人に会いたくない人は幼児性が満たされていない

人に会いたくない人とは、幼い頃から、親の機嫌を損ねないように要求されてきて、結果、他人との人付き合いでもすごい気を遣い、心を消耗してしまった人のことである。

人付き合いが怖く、最終的には引きこもってしまう。

そこで人に会いたくない人の心が楽になる心理を述べてみたい。

悪いほうを信じ込むクセ

人に会いたくない人は、人と親しくなることが怖い。

それは自分のことを知られるのが怖いということだけではない。

心の壁を壊されるのが人に会いたくない人は怖いからである。

心に壁をつくった場合、これを壊されるのは怖い。

自然な人間関係というものがあるとすれば、人に会いたくない人の人間関係は、人工的人間関係である。

恥ずかしがり屋の人は、親しい会話を避ける。

ありのままの自分では人に会いたくない人は嫌われると思っている。

それはありのままの自分を自身が、屈辱的に解釈しているからである。

自分の声が嫌われると人に会いたくない人は解釈する。

自分の弱点を隠すのではなく、「自分が弱点と思っている」ことを隠す。

たいてい相手はそれを弱点とは思っていない

それがすばらしいと思っていることもある。

「この靴、汚い」と母親が言う。

「この靴、キレイ」と他人が言う。

すると母親の言う事を人に会いたくない人は信じる。

悪いことを言う人のほうを信じる。

心に傷があるから人に会いたくない人は親しくなれない。

賛美されても心の傷は癒されない

相手の言葉の反応が人に会いたくない人は、怖い。

言葉しか聞いていない。

蔑んだ目で、「キレイね」と言われても、人に会いたくない人は喜ぶ。

バカなことしているなと相手が思っていても、「すばらしい」という言葉に嬉しくなる。

だから夢も誇りも人に会いたくない人はない。

無難に生きようとする。

恥ずかしがり屋の人は劣等感があり、自分が嫌いなのである

未解決の問題が人に会いたくない人にはあるとはこのようなことである。

自分はバラなのにバラが嫌いである。

そして自分はチューリップでなければいけないと思っている。

チューリップは人に会いたくない人はバラよりもいいと思っている。

そして周囲の人はチューリップだと錯覚している。

バラである自分は、チューリップのように立派でなければいけないと思っている

子どもがある物を欲しがる。

それがいちばん欲しい。

そんなときに違った物を渡しても、「これじゃない」と言って聞かない。

欲しいものが欲しい。

それを解決して先に進める。

自分を好きにならなければ人に会いたくない人は、先に進めない。

人は人間関係においていろいろな側面を持つ

社会的役割を遂行する側面ばかりではない。

定年になると、親しくなる能力がもっとも重要になる。

高齢化社会の最大の問題は人と親しくなる能力。

美しく老いられるかどうかは、幼児性を満たされているかどうかに拠るところが大きい。

また、人と親しくなる能力を持っているかどうかということによる。

日本社会で定年が問題になる所以は、だれもが親しくなる能力を持っているわけではないからである

美しい花が咲くためには水をたっぷりとあげなければいけないように、美しく老いるためには幼児性をみたさなければいけない。

大切なのは人に会いたくない人は自分がいまどこにいるかを知ることである。

つまり、人は自分は幼児性がどのくらい満たされているかというのを知ることである。

幼児性を満たされていない人に会いたくない人は、心理的にはその日暮らしをしている。

その場その場で人に会いたくない人は周囲の人から賞賛されたい。

こういう人は、他人が自分のなかに侵入してくるのが怖い

人に会いたくない人はそこで高い塀をつくる。

高くすればするほど孤独になる。

自分の家のなかがボロだと人に会いたくない人は、思っている。

ボロ家が、恥ずかしいことだと思っている。

だから家のなかを人に会いたくない人は、見られたくない。

家のなかを、隠そうとする。

家のなかがボロだと、人に会いたくない人は家のなかを人に見られたら軽蔑されると勝手に思っている。

だから見られることを、恐れている。

そこでいつ見られるかと人に会いたくない人は、不安な緊張をする。

しかし、ボロ家でも床が磨かれているということが大切なのである。

ボロ家でなくても床が汚れている家よりも、床が磨かれているボロ家のほうがよい

人に会いたくない人はそのことがわからない。

ボロとだらしがないとは違う。

金持ちでだらしがない人もいれば、貧乏でも床を磨いている人もいる。

自分はボロ家に生まれたのだということを人に会いたくない人は自覚すれば、すこしは自信がつくのではないだろうか。

ボロ家に生まれたのは自分の責任ではない。

それは自分の運命である。

ボロ家で床を磨いている自分は立派なのである。

夢がないから人に会いたくない人はボロ家を劣等な部分と思うのである。

ある恥ずかしがり屋の奥さん

人に会いたくない彼女は社宅にいる。

