人に嫌われたくない人は他人を喜ばせようとしてはいけない

「自分がある」ということは自分自身の基準を持っているということである

人に嫌われたくない人は他人の期待に応えようとしているかぎり、プレッシャーはなくならない。

メジャーリーガーにとっていちばん重要な資質は何かを書いた『メンタル・タフネス」という本がある。

著者は、選手は他人の期待に応えようと悩んではいけない、自分自身の基準に応えようと努め、他人を喜ばせようとしてはならないと言う。

多くの選手は他人がどう見ているかに気をつかうと言う。

しかし、そうした選手は偉大な選手になれないと言う。

他人の期待に応えようとして問題をつくってしまう

偉大な選手になるためには、他人の期待に煩わされることはない。

このようなことは、なにも野球の選手についてばかり言えることではない。

われわれの人生に対する態度として必要なことである。

自分自身の基準を持たない人に嫌われたくない人が、「自分のない人」である。

人に嫌われたくない「自分のない人」が他人の期待に応えようとし、プレッシャーに負けて自分自身の能力を発揮できない。

自分の可能性を実現できない。

小さい頃から周囲の人の期待に応えようとして生きてきたら、自分自身の基準が持てなくて当たり前である。

いま自分自身の基準がないといって落胆することはない

人に嫌われたくない人は今日から「私はだれなのか?」を自分に聞きながら自分自身の基準をつくっていけばいい。

そしてその基準ができるにしたがって、他人の期待に応えなければというプレッシャーはなくなってくる。

そうなったときが「私はプレッシャーが好きだ」と言えるようになる。

『メンタルタフネス』の著者は勝者の態度として、この[I love pressure]をあげている。

こうなったときにはプレッシャーがプレッシャーでなくなっている。

プレッシャーに立ち向かう姿勢がプレッシャーをプレッシャーでなくしてしまうのである。

他人の評価に自分を委ねているかぎりプレッシャーはなくならない。

小さい頃劣悪な人間環境のなかで生きてきた人に嫌われたくない人は、どうしても自分を持てない。

「自分のない人」であるあなたは、いままで他人の期待に応えるだけの人生だった。

そしてあなたは他人の期待に応えられなければ、「自分はダメな人間」と錯覚してきた。

人に嫌われたくない人の「嫌われてはいけない」という心理的圧迫

嫌われても怖くない、そう感じたときに、人は自信を持って生きていかれる

「嫌われたくない症候群」の人は嫌われると何か大変なことが起きるような気がしている。

人に嫌われたくない人は何か生きていくうえで不都合があるような気がしている。

小さい頃、お母さんといっしょでなければ外にでかけられないような気がしているときがある。

なぜかわからないが出かけてはいけないと感じている。

それと同じで、なぜか「嫌われてはいけない」と感じている人がいる。

嫌われても大変なことが起きないのに起きる気がしている。

「嫌われたくない」ということを超えて「嫌われてはいけない」という気持ちになっている。

こうなると「嫌われたくない」という望みよりも「嫌われてはいけない」という心理的必要性になっている。

それは嫌われるのが怖いという恐怖心と「嫌われてはいけない」という規範意識とが合体した感覚である。

この「嫌われるのが怖い」という恐怖心は「好かれたい」という願望と合体する。

そしてこの心理的塊はその人の感じ方や考え方や行動を支配する

恐怖と願望とが合体したら、もうこれ以上に人を支配するものはない。

喜びも悲しみも、この人に嫌われたくない人はこの心理的塊ななすがままになる。

この人に嫌われたくない人の心理的塊を生み出す者は何か?

