人が嫌いな人が自信をもつための心理

安心して「自分をさらす」ことのできる相手がいない

恥ずかしがり屋の人が嫌いな人は、「なんで?」と聞かれると不安になる。

人は「なんで?」と意味がなくても聞くことがある。

人はなんで不愉快になるのか。

それは気持ちがズレるから。

人が「なんで?」というのは、ズレを埋めようとしているだけ。

それが会話。

逆に恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、人から「いけない」と言われると、「どうしていけないの?」と聞けない。

信頼を築き上げる第一歩。

それが聞くこと。

「そのウエーバーの本を貸して」

「ダメ」

「なんでダメなの?」

それが会話。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はそれが聞けない。

本は読みたい。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、言えたら楽になる。

恥ずかしがり屋でない人が恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人に言った。

「君はかわいそうだよねー、言えたら楽だよ」

言えない人が嫌いな人は、損をする。

なぜなら、言えない人が嫌いな人にはずるい人が近寄る。

そして人が嫌いな人は利用される。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はコミュニケーションできないから誤解が多い。

「だから嫌いなのよ」と言われる。

相手は「そこが嫌い」と言っているのに、自分という存在そのものが嫌われていると思ってしまう。

人が自分の感情を表現するためには、相手に対する信頼感がなければ無理である。

相手に対する信頼感がなければ自分を出せない。

「自分を出す」ということは、コミュニケーションのなかで「自分をさらす」ということである。

相手に対する信頼感とは、相手が「実際の自分」を知っても、自分を見捨てないという安心感である。

自分をさらけ出しても傷つかないという安心感である。

その安心感のうえにコミュニケーションが可能になる。

一人では自分を出すということはない。

つまり恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は人とうまくコミュニケーションができない。

だらしのない格好は人前ではしない。

相手に不快感を与えるから。

それがマナーである。

しかし、ときに親しい人の前ではだらしのない格好をしてしまう。

それが許される。

それが親しいコミュニケーションである。

「なんでも話せる」という人間関係がこれである。

だれにでも「なんでも話していい」というわけではない。

だれにでも「何でも話して」はいけない。

人間の持っている反社会的なもの、非社会的なものをその人との関係のなかで消化する。

それが親しいコミュニケーションである。

会話が弾む。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人には、自分が、この人には受け入れられるという感覚がない。

社会的に望ましい存在ではなくても、「この人」は受け入れてくれるという安心感が自信につながる。

ありのままの自分が受け入れられると感じたときに、自己表現ができる。

そこにその人の個性が表れる。

「こんなことを言ったらバカにされる」という恐怖感や不安があれば、おしゃべりな人も無口になる。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人には、ありのままの自分が受け入れられる体験が必要。

しかし、ふつうの人は多少のリスクを冒しても自己表現をする。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はそのリスクを避けてしまう。

人が嫌いな人は拒絶されるのが怖い

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、自分の感情も自分の意見もうまく表現できない。

アメリカの社会学教授ブライアン・ギルマーティンは、十年以上にわたって恥ずかしがり屋の人の調査をしてきた。

彼は同性愛者を除くシャイな男性300人にインタビューをして調査した。

ニューヨークとロサンゼルスが中心で、うち25人は南部。

7つの大学でおこなったインタビューは三時間のつもりが多くは四時間になったという。

その鍵は社会的ひきこもり(social withdrawal)である。

そのギルマーティンの著書によると、[自分の感情を表すのが難しい]という質問に対して「恥ずかしがり屋の大学生」で66%、「恥ずかしがり屋の大人」で93%が肯定している。

「自信のある大学生」ではわずかに19%である。

[あなたは静かな赤ん坊で、泣かなかった]を肯定しているのは「恥ずかしがり屋の大学生で73%、「恥ずかしがり屋の大人]で86%。

「自信のある大学生」でわずかに16%。

明らかに恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は自信のある人にくらべて自己表現が難しい。

人は恋をする。

もちろん恥ずかしがり屋の少年も恋をする。

しかし、人が嫌いな人はその自分の気持ちを相手に表現できない。

なぜか?

