大抵の人が人に嫌われるのは嫌である。

しかし、人に嫌われるのが怖いとなると状況は一変する。

本当の自分を抑圧して、他人の為に生きるようになる辛い状況に陥る。

そこで、人に嫌われるのが怖い人がそれを克服する心理を述べてみたい。

人に嫌われるのが怖い人の自意識過剰ゆえの赤面恐怖

赤面恐怖症の人には特徴がある

それは赤面すると、みんなが人に嫌われるのが怖い自分の赤面に注意を払っていると思っていることである。

人に嫌われるのが怖い人は自分が周囲の人から注目されていると思っている。

ふつうの人は、赤面しても周囲の人が自分の赤面にそれほど特別の注意を払っているとは思わない。

「表情恐怖とは、対人関係場面でその場にふさわしい自然な表情にならないことを怖れる状態」である。

彼には「その場」がわからない。

その場を人に嫌われるのが怖い彼はわきまえていない。

そこで顔がこわばる。

向こうから顔見知りの人が来ると避けるという

あるいは人に嫌われるのが怖い人はどういう顔をしようかと考える。

かえって知らん顔を人に嫌われるのが怖い人はする。

クラスメイトが道の向こうから歩いてくる。

このようなことがよくある。

ところが知らん顔をする学生がけっこう多い。

そういう学生は知らん顔をしながらどう思われたか気にする。

自信のない時には人に嫌われるのが怖い人は判断力もない。

女性の顔見知りどうしだったらどうなるか

人に嫌われるのが怖い人はもし正装していれば逃げないだろう。

知らん顔をしないだろう。

「今日はこんな格好をしているから」と思うから人に嫌われるのが怖い人は逃げる。

自分が晴れがましい気持ちのときには会う。

つまり、自分がみせたいものが人に嫌われるのが怖い人はない。

つまりコミュニケーションの訓練が人に嫌われるのが怖い人はできていないのである。

どんな言葉を交わすかがわからないということは、相手に対する関心がないということである。

「お元気でしかた?」でいい。

しかし「お元気でしかた?」という簡単な言葉でも、人に嫌われるのが怖い人は考えてみれば相手に対する関心がなければ浮かんでこない。

相手に会って「いい顔」をしていると思えば、「お元気そうですね」である

しかし人に嫌われるのが怖い人は相手を見ていなければ、「元気そうな顔」か「つらそうな顔」かがわからない。

マンションで管理人のおじさんに会ったときに、何を言っていいかわからないという人に嫌われるのが怖い人もいる。

「いつもありがとうございます」でいいのである。

しかし「いつもありがとう」という気持ちがなければ、「いつもありがとう」という言葉は出てこないかもしれない。

「何を言っていいかわからない」と言う人に嫌われるのが怖い人は、親子のあいだに会話がなかったのではないだろうか。

親子の間でコミュニケーションの訓練がふつうはできてくるだろう

たとえば親が「寒いからこれを着なさい」と言う。

それに対して、いつも「はい」としか言えない「いい子」はコミュニケーションの訓練ができないだろう。

「いいよ、着なくても」と言える子どもがコミュニケーションの訓練ができる

それに対して親は「そんなことないでしょ」と言う。

そういう言葉のやりとりのなかでコミュニケーションの仕方が訓練されていくのである。

それを「こうしてはいけません」と言われれば「はい」としか答えることを許されなかった子どももいる。

そうして育てば、大人になった時にも「はい」とか「わかりました」しか対応できなくなっている。

大人になっても他人に親と対応したときと同じような対応しかできない

「はい」と言わなければ嫌われると思っている。

バカにされると思っている。

「いいよ、着かなくても」と言ったら叱られると思っている。

母親からきらわれてしまうと思っている。

バカにされたり、嫌われたりするのがイヤだから「はい」と言う。

「女性恐怖に深刻に悩みながら見ず知らずの女性をお茶に誘って平然としていられるドン・ファンとなると、その矛盾に驚かされる」

それは「お茶に誘う」という目的があるからである。

対人恐怖症の人は目的なしの会話ができない。

対人恐怖症者のやることをまともに受け取ってはならない。

人に嫌われるのが怖い人は「小心ではいけない」と思っている。

ところが気おくれするほうが自然ということがある

人に嫌われるのが怖い人にはそれがない。

のびのびとするのと傲慢とは違うのだが、そこらへんが彼らにはわかっていない。