それはもちろん愛情飢餓感である。

小さい頃親に愛されなかった。

幼児的願望が満たされていない。

愛情飢餓感があると嫌われるのが怖い。

だれにでも好かれたい

「あの人に」好かれたいというのではない。

人に嫌われたくない人はだれでもかれでも好かれたい。

そして好かれると嬉しい。

ここも問題なのである。

誰に対しても嫌われるのが怖い人は、誰に好かれても嬉しい。

ほんとうに好かれるのなら問題ないが、誰からでも好かれるのが嬉しい人に嫌われたくない人は、お世辞を言われても嬉しいのである。

「あなたが好き」と言われると嬉しくなる。

「あなたはすばらしい」と言われると嬉しくなる

人に嫌われたくない人は褒められたい、認められたい。

しかしほんとうに褒められ、認められるのではなく、おだてられて、利用されているだけなのである。

それに気がつかない。

「嫌われたくない症候群」の人は、おだてられた時、お世辞を言われた時「自分を感じる」ことができる。

要するに人に嫌われたくない人はそこまで自己不在だということである。

ボウルビィは母性的保護を失った子どもを観察して、彼らは愛を求めることにおいて対象無差別であると述べている

人に嫌われたくない人はだれからも愛されたい。

嫌われてもよいと思う人は、小さいころ安定した親子関係がある人である。

だれからも愛されたいと思うから、だれから嫌われてもイヤ。

誰から嫌われるのも怖い。

そういう人達にとっては、家族が家族ではない。

親が親ではない。

形は家族のなかにいても、心は他人のなかにいる

他人のなかにいると、愛情飢餓感の強い子は「いい子」になる。

子どもは本来、わがままである。

親しい人に囲まれてリラックスしていればそのわがままが出る。

他人のなかにいると、そのわがままを抑えて「いい子」になる。

つまり「嫌われたくない症候群」の人たちには親しい人がいない。

周囲の人はみな冷たい他人

彼らは小さい頃から他人のなかにいて心理的に消耗している。

人に嫌われたくない人はエネルギーがないから、こちらから先に相手のところに行かない。

「あなたが好き」と言ってきた人についていく。

恋愛でも、自分から愛を求めていかないで、自分を好きになってくれた人と恋をする。

ウサギが好きならウサギのところへ行く。

人に嫌われたくない人が生きることに行き詰まる理由

嫌われたくないから相手の言うことにしたがってしまう

人に嫌われたくない人は言われるとすぐにそのとおりに行動する気になってしまう。

自分が持っている方針をすぐに変更してしまう。

心の中で「その通りだ」と思って言う事を聞いている分には問題はない。

しかし「嫌われたくない症候群」の人は、相手の言う事に心の中で納得しているわけではない。

したがって人に嫌われたくない人は相手の言う事を「はい、はい」と聞いていても、そのあとで、なんとなく不快感が残る。

なんとなくしっくりとしない。

そのなんとなくしっくりとしない気持ちが、毎日心の中に積み重なっていく。

そうすると睡眠不足をしているような状態になる。

心がスッキリとしない状態になる。

嫌われるのが怖いという恐怖心は恐ろしい

人に嫌われたくない人はその人から離れることが自分の幸せなのに、その人に好かれようとして無理をする。

その人と付き合っていることが不幸の原因なのに、その人から嫌われるのが怖い。

なんで自分の気持ちはいつもイライラしているのか?

なんで自分の気持ちはいつも「もやもや」してスッキリとしないのか?

まずは、いまの人間関係が原因であることを認めることである。

それを認めたら次に「どの人間関係がどう問題なのか?」

それを真剣に考えることである。

自分が困っているときに助けてくれない人達

逆にその人たちは、自分の困っている状態をつくっている人たちである。

それなのにその人たちに嫌われるのが怖い。

そして嫌われたくない人は怒りをぶつけやすい人にぶつける。

ある人にはオオカミで、別の人には子羊になる。

人に嫌われたくないあなたが怒りをぶつける人が、あなたが困ったときにあなたを助けてくれる人である。

そういう人間環境のなかで生きている人に嫌われたくない人たちが生きることに行き詰まってくる。

人間関係を変えるエネルギー

なぜ多くの人は生きることに行き詰まるのか?