ある役人が朝、家の前を通る。

彼女はその前に打ち水をしている。

そこまで役人には気を遣っているのに、人に会いたくない彼女は社宅の人とは付き合わない。

それは親しくなると社宅の人に、本当の自分がわかってしまうからである。

そうすると嫌われると人に会いたくない彼女は感じている。

恥ずかしがり屋の人は、人と親しくなると「本当の自分」がわかってしまうから、人と親しくなることが怖いとジンバルドーは言う。

そのときに親しさ(intimacy)という言葉をジンバルドーは使っているが、厳密に言うとこれはすこしおかしい。

これは「近くなる」ということ。

親しくなれば心が触れ合うから、「ほんとうの自分」がわかってしまうもなにもなくなる。

それでよくなる。

恥ずかしがり屋の人にとって「人と近くなること」は無理をすること、見栄を張ってしまうこと

人に会いたくない人は人と近くなれば、その人に対していつも見栄を張っていなければならない。

それはつらいことである。

はったりをいう人に会いたくない人は相手と親しくはない。

親しくなれれば、はったりを言わない。

これらの人は、嫌われたくない、が基本。

しかし嫌われる人がいるから、親しくなる人がいる。

このことが彼らには分からない。

だれからも嫌われないとすれば親しくなる人がいないということである。

いままで人に会いたくない人は役割を認められたことはあるけれど、人格を認められたことがない。

だからうつ病になるような人は、役割があると心理的に落ち着く。

人に会いたくない人の問題は「人生に立ち向かう態度」

先に恥ずかしがり屋の人は、ボロ家が恥ずかしいことだと思っていると記した

ボロ家よりボロ家でないほうがよい。

人に会いたくない人より心理的に健康な人のほうがよい。

それは決まっている。

人に会いたくない人自身が、それを痛いほどわかっている。

それは生きるのが人に会いたくない人のほうが、毎日苦しいからである。

しかし、そのことと人間の偉大さとか人生の価値とはまったく別のことである。

恥ずかしがり屋の人のほうが、心理的に健康な人よりも偉大だということはいくらでもある

心理的に健康な人の人生よりも人に会いたくない人の人生のほうが、価値があるということはいくらでもある。

その自分の偉大さに気がついてほしいということなのである。

だれも好きこのんで人に会いたくない人になったわけではない。

しかも人に会いたくない人は過酷な運命に立ち向かって今日まで生きてきた。

その態度の価値を意識してほしいのである。

それはフランクルの言う「態度価値」である

どのような態度で人生に立ち向かうかである。

フランクルはこの態度価値について、「最高の価値を実現する可能性、最深の意味を成就する機会」と述べている。

失敗を恐れ、拒絶を恐れ、低く評価されることを恐れ、人と近くなることを恐れて苦しんでいる人に会いたくない人は、「運命に正しい態度で向かうことが必要」なのである。

そうすれば必ず自分の人生の意味に気がつく。

人に会いたくない人は「私は信じる」という心のあり方を

周囲が敵意に満ちていると思う気持ちと、そうではないと感じる気持ちとでは、日々生活の快適さは天と地ほどの違いがある。

人に会いたくない人は疑われていると思っているときには毎日が緊張している。

「周囲の人は自分を疑っていない」と思えればリラックスして生きていける。

毎日が楽しい。

たとえば学生なら、同じ学校に行き、同じ天候の下で同じ教授の講義を受けて、同じ食堂で食事をし、同じクラブに入っていても、両者の心の違いは計り知れない。

片方は毎日のんびりと学生生活を楽しんでいるだろうが、他方は毎日が人に会いたくない不安な緊張で落ち着かない。

いつも焦っている。

いつも何かに人に会いたくない人は追われている。

そしていつしか、その心理的に追われる毎日が自分の当たり前の生活だと思うようになる

人間の幸せは外側の条件ではない。

その人の心の感じ方である。

疑い深い親に育てられたら、人に会いたくない人は豪華なマンションに住み、車はフェラーリで、スーツはアルマーニで、有名料亭で食事をしていても不幸である。

人に会いたくない人はそんなことをしていても、いつまでもこんなことをしていられないという不安な心理に悩まされている。

いつも焦って、次に予定されていることを早くしなければならないと感じている。

何をしていても、自分のしていることが人に会いたくない人は基本的に悪いことだという感じ方からは免れない。

疑われているということはそういうことである

だから自分のしていることは悪いことではないと、つねに証明しなければならない。

それが人に会いたくない彼らがよくする「必要のない言い訳」である。

それは愛されて育った人には信じられないような感じ方なのである。

憔悴感と罪責感とに悩まされて生きている、人に会いたくない人と、みんなが自分の幸せを喜んでいてくれると感じて生きている人とでは、同じ人間とは思えないほど違う動物なのである。