「近所の人と会うのがイヤ」ということも人に嫌われるのが怖い人はある。

そこで近所の奥さんに会わないように人に嫌われるのが怖い人は買い物の時間を選ぶこともある。

しかし、この場合でも元気なら会える。

エネルギーがあれば気にならない

エネルギーがないときにこうなる。

人が自意識過剰になるのは、エネルギーのないときである。

カバが草を食べている。

そしてこの三日間は食べるものがない。

そして「オレはカバだー」と言うエネルギーがない。

そんなときカバはウサギを気にする。

魚を気にしない。

人に嫌われるのが怖い人は本能ではなく頭で動く

対人恐怖症者は「道で近所の人に出会う際に、どのような挨拶の言葉をかわしたらいいのか、その時どういう表情をしたものか・・・そう思っているうちに、ついつい挨拶しそびれて、後でまた、くよくよと考え込む」。

しかし尊敬していれば「挨拶しよう」となるだろう

またエネルギーのあるときには「あんたなんか、どう思っても平気」という気持ちにもなれる。

エネルギーがないときには放っておいてほしい、見ないでほしい。

人に嫌われるのが怖い人は本能で動いていない。

頭で動いている。

そこで友達に「鉛筆貸して」と言えない。

頭で動いている人に嫌われるのが怖い人はその場で動くことができない。

タイミングがうまくいかない

人に嫌われるのが怖い人は言おうか言うまいか考えている、しようかしまいか考えている、そのうち、そのことが終わっていく。

自意識過剰なのである。

何事も人に嫌われるのが怖い人はうまくやろうとしすぎる。

喝采されるようなことを言わなければならないと思うから、人に嫌われるのが怖い人は言おうか言うまいか考えているうちに、その話題が過ぎていくのである。

現実のなかで動いていれば、言おうか言うまいか迷わない。

奢られる場面でも同じである

「奢らないとケチに思われるし、気前よく奢れば逆に奢りが驕りに変わって相手の顔を潰しかねず・・・割り勘にするのも水くさいし」。

人に嫌われるのが怖い人はレジでお金を払おうか払うまいか迷っているうちに過ぎていく。

「お茶を飲んでいる間も店を出る時のことを考えている」。

この場合も人に嫌われるのが怖い人は要するにケチでもある。

ケチならケチでよいのだが、それを相手からケチではなくよくおもわれようとするから、くよくよ迷うことになる。

もしお茶を飲んでいる相手が親のときには人に嫌われるのが怖い人はこのように考えないだろう。

この人は自分をどう思うかと気にするから迷うのである。

どうしてそこまで迷うかというと、人に嫌われるのが怖い人は払ったほうが嫌われるのか、払わないほうが嫌われるのかわからないからである。

とにかく人から気に入られたい。

しかし気に入られるためには人に嫌われるのが怖い人はどうすればよいかわからない。

相手の家まで行くのだが、ノックの仕方を知らない。

人に嫌われるのが怖い人の自分という不愉快な存在

自分がないから人が怖い。

人に嫌われるのが怖い人はいつもビクビクして不安な緊張をしている。

そして人に嫌われるのが怖い人は疲れる。

1000人の人の前で歌える歌手が3,4人の人との談話ができない。

役割がはずれると人に嫌われるのが怖い人はダメ。

対人不安、対人緊張、その随伴症状として、震え、赤面等々がある。

視線恐怖の人に嫌われるのが怖い人は幼児期から見つめられたことがないのだろう。

赤面恐怖症の人に嫌われるのが怖い人とふつうの人との違いは赤面という事実ではない。

事実は同じである。

赤面恐怖症の人は赤面を恥辱と感じるが、ふつうの人は赤面してもそれを無念と思わない。

赤面という体験をむしろ自然なことと感じているが、赤面恐怖症の人は、赤面を恥辱と解釈する。

「ありのままの自分」という存在を恥じているから赤面を恥辱と感じるのである。

お寿司屋さんで人に嫌われるのが怖い人がいる。

お寿司を握るのが仕事だから、別に愛想をふりまく必要はない。

しかしお客さんの前で表情がこわばるという人に嫌われるのが怖い人がいる。

そしてそのこわばった表情がお客さんに不快感を与えると人に嫌われるのが怖い人は思い込んでいる。

女性に恐怖を感じると自称するある女性は「幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と周りの環境が変わっても、私は人に嫌われ、悪口や陰口ばかりを言われる人間です」と言う。