それはもちろん、嫌われたくない八方美人になるからである。

人に嫌われたくない人はその人から離れることが幸せになるスタートである。

しかし、じつは離れることはそう簡単なことではない。

それはその人から離れることには、ものすごいエネルギーがいるからである。

「嫌われたくないと、恐れていてはいけない」と思って、離れようとする。

しかし離れるためには、かなりのエネルギーがいる。

もちろん心理的なエネルギーがもっとも重要であるが、必要なのは心理的なエネルギーばかりではない。

肉体的なエネルギーもいる。

時間もかかる。

要するにいったんできた人間関係を変えるのには手間暇がかかる

人に嫌われたくない人はそれはムダなエネルギーと時間に思える。

しかしこのエネルギーを使うことなしには、問題の人から離れることはできない。

じつは生きることに行き詰まってしまう人に嫌われたくない人は、このエネルギーがないから生きることに行き詰まるのである。

いったんできた人間関係から逃れるということは簡単なことではない。

それは恋愛関係であろうと友情であろうと、仕事関係であろうと、弁護士と依頼人との関係であろうと、血縁関係であろうと、どんな人間関係でも変えることにはエネルギーがいる。

変える過程で腹が立つことも多い。

耐えることも多い。

でも変えなければ幸せにはなれない。

いわんや離婚のような、深い関係を解消するときには膨大なエネルギーがいる。

ある婚姻関係調停で、依頼人と弁護士との関係で驚くことがある

依頼人は離婚をしたくなかった。

しかしそのケースでは、離婚成立がその弁護人に利益をもたらす。

そこで弁護士は依頼人の不利益のために働いている。

それは依頼人にもわかってきている。

つまり本質的には相手方には二人の弁護士がいて、その人にはだれも弁護士がいない状態である。

それでもその依頼人はその弁護士を解任できない。

そのときに、嫌われるのが怖いという恐怖心はこれほどものすごいものかと驚きである。

結局離婚は成立して、その依頼人は病気になって弁護士は巨額の利益を得た。

その弁護士は依頼人の弱さを見抜いていたのである。

嫌われるのが怖いという恐怖心は、ずるい人の餌食になる。

「嫌われたくない症候群」の人は、自分を病気に追い込んでいくような人にもいい顔をする

人に嫌われたくない人は心底孤独なのであろうが、そんな孤独なときに周りにいる人はろくな人ではない。

ひとりぼっちになる覚悟が幸せになる秘訣である。

まず嫌われたくない人は、「この人に嫌われて何か困ることがあるだろうか?」とよく考えてみることである。

その人に嫌われて困ることなど何もないのではないか。

それなのになぜそんなに嫌われるのが怖いのか?

それなのに嫌われないために、なぜそんなに努力するのか?

嫌われたくない人はその人に嫌われたら、明日の食事ができないのだろうか。

今晩寝る場所がないのだろうか?

計画している旅行に行けないのだろうか?

その人に嫌われたら、晩年に年金がもらえなくなって困ることが何かあるのだろうか?

嫌われたくない人はその人に嫌われないことが、あなたの人生の目的なのだろうか?

嫌われたくない人はその人に嫌われないためだけに生きて、人生の最後に何か達成感のようなものがあるのだろうか?

人に嫌われたくない人は逆に人生の最後には、なんてムダな時間の使い方をしたと思わないだろうか?

せっかく受けた生を、そのように浪費してもよいものなのだろうか?

人に嫌われたくない人は頑張り過ぎて燃え尽きる

生真面目なビジネスパーソンがめいっぱいに仕事をすると、次の年もめいっぱいに仕事をすることになる

人は自分の能力の100%以上で頑張っても、周囲の人は次第にその頑張りを当たり前と受け取る。

そしてもっと仕事を持ってくる。

これが十年続くと周囲とのギャップはすごくなる。

そこである人が「疲れているんだろう」と言えば癒される。

人に嫌われたくない人はそう言った人にまた利用されることもある。

それなのに、その生真面目な人に嫌われたくない人は周囲に「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言う。