小さいころにいつも批判されることで、人に会いたくない人は他人を信じる能力を失っている。

信じる能力が破壊されている。

周囲には人に会いたくない人は疑い深い人が多かった。

実際に信じられる人がいなかった。

さらに、誰も人に会いたくない人は守ってくれなかった。

そこで大人になって周囲の人が自分のためを思って何かを注意してくれても、その善意を信じられない。

責められたと思って、面白くない

その人に会いたくない人が自分のためを思って注意してくれているとは思えないからである。

思えてもそう感じられない。

いつも責められていたら、人に会いたくない人は意見は叱責である。

その善意で注意してくれた人を信じることができない。

悪意で自分を非難したとしか人に会いたくない人は感じられない。

人に会いたくない人は、周囲の人の善意を信じることができない。

事実、小さい頃はその人の周囲には善意の人はいなかった。

すると大人になってから、人に会いたくない人は好意ある注意に接してもおもしろくない。

「なんで非難されなければならないんだ」と不満になる。

また、その怒りを表現できなくて人に会いたくない人は内に閉じこもる。

大人になって環境が変わって、善意の人に囲まれていても不満で閉じこもるしかなくなる。

周囲の人にはなぜその人が不満になるのかが理解できない

人に会いたくない人は周囲の人がその人のことを思って「こうしたほうがいい」と話しても、「こうしていない」自分を非難しているとしか感じられない。

「そんなにいつも怒ってばかりいると、みんなが嫌がりますよ」と言っても、暗い顔をしている人に会いたくない自分を非難したと受け取る。

だれでも人の忠告を素直に聞くことは難しい。

それはだれでも人から認めてもらいたいからである。

認めてもらいたいのに、逆に注意されれば人に会いたくない人は不満になる。

しかし相手が自分のことを思って言ってくれていると感じるか、自分を非難していると感じるかによって、その素直さは違ってくる。

もし相手の善意を信じられれば、自分の行為に対して素直に反省することもできる。

相手を信じていない反省は迎合である

信じる心が人に会いたくない人にはない。

だから本当の意味で反省することもない。

相手のやさしい言動も人に会いたくない人は自分を非難する意地の悪い行為と受け取ってしまう。

すると、ときたま会う人で、ペラペラとお世辞を言う誠意のない人としかつきあえなくなってくる。

相手を思うやさしい人や、誠実な人と接する毎日が不愉快である。

人に会いたくない人にとって必要なのは「私は信じる」という決断である。

人に会いたくない人は自分自身が興味の対象

自意識過剰の恥ずかしがり屋の人の関心の対象は、自分だけである。

自意識過剰の、人に会いたくない人は、自分というキャンバスに絵を描いている。

しかし絵の才能はないと思っている。

だから人に会いたくない人は描いた絵を評価されるのは怖い。

でも描きたいことはたくさんある。

自意識過剰な人に会いたくない人は、人とのかかわりができていない。

相手と触れ合っていない

かかわりあいのなかで自分は心地よいし、相手を居心地よくさせる。

自意識過剰とは、運転をしていて、「あの建物、私の運転をどう思っているかしら?」と気になって運転をしているようなものである。

自己陶酔も同じこと。

相手がいない。

こういう人に会いたくない人達はコミュニケーションできていない。

恥ずかしがり屋の人が助手席に座っていれば、運転をしている人は運転にだけ気をとられているということがわからない

だから、ペラペラと人に会いたくない人は自分の自慢話をする。