それは人が嫌いな人は拒絶されるのが怖いからである。

また、人が嫌いな人はどう話しかけていいかわからないからである。

人が嫌いな人は話しかけたあと何を話していいかわからないからである。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな若者は好きな女の子を「好きだ、好きだ」と思いながら、こちらから行動に出られない。

人が嫌いな彼は遠くからじっと見守っている。

たまたま隣に座ればチャンスなのだが、人が嫌いな彼は話しかけられない。

人が嫌いな彼らは恋ばかりではなく一般的に人との関係でつねに抑制的である。

人が嫌いな人は友達になれるチャンスはいくらでもある。

しかし人が嫌いな人はそのチャンスを利用できない。

人が嫌いな人はチャンスを活かせない。

むしろ人が嫌いな人はチャンスは気が重い。

人が嫌いな人は自分のほうから話しかけて人間関係をつくるくらいなら、ひとりでいたほうがよい。

人が嫌いな人はそのエネルギーがない。

自信がないために自己主張できない恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、いつも我慢をしている。

そこで人が嫌いな人はなんとなく暗い人間になる。

人は、一度うまくいくとそれをくりかえすのだが、恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はその最初のきっかけがつくれない。

そして人が嫌いな人は孤独である。

人が嫌いな人は心の中はさみしさで泣いている。

しかし人が嫌いな人は表面上は、ときに突っ張って強がりを見せていることもある。

人が嫌いな人はこうして、しだいに優しい心を失っていく。

人が嫌いな人が危険なのは孤独に慣れてくることである。

人が嫌いな人の自己主張できないストレス

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、感情が吐けない。

だから恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は傷ついている心がいつまでも癒されない。

人はマイナスの感情を出したところで癒される。

人が嫌いな人は心理的には渋滞の道路にいるのと同じ状態である。

人が嫌いな人は自己主張できない、自己表現ができないでたまった感情で、身動きがとれなくなっている。

人が嫌いな人はその結果がストレス。

人が嫌いな人はそのストレスに孤独がともなう。

その結果、人が嫌いな人は感情が吐けなくて単にストレスがたまるばかりではなく、孤独がそのストレスの影響を甚大化する。

人が嫌いな人は帰りの電車で「今日の課長の態度は許せない」と思う。

しかし腹が立ったそのときに課長に抗議をしていれば、帰りの電車のなかで気持ちは軽い。

また、一杯飲みに行って親しい同僚と課長の悪口を心ゆくまで言えれば、怒りの感情が吐けて楽になる。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は自己主張できないから謙虚に見える。

しかし人が嫌いな人は謙虚にみえるが満足しているのではない。

自分が謙遜して言う事を、聞いた人がそのまま受け取ると不満になる。

たとえば、人が嫌いな人が内心では自分が「英語がうまい」とうぬぼれていても「私の英語なんか・・・」と謙遜する。

相手が「そうですか・・・」と反応すれば人が嫌いな人は不満になる。

そうすると陰で悪口を言いたくなり、心の底からその人を嫌いになる。

人が嫌いな人が「私の英語なんか・・・」と謙遜したのは、「あんなにできるのに、あのように言うなんて」と尊敬されたいから言ったのである。

人が嫌いな人は尊敬され、好かれるために謙遜したのであって、ほんとうに謙虚なわけではない。

だから人が嫌いな人は言ったことを言葉どおり受け取られると不満になる。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はすぐに人に譲ってしまう。

譲っているが、人が嫌いな人は納得して譲っているわけではない。

したがって人が嫌いな人は譲るたびに心の底に怒りが蓄積されている。

そして人が嫌いな人はイライラする。

いつもイライラする人が嫌いな人は、電車のなかで「なぜ自分はこんなにイライラしているのか?」と考えることである。

そこに恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人間としての自分を見つけるかもしれない。

人が嫌いな人はいままで長年にわたって、何かにつけて心ならずも人に譲って生きてきたことが、いまの抑えられた激しい怒りの原因かもしれないのである。

人が嫌いな人は「ノー」と言えずに騙される

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人のなかには、人と視線を合わせるのが難しい視線恐怖症の人がいる。