これは真面目なビジネスパーソンなら、だれでもたどる道である。

しかし、大丈夫ではない。

こうして燃え尽きることになる

人に嫌われたくない人はどのように燃え尽きるにしても、共通点は仕事を抱え込みすぎること。

そしてどこかでさびしい。

表情のない人は不気味。

能面な人は相手を物と思っている。

こういう人に生真面目な人は利用される。

能面な人には気をつけましょう、やさしい人には気をつけましょう、さびしいときにはだまされないように気をつけましょう。

人に嫌われたくない人はもともと強いのだ

ある会社である。

ある人に嫌われたくない人が自分の実力以上に頑張っていた。

そしてノイローゼになりかかっていた。

そこである人が「この仕事、私には多すぎるから、できません」と言えばいいとアドバイスした。

「もうこのままでは自分は倒れる」と思っていたその人に嫌われたくない人は、会社を辞めるつもりで、アドバイスされたとおりに言った。

すると「なんだ、そうだったのか」で解決した

それでなければ彼は燃え尽きていた。

その日、上司に飲みに誘われた。

そして話しているうちに「なんだ、そうか、上司もそうだったか」とわかったという。

しかし人に嫌われたくない人が「この仕事、私には多すぎるから、できません」と言えるためには心の砦が必要である。

心の砦は、心の葛藤が解決してはじめてつくられる。

幼児的願望が満たされて心の砦がつくられる。

だから心の砦をつくるためには心の葛藤を解決することが第一である。

それをしなければ心の砦をつくる作業に取りかかれない。

心の砦がなければ、周囲から攻撃されたら怖い

だから人に嫌われたくない人は周囲の人に迎合するのは当たり前である。

あなたは心の砦がなくても今日まで戦って生き延びてきた。

それはたいへんなことである。

もともと心の砦のある人が戦うのとはわけが違う。

心の砦がないのに戦った。

その強さを自覚することである。

心の砦をつくる方法は二つある

一つは自己実現である

もう一つは戦うこと

したがって自己実現に努めるのは大切なことである。

自己実現していないあなたは、例えば「タコ」が金魚鉢で泳いでいるようなものである。

スミも出せない。

しかしそれでも、人に嫌われたくないあなたは戦ってきた。

その自分の持って生まれた質の強さを自覚することが大切である

心が萎えてしまう人に嫌われたくない人は、自分のもともとの質の強さを自覚していない。

いま強い人と、いま弱い自分では育つ人間環境が違っていたのである。

人に嫌われたくない人はそれでも自分は今日まで戦って生きてこられたという質の強さを自覚することである。

芯の強さと言ってもいいかもしれない。

「私は弱い」と思ったら心は萎える。

「私はダメだ」と思ってしまえば、ダメでないこともダメになってしまう。

「もともとは、自分は強いのだ」ということを決して忘れないことである。

本当に弱いのに「弱い」ということを認めない人がいる。

そういう人と、強いのに弱いと思ってしまっている人とどこが違うか?