事実は違う。

ある視線恐怖症の大学生は「クラスの人が自分を変な目で見るようになり、いたたまれなくなりました」と言う。

しかしクラスの人はべつに変な目でその人を見てはいない

その人に嫌われるのが怖い人がそう思い込んでいるだけである。

そして便秘になり、嘔吐を繰り返すようになる。

勉強は手につかない。

そうしているうちに人に嫌われるのが怖い人は人の視線に怯え、人の顔をまともに見ることができなくなった。

そして自分が人にとって不快な存在だと感じるようになった。

道を歩いていて向こうから人が来ると、人に嫌われるのが怖い人は変な目で見て、自分を避けるようにして自分から遠ざかっていくと感じる。

電車のなかでも人が自分の側から、イヤなものでも見るようにして、離れていく。

それがときどきではなく、人に嫌われるのが怖い人はいつもなのである。

なぜ、そのように感じてしまうのか?

自分が自分にとって不愉快な存在

人に嫌われるのが怖い人は嫌われることを恐れて「理想の自分」を演じようとする。

「理想の自分」であれば嫌われないと人に嫌われるのが怖い人は思っている。

しかし「理想の自分」はあくまでも「理想の自分」である。

理想を現実化しようとするが、人に嫌われるのが怖い人はそれは無理である。

そこで「理想の自分」になれない現実の自分を人に嫌われるのが怖い人は憎む。

対人恐怖症の人からもらう手紙を読んでいると、どの人も、人の為に何かをしていない。

小さい頃から人に嫌われるのが怖い人は人を助けたことがない。

いつも自分を守ることしか考えていない。

人に嫌われるのが怖い人は周囲から見ると「幼児的」

完全な人間でありたいという願望

自分に対する非現実的な期待。

人に嫌われるのが怖い人はこれらのことに囚われていて、人のために自分は何ができるかを考えることがない。

人並みでは満足できないのは、人に嫌われるのが怖い人はそれだけ劣等感が深刻だということである。

完全であれば、人から尊敬されると思っている。

完全であれば、人から愛されると思っている。

完全であれば、人から嫌われないと思っている。

人は幼児的願望が満たされていないと、どうしても理想の人を演じようと無理をしてしまう

そして本人は理想の人を演じているつもりでも、人に嫌われるのが怖い人は周囲の人から見ると幼児と変わりない幼さを演じているように見える。

人に嫌われるのが怖い彼らには月日の積み重ねがない。

今日をよく演じることを考える。

二十年間つきあっていても、二十年間という意識がない。

心理的に健康な人なら「この人はこういう性格だ、だからこう付き合っていこう」という面が出てくる。

そこで「とにかく自分を理想の人に見せよう」とする無理な努力がなくなる。

人は、関係のなかでは「実際の自分」を出していいし、それで親しくなる

ふつうの人は、親しくなることが第一で、立派な人を演じることが第一ではない。

「確かに対人恐怖症者では、相手によい印象を与えるか否かによって自己の存在価値がはかられている面が目立っている」

そして人に嫌われるのが怖い人は心のどこかで「自分は人によい印象を与えなければならない」と感じている。

なぜか自分は立派な人でなければならないと感じている。

「理想の自分」を自分に求めれば求めるほど、人に嫌われるのが怖い人は自分の弱点が許せなくなる。

弱点はあってはならないと感じる。

「理想の自分」を自分に要求すればするほど人の批判が堪える

人に嫌われるのが怖い人が他人は自分をどう思っているかを気にするのは、このためである。

自分はべつに「理想の自分」でなくてもよい、「実際の自分」でよいと感じるようになれば、人の批判に対してそれほど動揺しなくなる。

自分は立派な人でなければならないと感じていればいるほど、人に嫌われるのが怖い人は人の批判で深く傷つき、心は動揺する。

単に弱点を指摘されただけで人に嫌われるのが怖い人は批判されたと感じてしまう。

相手がその人を批判する気持ちがなくて、ただ弱点を指摘するということはある。

しかし、その事実の指摘に心が深く傷つく。

批判されたと感じるからである。

そして、人に嫌われるのが怖い人はまるで自分はダメな人間であるとさえ感じてしまう。

弱点があっても受け入れられたという体験がないからである。