視線を合わせたあとでどうしていいかわからない。

自分の側に意志があれば、視線が合っても、戸惑うことはない。

しかし恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は意志がないから、視線が合うことが恐ろしいのであろう。

お店のレジでお金を払うときでさえも、目を合わせられない。

人が嫌いな人はとにかく他人を避ける。

そして人が嫌いな人は何かをやる時、主導権をとれない。

それは主導権をとって相手を満足させられなかったらどうしようと思うからである。

人が嫌いな人は主導権をとれないというよりも主導権をとられてしまう。

だから人が嫌いな人はずるい人のカモになってしまう。

そして人が嫌いな人はビジネスなどでも失敗する。

アメリカの社会でいえば、「いえ、何も心配することはありません。ここにただサインをしてください」と言われてサインをしてしまうような人である。

「いえ、よくわかりませんので、弁護士に相談してからにします」と言いたいのだけれども言えない。

あるいは「よくわからないのでサインはできません」とか「よく考えてからにします」と言えない。

そして人が嫌いな人は営々として働いて築いてきた財産を失う。

それが恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人の悲劇でもあり、特徴である。

人が嫌いな人は小さいころから見ることと見られることの相互性のなかで生きてきていない。

人が嫌いな人は小さいころから親に正面から向き合ってもらっていない。

人が嫌いな人は根が従順だから、大人になってもいざというときにその弱さが出てしまう。

つまりずるい人などに強引に何かを勧められると、人が嫌いな人は心ならずも譲ってしまう。

人が嫌いな人は日本の例でいえば、リフォーム業者に騙されるような人である。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、そのときに「ノー」と言わなければ自分に被害がくるとわかっても、「ノー」と言えない。

「ヤダ」と言うのは自分の意志である。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は自分の意志を表現するのが怖い。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はリフォーム業者に騙されるばかりではなく、いろいろな人に騙される。

人が嫌いな人は信じていた人にも騙される。

だから恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はうつ病になりやすいのである。

うつ病になって「死にたい」と言うのは、恨みを晴らしたいということである。

うつ病になるような人は、悔しい時に「恨みを晴らしたい」と攻撃性を外に向けるのではなく「死にたい」と内にこもる。

だから周囲の人はその悔しさに気がつかない。

そしてずるい人はその弱さに付け込んでくる。

人間、一番苦しいのは騙されたとき。

「よくも騙してくれたな」と思ったときには苦しみで絶叫する。

しかし恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はさみしいからお世辞や表面的な親しいフリによく騙される。

また、人が嫌いな人は人にものを勧められない。

人が嫌いな人は、人にあることを勧めて、もし相手が気に入らなかったときのことを考えると恐ろしい。

人が嫌いな人は小さいころから自分を抑えているうちに、自分が自分のことを好きではなくなっている。

人が嫌いな人は楽しいことがなくなるから、人生はあまりよいものではないと感じざるを得ない。

すでにふれたギルマーティンの調査によれば[人生におもしろいことがたくさんある]という質問に対して肯定したのは「恥ずかしがり屋の大学生」で34%、「恥ずかしがり屋の大人」で20%である。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は自分のしたいことをしていないから、何をしても、したことが安心感とか、満足感とか、達成感とか、なんらかのプラスの感情と結びついていない。