そして、その自慢話を運転している人がどう思うかを人に会いたくない人は気にしている。

自分と接触している人は、他人と接した時に自意識過剰にならない。

自分が赤面しやしないか、うまく話せないのではないか、あがらないか、自分の体調がどうなるか、相手が自分をどう見ているかなど、人に会いたくない人は、自分のことばかり気にしている。

自意識が自分の否定的な面に焦点を合わせる

人と話していても、声がうわずっている、背が低い、音痴、力がない、すぐに疲れる、記憶力が悪い、などなど。

講義をしているときには人に会いたくない教授は学生に関心がない。

学生が自分の講義をどう評価するかしか教授は関心がない。

また、自分のイライラなどマイナスの感情を隠すために人に会いたくない人はエネルギーを使う。

したがって、恥ずかしがり屋の人は、一人で布団のなかでしゃべっているようなものである

しかし人に会いたくない人は不満であることには変わりがない。

だから、たとえばうつ病になる。

親に甘えることが人に会いたくない人はできなかったのだろう。

逆に親から甘えられてしまった。

そこでいつでも言いたいことを人に会いたくない人は我慢する。

したいことをするのを我慢する。

歌いたいのに人に会いたくない人は歌わなかった。

踊りたいのに踊らなかった。

「好きです」と言いたいのに人に会いたくない人は言えなかった。

「嫌い」と言いたいのに言えなかった

人に会いたくない人は「イヤだ」と言いたいのに言えなかった。

怒りたいのに怒れなかった。

「それが欲しい」と言いたいのに人に会いたくない人は言えなかった。

愛情を抑えていることもあるし、嫌悪感を抑えているときもある。

その不満が人に会いたくない人は抑圧されていることもあるし、意識されていることもある。

抑えている感情がいつ表面化するかはわからない

そうすれば、抑えている感情を人にいつ気付かれやしないかと人に会いたくない人は自意識過剰になるだろう。

では、なぜ人に会いたくない人はすべてを我慢するのか?

それは「殺されるかもしれないという恐怖感」があるからである。

このような環境が人に会いたくない、自己主張できないなどの恥ずかしさの症状を生み出す。

この「殺されるかもしれないという恐怖感」があるからである。

このような環境が自己主張できないなどの恥ずかしさの症状を生み出す

この「殺されるかもしれないという恐怖感」については軽い気持ちから深刻な気持ちまで広い範囲を含んでいる。

エディプス・コンプレックスやプロメテウス・コンプレックスが解消されないで「殺されるかもしれないという恐怖感」を持っているとすれば、どうなるだろうか。

人に会いたくない、自意識過剰にならざるを得ないだろう。

殺されないためには、相手に気に入られなければならない。

だから相手が自分をどう思っているかが人に会いたくない人は気になる。

殺されないためには、相手の顔色をうかがわなければならない。

殺されないためには、相手の神経を逆撫でするようなことを人に会いたくない人は言ってはならない。

この恐怖感を持っているかぎり、相手が自分をどう思うかという自意識過剰にならざるをえないだろう。

人に会いたくない人の心の底に渦巻く不満

挫折した欲望や、感情の衝突で心の中は混乱している

つまり、いつも人に会いたくない人は心に葛藤があり不満である

その結果はどうなるか。

ちょっとしたことで人に会いたくない人はその抑えられた不満が刺激される。

靴のひもが思ったように結べない、期待したとおりに食卓に食事が出てこない、望んだように人と連絡がとれない、お店に入って探しているものが見つからない―なんでもいい、とにかく些細なことで人に会いたくない彼らは急に怒りだす。

