心理的には幼児の時の方が生きやすい。

幼児の時の方が生きる自信がある。

生命力の豊かな人は、うつ病になるような人や、ノイローゼの人に、「もう五十歳でしょう」という主旨のことをよく言うが、彼らは幼児よりもむしろ心理的には生きる能力がない。

だから、五十歳になって、うつ病者になったり自殺したりする人も出てくるのである。

生まれてから、日々、幼児的願望の方は満たされないままに、破壊的メッセージによって生きる能力を奪われ続けたのである。

世の中の普通の人は、彼らを五十歳と見る。

外側だけで五十歳と見る。

しかし、彼らの心は壊れている。

その壊れた心は外からは見えない。

そこで、「あの人はマイナス五十歳」ということが、どうしても理解できない。

その行き違いが、神経症者やうつ病の人を、いよいよ絶望感に追い込んでいくのである。

一応社会的にまともに働いている五十歳の人を、心理的にマイナス五十歳として扱うことは、世の中の普通の人には難しい。

”「自分には生きる価値がある」と繰り返し言いきかせる”

このような環境で育った人は、自分で自分を救うしかない。

そのためには親から与えられた破壊的メッセージを意識化して、それを繰り返し頭の中で否定していくことである。

自分は誰からも責められていない。

自分は生きる価値がある。

自分は誰にも気が引ける必要はない。

自分は皆に嫌がられていない。

自分は皆に嫌われていない。

自分はここにいてもよい。

自分は安心して生きていていい

このようなことを朝夕に繰り返し自分に言いきかせるのである。

これでもかこれでもかと繰り返すことである。

信じられないほど繰り返したと思ってから、さらに百万回は繰り返すことである。
死ぬまで繰り返すことである。

とにかく自分の脳の回路を変えることである。

そして、この脳の回路を変えるという大事業を成し遂げた時には、自分は天下を取るよりもすごいことをしたと評価していい。

幼児的願望を満たされないで頑張って生きている人は、天下を統一した織田信長よりも自分は凄い事業をしようとしているのだと思うことである。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するにはとにかく自分の脳の回路を変えることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三著