弱点を持っている「この自分」が愛されているという感覚を人に嫌われるのが怖い人は体験したことがない。

人に嫌われるのが怖い人の本音を出さない告白癖

多弁や告白癖は贈与の愛の別の現われ方と見ることができるという。

人に嫌われるのが怖い人の多弁は自分の居場所がないからである。

ふつうは自分の居場所をつくるのには努力する。

努力しないで居場所をつくろうとするから人に嫌われるのが怖い人は多弁、告白癖になる。

彼らは努力しないで人に自分を認めさせようとしている。

告白癖は胸襟を開くというのとは違う。

自分がそのままで相手に価値あると感じられないから人に嫌われるのが怖い人は告白することで気を引こうとしている。

多弁、告白癖などの人に嫌われるのが怖い人たちは、相手を楽しくさせるためにそうしているのではない。

その場を引っかきまわす

「私ってこんな人間だからよろしくね」と人に嫌われるのが怖い人は騒ぐ。

「私ってこんな貧乏なのー」と多弁になる。

それは相手に恥じをかかせないために多弁になるのではなく、人に嫌われるのが怖い人は自分の怠惰、手抜きを隠すために多弁になっている。

「私ってこんな人間だからよろしくね」という姿勢である。

親しさと信頼を築く気持ちが人に嫌われるのが怖い人は薄い。

人が遊びにきたときに人に嫌われるのが怖い人は壊れたお茶碗でお茶を出して「私って、こんな人、ごめんなさい」と言う。

これは、ふだんの怠惰なことを示しているだけ。

自分の心を開くというのとは違う

人に嫌われるのが怖い彼らの告白は親しくなるための手段である。

「私はこれだけのことをあなたに告白している」、人に嫌われるのが怖い人はそうした関係だということである。

あまり付き合いのない人に手帳を置いていく人がいる。

手帳は相手にとって何の意味もないということが人に嫌われるのが怖い人はわからない。

自分にとって大切なものだと、人にとっても大切だと思う。

そして手帳を置いていって人に嫌われるのが怖い人は「私はあなたにこれだけの大切なものを渡した」と愛情欲求をする。

人恋しいけど、つきあい方がわかっていない

多弁になるのも、だれとも話さなくなるのも、人に嫌われるのが怖い人は付き合い方がわからないからである。

外で視線に怯える人は、家に帰って来てからも家族と話さないことが多い。

人に嫌われるのが怖い人は外でも家でも、人の中にいながらも一日だれとも話さないことがある。

多弁の人とまったく違うようであるが、付き合い方がわからないという点で両者は共通している。

ある人に嫌われるのが怖い人は、「視界のなかに人が見えるだけでも逃げてしまうようになってしまっていたのです」と言う。

それで故郷を離れて東京に出てくると今度は「めいいっぱい明るく振る舞おうとして人の輪のなかに入っていきました」となる。

人に嫌われるのが怖い人の逃げまいとする緊張

そのままの自分では相手にとって価値があると感じられない。

人に嫌われるのが怖い人は相手にいい印象を与えるかどうかに、自己の存在価値がかかっている。

たえず他人からバカにされていないかを気にしている。

そしてバカにされないように人に嫌われるのが怖い人は生きようとする。

他人から褒められる生き方をしようとしている。

自己蔑視が人に嫌われるのが怖い人はそこまでひどい。

「患者は理屈を抜きにした感情的な連帯感を追い求め、そのなかでのみ安心しようとする面をもつ」

日本人の村意識は対人恐怖症の一つの現われかもしれない。

「俺もタイガース・ファンだ」

「俺とおまえは同期のサクラ」。

知り合った仲間だけでまとまろうとする。

それがうまくいくかぎり、ものすごいエネルギーを発揮する。

人によく思われるかどうかは結果である

それを目的にして生きてはいけない。

人に嫌われるのが怖い人が「人によく思われること」は手のひらの上の鳥である。

つかもうとすると逃げていく。

対人恐怖症ばかりではなく、神経症者は一般に結果として得られるものを目的にして生きているという重大な過ちを犯している。

成長動機ではなく、人に嫌われるのが怖い人は欠乏動機で動いているということである。

視線が気になるから、向こうからだれかが歩いてくると「やっかいなことになる」という視線恐怖症の人がいる。

視線恐怖症で目のやり場がない。