だから人が嫌いな人は意味のないことを繰り返す。

したことがプラスの感情を伴えば、「自分はこうして生きていけばいいのだ」ということを学習する。

うつ病になりやすい恥ずかしがり屋の人が嫌いな人

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は人前でぎこちなさを感じる。

そこで、人が嫌いな人は話しかけられるのを避ける。

人が嫌いな人は話しかけられるのを避けるために、食堂では本などを読んでいる。

したがって人が嫌いな人は人と会っていると疲れる。

なぜなら人が嫌いな人は自然にしていられないから。

人が嫌いな人は不安な緊張をするから。

アーロン・ベックはうつ病の人について、この恥ずかしがり屋の人とほとんど同じ説明をしている。

うつ病の人は会話を始められない。

何かを尋ねられた時には、わずかな言葉で返事をする。

何かを聞かれても口数少なく答える。

それは言いたいことがないからである。

ただ人の悪口なら、その場に関係ないことまで話すことがある。

そうなれば、恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は営業などで実績を上げることが難しい。

営業などで実績を上げるタイプは積極的で人を嫌わない。

自信がある。

奥ゆかしさと恥ずかしさとは違う。

とにかく人が嫌いな彼らは感情を表現できない。

だから恥ずかしがり屋の人は、スタンフォード大学の教授で恥ずかしさの心理の研究者として名高いジンバルドーの言うように、うつ病になりやすい。

会話が弾んでいるときには、無心になっている。

だから自分が表現されている。

会話が弾んでいると、自分がどういう人間であるかがわかる。

マックギニスというカウンセラーは「汝自身を人に示せ、そうすれば汝自身を知ることになるだろう」と言っている。

まさにそのとおりであるが、恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は自分を人に示すのが怖い。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は警戒心が強いから無心な会話ができない。

われわれがあまりにも巧みに、他人から自分を隠しおおせるとき、真の自己との接触を失いがちであるとジンバルドーは言う。

他人から自分を隠すと冷静に自分を分析できない。

分析できないから自己発見もできない。

ところで、「真の自己との接触を失う」とはどういうことか?

それは自分の感情を自分がわからないということである。

人が嫌いな人は自分が何をしたいかわからない。

人が嫌いな人はなぜ自己主張できないのか

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、自分のほうからは何も表現しないでも、相手から自分の感情をくんでもらいたいと思っている。

人が嫌いな人は要するに紳士ぶっていて甘えたい。

人が嫌いな人はその点、欲張りである。

バカになれればいいが、バカになれない。

自分が「こうしたい」と言わない。

「みなさんが喜ぶから」と言う。

こうして相手に仮託した言い方をする人が嫌いな人は、やさしい人を演じつつ、自分がしたいことをしようとする。

「そうしたほうがいいんじゃないかな?」と言う人も同じ。

あるアメリカの大学に語学の短期留学をした人たち。

そこでは初級と中級と上級に分かれた。

そのうち受講生たちから中級外国語の先生への不満が出た。

日本の担当者はアメリカの大学に交渉したが、大学はその先生を替えなかった。

しかし当局は受講生へのお別れパーティにその先生を呼ばなかった。

すると受講生から「呼んでくれ」という願いが出された。

アメリカの大学の担当者は驚いた。

つまり、日本の受講生の言っていたのは自己主張ではなく文句だったのである。

人が嫌いな人はなぜ、自己主張することを避けるのであろうか。

それは人が嫌いな人は自己主張することで嫌われることを恐れているからである。

相手に気に入られようと自己主張を避ける人は多い。

そして人が嫌いな人は自分の感じ方、考え方を犠牲にする。

気に入られたいという気持ちのために、人が嫌いな人はどれくらい自分を痛めつけているかわからない。

人が嫌いな人はそのように自分を偽っているうちに、自分がほんとうはどのような人間であるかもわからなくなる。

人が嫌いな人はみんなに嫌われて、ひとりになるのが不安なために、人は他人と同じであろうとする。

自己主張しない、人が嫌いな人はみな従順なだけかと思うと大きな間違いである。

人が嫌いな人は心の底にひそかに敵意を抱いている。

そして人が嫌いな人は恨みがましい性格で、人の不幸をひそかに喜んでいたりする。

人が嫌いな人の「かもしれない」という言い方は愛情を求めている

相手の男性が持っているカバンを「あ、このカバン、かっこいい」と女性が思った。

そこで「このカバン、私と会うときには、はじめて?」と聞く。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は男性が答える。