それは、「私は弱い」ということを認めない人は地道な努力を長年にわたってしていない。

ほんとうは強いのに「私は弱い」と思ってしまっている人は、地道な努力を長年にわたってしている。

だれにでもイヤなことはある。

だれでも心が萎えることがある。

心が萎えたからといって、すぐに「私は弱い人」と決めつけてはいけない。

ひどい人間環境のなかで生きてきた人と、恵まれた人間環境のなかで生きてきた人では、「いま」というときの心の強さはまったく違って当たり前なのである。

人に嫌われたくない人は戦うことで自分が生まれてくる

先に心の砦を作る方法は二つある、一つは自己実現で、もう一つは戦うことだと記した

人に嫌われたくない人は心の砦がなければ戦うことは困難だが、戦うことによって心の砦はできてくる。

とにかく相手の言いなりにならないで、自己主張をすることである。

はじめは気が引けてなかなか自己主張できない。

自己主張すると何か悪いことをしているような気持ちになる。

当然の自己主張でさえ、罪の意識を持ってしまう。

まるで自分が利己主義者のような気持ちになる。

それは偽りの罪の意識である。

小さい頃から従順を強いられて成長してきた結果である。

自己主張することでさえ罪の意識を持ってしまい、自己主張できないのであるから、相手と意見が対立して戦うというようなことはなかなかできない。

意見を戦わせるばかりではなく、現実のバトルとなるとさらにできない。

しかし人は戦うことで強くなる

人に嫌われたくない人は戦うことで鍛えられる。

戦うことで自分が生まれてくる。

戦うことで「自分のある人」になれる。

もちろん戦えば突然ある日強くなるというものではない。

それは月日をかけて強くなる。

徐々に徐々に強くなる。

ダイエットをして少しずつ体重を減らすように、少しずつ強くなっていく。

戦っているうちに気がついたら、強くなっている。

嫌われるのは怖かったのに、気がついたら嫌われるのが怖くなくなっている

人に嫌われたくない人が戦うことは勝敗の如何にかかわらず、本人の心の問題としては望ましい結果を残す。

ケンカはその場での勝ち負けよりも、心が落ち着いている方が、勝ち。

心が落ち着いていれば、裁判に負けても、あなたは勝っている。

成功しているけれども何かすごく怖いときがある。

落ち着かないということがある。

それは心が負けているということ。

感情的恐喝は善良な仮面をかぶっている

強くなるというのは、自分が自分にとって頼りなかったのが、いつのまにか自分が確かなものに感じられはじめるということである。

人から嫌われるのが怖くなくなるということである。

人の拒絶が怖くなくなるということである。

「べつに人の評判なんてどうでもいい」と思えてくるということである。

もっと強くなると人の脅しが怖くなくなる。

家族愛とか友情とか「愛と正義」を持ち出して相手の罪の意識を刺激して、いいように相手を利用することを感情的恐喝という。

人に嫌われたくない人は強くなると感情的に恐喝をされなくなる。

感情的恐喝に際しても、冷静でいられるから、相手の利己主義がよく見える。

相手は「家族なのに」とか「お隣どうしだから」とか「友達なのに」とかいう言葉で、自分の身勝手な要求を通そうとしているだけだと見えてくる。

感情的恐喝をする人のずるさが手に取るように見えてくる

心の砦がないときには、感情的恐喝をされると心理的にパニックになり、相手の言うことを鵜呑みにしてしたがってしまう。

人に嫌われたくない人は譲れば譲るほど相手はこちらをなめていよいよバカにする。

そしていよいよ、いいように利用する。

感情的恐喝をする人は搾取タイプの人だから、結局人に嫌われたくないこちらが心身ともに消耗して燃え尽きる。

食べ尽くされる。

搾取タイプの人から感情的恐喝をされて五十代、六十代で死んでいってしまった人がたくさんいる。

みんな人のいい人ばかりだった。

質のよい人ばかりだった。

やさしい人ばかりだった。

口汚く相手を罵るような下品な人はいなかった。

あるいは善良な仮面をかぶって搾取するずるい人はいなかった。

しかし残念ながら戦わなかった

働かされて、いじめられて、利用されて、心身ともに消耗して死んでいった。

善良だけでは世俗の世の中を生き延びていくことはできない。

だから人に嫌われたくない人は戦わなければいけない。

「せっかくあなたのことを信じていたのに」などと感情的恐喝をされたら、「ウソをつけ!」と言わなければいけない。

そして「そういう言い方を、感情的恐喝と言うんですよ、刃物を持って恐喝するよりも質が悪いと本に書いてありましたよ」と言ってあげればいい。

当初は苦しくても、つらくても、戦っていれば、少しずつ強くなる。

眠れない夜があっても、しだいに強くなって眠れるようになる

しかし「嫌われたくない症候群」の人は、さびしいから嫌われるのが怖いから戦わない。

人に嫌われたくない人はバトルが怖い。

怒鳴られるのが怖い。

利己主義というレッテルを貼られるのが怖い。

悪口を言いふらされるのが怖い。

そしてまた逆の「尊敬しています」とか「ご立派な方」とかいう見え見えのお世辞の言葉に弱い。

劣等感が深刻だからである

人に嫌われたくない人は面と向かってそういう言葉を言われると、つくりだした心の砦が壊されてしまう。

お世辞を言われるということは、なめられているということなのである。

しかし深刻な劣等感の持ち主は、それがわからない。

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著