視線恐怖症でもし向こうが意識して自分を避けたらどうしようと不安になる。

視線恐怖症でその予期不安のために、なんとか逃げたい気持ちになる。

視線恐怖症で逃げ腰になる。

しかし逃げれば「かえってよくない結果を生むような気がします」と言う

視線恐怖症の人はそれは自信喪失を深刻化するからである。

そこである視線恐怖症の人はいつも「視線が気になっても逃げない」という心構えをしている。

視線恐怖症の人はこの心構えがストレスを生み、エネルギーを消耗する。

ある人に嫌われるのが怖い人は「人生は一本道をまっすぐに前に進むだけです」と言う。

この意識した過剰な前向きな姿勢がストレスになる。

この「逃げまいとする緊張」はかなりのストレスになる。

ほんとうは逃げたいのに、人に嫌われるのが怖い人は意識して無理に前向きになることの葛藤でエネルギーを消耗し疲れる。

「患者は赤面におびえる不甲斐ないおのれの弱さを克服しようと赤面との戦いを決意する」

なぜそんな決意をするのか?

それは赤面する己を人に嫌われるのが怖い人は憎んでいるからである。

自己憎悪である

まったく人のことを考えていない。

さらに自分のしていることは嫌われると人に嫌われるのが怖い人は一人で勝手に思っている。

自分も人も人に嫌われるのが怖い人は嫌い。

赤ちゃんを好きな看護師さんは赤ん坊の抱き方がうまい。

嫌いな看護師さんはよく教えられて努力しても赤ちゃんがむずがる。

好きならばいろいろなことが自然とうまくいく。

他人が自分のことをどう思っているかあまりにも気にする人に嫌われるのが怖い人は、抑圧の強い人である。

心の底の動きを他人に知られたら困るからである。

赤ちゃんを嫌いな看護師さんは努力しても赤ちゃんがむずがるように、人に嫌われるのが怖い人は努力しても人間関係がうまくいかない。

人に嫌われるのが怖い人は「さびしさ」と「憎しみ」に正面から向き合おう

なぜそこまで「理想の自分」を演じることにこだわるのか?

人に嫌われるのが怖い人は理想の自分を演じることで相手を卑しめようとしている。

まただからこそ人に嫌われるのが怖い人は相手が怖いのである。

自分が相手を卑しめようとしているから、相手が怖い。

相手から人に嫌われるのが怖い人は卑しめられる可能性があるからである。

彼らは卑しめようとする気持ちを外化する。

その結果、相手が人に嫌われるのが怖い自分を卑しめようとしていると感じる。

隠された敵意がある。

その隠された敵意を理解しない限り、人に嫌われるのが怖い彼らの恐怖感は理解しにくいだろう。

ふつうの常識で理解できないことのなかには、この隠された敵意による心理が大きい

人に嫌われるのが怖い人は、他人に対して自分の成功を誇示して「どうだ」と胸を張りたいのである。

そして他人を卑しめたいのである。

それによって人に嫌われるのが怖い人は小さい頃からの屈辱を晴らしたい。

さびしさと憎しみ、それが人に嫌われるのが怖い彼らの心の底にあり、彼らの感情と行動を決めている。

つまり彼らの人生を決めている。

回復したければ、人に嫌われるのが怖い人はその心の底にあるさびしさと憎しみを意識に載せて、それと正面から向き合うことである。

とにかく楽しさを見つけることと、こうして心の底にあるものに直面していくことで対人恐怖症を乗り越えていくことが出来るに違いない。

わからなければならないのは、「理想の自分」を演じることで得られるものは何もないということである。

得られるだろうと期待したものは何一つ得られない

そして人に嫌われるのが怖い人は失うものがあまりにも大きい。

ある人は強くて勇気あるリーダーが「理想の自分」である。

しかしその人に嫌われるのが怖い人は「理想の自分として振る舞ったり、行動したあとで、自分がぐったり疲れてしまうのですと言っている。

ぐったり疲れても目的のものが得られればいい。

強くて勇気あるリーダーと周囲の人が思ってくれればまだ救われる。

しかし現実はどうなっているのだろうか?

この人に嫌われるのが怖い人は「社内の人間関係も、取引先の人間関係も、家族とも、だれともうまくいっていません。

すべてギクシャクしています」と言っている。

それは頑張る動機が憎しみだからである。

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著