あるいはものすごく不機嫌になる。

朝、出がけに靴が汚れていたということで、「人生がそれでおしまいだ」と騒ぎだす夫がいる

朝、出がけにワイシャツのボタンがとれていたということで、パニックになる人に会いたくない夫がいる

理屈はこうだ。

それで会社に遅れる。

あるいはこんな服装でみっともない。

だから会社をクビになる。

食べていけなくなる。

そこで人に会いたくない夫は妻に当たり散らす。

「おまえが悪いからこうなった」と妻を責める。

ときおり、信じられないような出来事がそれぞれの家庭で起きている

これはなぜだろうか。

問題は朝、出がけにワイシャツのボタンがとれていたということではない。

人に会いたくない人の心の中にある「表現されることなく挫折した欲望、感情」が問題なのである。

それが事の本質である。

急に不機嫌になったり、急に場違いに怒りだしたりする人に会いたくない人は、とにかく日頃から不満で不満で仕方がない。

平穏無事なときにも人に会いたくない人は、ものすごい不満が心の底に渦巻いている。

表現されないで挫折した欲望が心の底に渦巻いている。

彼はもともと「不満の塊」なのである。

満たされない愛情欲求で、「憎しみの鬼」になっている

しかし人に会いたくない人は日常的にはある程度、ほかの出来事に気を奪われているし、爆発のきっかけがない。

そうした些細なことでその心のなかの不満が刺激される。

するとそのおもしろくないという感情が人に会いたくない人は一気に噴き出してくる。

ちょっとしたことで人に会いたくない人はパニックになる。

食事のときにちょっと気に入らないことがあると、食卓をひっくり返して暴れる父親の話はよく聞く。

あるいはちょっとしたひと言で急に怒りだし、殴る蹴るの暴力を働く夫の話もよく聞く。

ところが外では、借りてきた猫のようにおとなしい人に会いたくない恥ずかしがり屋である。

これらの恥ずかしがり屋の、人に会いたくない夫は、心の底に表現されることのない挫折した欲望が渦巻いている。

些細な出来事の起こる前から、もともとその人は怒っていたのである。

不機嫌だったのである

しかし、人に会いたくない人はそれを表現することができない。

その表現の口実がワイシャツのボタンがとれていた、靴紐が結べない、食事がすぐに出てこないということであり、どうでもいい意味のない一言である。

挫折した欲望は活火山のようなものである。

たえず噴き出している。

それを社会的体面などで抑えているだけである。

妻は夫がなぜそんな些細なことでそこまで怒るのかが理解できない。

なぜその一言でそこまで怒るのかが理解できない。

その人に会いたくない人は、小さい頃から基本的欲求が満たされてこなかった。

子ども時代には子どものときの欲求がある。

それをまったく満たされないで、歳をとってきた。

相手の何気ない善意のひと言に怒りを爆発させる人は、幼児的願望が何も満たされていない

自分が人に会いたくない、気短でいつもイライラして、ある特定の人に対して爆発すると思った人は、自分の心の底にある挫折した欲望を見直すことである。

「そういえば、子ども時代から・・・あのときも、そうだ、あのときも・・・」我慢したと思い返してみることである。

「あのときに自分の欲求を満たしていれば、こんなにすぐにカーッとならないにちがいない」と思えないだろうか。

「あのとき、おかしいと思った。

でも喧嘩ができなかった。

言い返せなかった」。

そして人に会いたくない自己主張できない人間になってしまった。

その悔しさが無意識に記憶されている。

一つひとつの悔しさを人に会いたくない人は意識していたら、生きてこられなかった。

そこで自分を守るためにものごとに無関心になった

人に会いたくない人は傷つくことから自分を守るためには、情緒的に離脱するしかなかった。

もう何も感じないようにして人に会いたくない人は生きてきた。

それはあなたの自己防衛である。

それが自己執着であり、人に会いたくない人の他人への無関心である。

しかしあなたがどんなに意識で悔しさを感じないようにしても、人に会いたくない人は無意識には感じている。

挫折した攻撃性は、無惨な姿になって人の心の底に存在している。

自己防衛しても、それはあくまでも意識の面である。

無意識の領域は違う

人に会いたくないあなたの無意識にはそのように挫折した欲望が無惨な姿になって渦巻いているのである。

その挫折した欲望が表現しやすい相手に向かって出てくる。

恥ずかしがり屋の、人に会いたくない人はの弱い者いじめである。

それが怒りの爆発である。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著