「はじめてかもしれない」

女性が「バリー?」と聞く。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は男性が答える。

「バリーかもしれない」

自分が持っているカバンが何かを知らないはずがないと、女性は思い込んでいる。

そこで「イヤな人」と思う。

「自分の持っているカバンが何かを知らない」ということを女性は信じられない。

ところがほんとうに知らない男性もいる。

そこで「ズレ」が生まれてくる。

お互いの誤解が生じて、お互いに「イヤな人」と思う。

カバンにまったく関心がない人と、関心があってもないフリをしている人がいる。

女性はその、人が嫌いな男性を「関心があってもないフリをしている人」と受け取った。

そこで人が嫌いな男性のことを「イヤな人」と思う。

ほんとうに「はじめて」と知っていても、「うん、はじめてだよ」と言わないで、「はじめてかもしれない」と言う人がいる。

「かもしれない」という答えは、屈折している照れ屋の、人が嫌いな男性がする答え。

それは愛情を求めている。

「たぶん・・・」という言い方も同じで愛を求めている。

「たぶん・・・」とか「・・・かもしれない」に含まれているのは、相手に関心を持ってもらいたい、かまってもらいたいという感情。

しかし「たぶん・・・」とか「・・・かもしれない」という反応の仕方は、褒めている人が滅入っていく。

「もういいかげんにして」となってくる。

そこで会話が、進まなくなってくる。

波が動かないのと、同じこと。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、小さい頃、素直にほめられたことがない。

相手を素直に「ステキ」と言いたくないような人ばかりに囲まれていた。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、相手にもっと理解してもらおうとする努力が欠けている。

先の会話の「・・・かもしれない」は、説明する必要がある。

「ステキね」

「あーよく見える?これ五年くらい前に買ったんだけれども」

あるいは「そう、そんなステキに見える?これ新しくないよ」と言う。

その人が言った真意を理解できないとき。

「え、どういうこと?」

そこで補足説明をする。

これで誤解が解ける。

相手は「言葉が足りない」と言う。

たとえば、その男性が「自分の今言っていることが常識的ではない」と知っていれば、「これ前に買っているんだけれども」と補足する。

しかし、お互いの常識が違う。

そこで女性は「知らないはずがない」と思うが、男性は補足説明をしない。

こうして関係が壊れていく。

こちらが素直に反応しても、相手が屈折していると感じることもある。

人は価値観、生活習慣が違う。

ブランド品が好きな人と、気にしていない人では、会話が誤解を生んでくる。

自分の持っているものを「これはルイ・ヴィトンだ」と知っている人と、知らない人では違う。

たとえば前の会話で、男性が「バリーかな」と言いながら、カバンを見てみた。

「あー、バリーだった」と言う。

お見合いならこれで終わり。

人は同じ価値観で、同じ生活習慣というわけではない。

だから恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はにとっては、ことさらコミュニケーションが難しい。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は沈黙に耐えられなくて、人といると何か話さなければという気持ちが強い。

しかし恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は、恋人と会っていても何を話していいかさえわからない。

あるいは人が嫌いな人は自分の気持ちをどう表現していいかわからない。

だから人が嫌いな人のデートは、「どこそこへ行った」と言えるデート・コースでなければならない。

そこで、人が嫌いな人は彼女と会うときには緻密なスケジュールを立てる。

人が嫌いな人はそこに行くことでホッとする。

それが、恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人の「一生懸命する」ということ。

人が嫌いな人はそこでうまくいかないと「こんなに一生懸命頑張っているのに」と、相手の女性に不満を持つ。

一生懸命努力することはデート・コースを決めることではなく、相手の話を聞いて相手を理解しようとすることである。

恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人は努力の方向が間違っている。

人にはいろいろなつながりがある。

仕事でつながった人。

趣味でつながった人。

バイトでつながった人。

しかし、恥ずかしがり屋の、人が嫌いな人はそこで自分を出しているわけではない。

だから仕事や趣味やバイトがなくなれば、その人達と別れる。

自分を出してつきあっていれば、そこでのつながりがなくなっても別れない。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著

 

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