人の目が気になる人が自信をもつための初め

他の人の目が気になって、他の人がいると心穏やかでない人もいます。

人から見られていることを意識すると、私達は少なからず緊張し、自然な行動ができなくなります

たとえば、他の人が見ていると、いつも通りの字が書けなくなります。

後ろから誰かが歩いてくるのを意識すると、歩き方がぎこちなくなってしまいます。

若い女性の場合には、脚が硬直してしまって、じっさいに歩けなくなってしまうことさえあります。

電車のなかで席を譲ろうとして、ふと人の目を意識すると立ちそびれてしまいます。

ところが、こうしたことが度を越すと、切実な悩みになってしまいます。

Mさんは短大の2年生です。

本人が「自意識過剰」と呼ぶ状態で悩んでいます。

たとえば、人の目が気になる彼はデパートで見たい洋服などが目についても、店員がいると素通りしてしまいます。

人の目が気になる彼は洋服を見ている自分を、店員がどう思うかが気になってしまうからです。

電車やバスに乗っても、「この席で変に思われないか」などと、座る位置を気にしてしまいます。

人の目が気になる彼は座る位置ばかりでなく、他の人との空間にも気をつかいます。

友達が座って話しているときに、友達のすぐ隣の席に座ったほうがよいか、少し離れた席の方が良いかなどと考えて考えてしまうのです。

最近は、人の目が気になる彼は「私を見ているのではない」と分かっていても、他の人の行動が気になってしまいます。

人の目が気になる彼はたとえばスーパーで買い物を選んでいるときなど、レジで店員同士が笑って話していると、自分のことを笑っているのではないか、などと思ってしまうのです。

そして、人の目が気になる彼はその日一日、不愉快な気分から抜け出ることができません。

見られることにつらさを感じるのは、男性よりも女性の方が強いようです

街へ出るにしても、食堂へ入るにしても、とくに女性は、一人のときにはどうみられているかが気になります。

人の目があるところでは、服装がおかしくないか、化粧崩れしていないかなど、ずいぶん気をつかってしまいます。

とりわけ生理のときには、スカートまでしみ出さないか、臭いがして気付かれないかなどと意識し、疲れきってしまう人もいます。

この傾向が強くなると、人の目が気になる人は人から見られることが、他の人から蹂躙されているような感じになります。

<自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋の絨毯が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへ入ると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、ことにも勘定を払う時、ああ、ぎこちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持ちになってしまって、値切るどころか、お釣りを受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京の街を歩けず、それで仕方なく、一日いっぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。>(太宰治『人間失格』集英社文庫1990)

人の目が気になる人はこうした、人といるのがこわいという心理が、とりわけ視線に対する恐怖として現れることがあります。

高校生の約40%、大学新入生の約30%が視線に恐怖を感じるという報告もあるように、思春期から青年期に多少の視線恐怖を体験することは、むしろ一般的であるといえます(臨床心理ケース研究編集委員会編『臨床心理ケース研究四』誠信書房 1982)。

人の目が気になる人は適度な範囲を越えた視線には人の心を乱す働きがあるので、意識的・無意識的に過度の視線を避けようとします。

電車のなかで目を閉じたり、本や新聞を読んだりするのも、そうした意味があります。

人の目が気になる人は会議の時に目をつむるのもそうです。

交差点などで、向こう側からくる人の視線に圧倒され、まっすぐ前を見ることができず、他へ視線を向けてしまう人の目が気になる人も、まれではありません。

人の目が気になる人は人と対したとき、頻繁に瞬きをする人がいます。

この頻繁なまばたきは、視線から圧迫を受けるにもかかわらず、その視線をはずせない緊張が生じさせるものです。

人の目が気になるという視線恐怖には、他の人から寄せられる視線がこわいだけでなく、自分の視線をおそれるという例も少なくありません。

ある男子高校生のケースでは、本人は自分の目つきが悪い、と思い込んでいます

「細目で鋭すぎて、他の人をにらんでいるような目」だと言います。

それで、他の人に視線を向けることができません。

また、横に視線を向けると隣の人が自分の視線に敵意を感じるのではないかと気になって、ただひたすらじっと前方だけに目線を向けています。

授業中、教師の話を聞いているとき、視野の隅に映る隣の人の横顔が気になってしかたがありません。

隣の人が集中して教師の話を聞いているときほど気になります。

自分がみられているかのようにも感じます。

それで、ほおづえをつくふりをして、手で隣の人が見えないようにブロックします。

また、ノートをとるとき、他の人が視野に入らないように、できるだけ顔を近づけて書きます。

耐えられなくなると、眠くなったふうを装って机に突っ伏してしまいます。

そのため、しょっちゅう教師に叱られています。

いまでは、「居眠り常習犯」という烙印が押されてしまっています。

それでも本人は、自分の本当の苦しみを隠してくれるものとして、「居眠り常習犯」の烙印をむしろ歓迎しています。

人の目が気になる起源は、親の養育のしかたにあります

なかでも中心になるのが、子どもに対するしつけです

しつけとは、自分の心や行動を、親の目で見ることを子どもに求めることです。

また、自分の感覚や感情には価値がなく、親の感じ方や感情にこそ価値がある、と子どもに強制することでもあります。

たとえば、庭に植えてあるきれいな花をつんでいたとき、親がひどく叱ったとします。

これは、「きれいだから」という自分の感じ方で行動してはいけないのであり、親の判断で行動することを求めていることです。

ですから、子どもの善悪の判断とは、まず親の判断そのものになります。

心理学者のJ・ピアジェは、道徳性の発達の研究で見事にこの発達段階を照らし出しています。

彼は、幼児期から児童期初期にかけての子どもは、親に叱られるか叱られないかを善悪の判断基準とすることを実証しています。

幼児が白い壁を泥で塗りたくる時、この行為は幼児にとって楽しくってしかたありません。

ところが、「なんてひどいことするの」とこっぴどく叱られます。

また、幼児が性器をいじったり、イスの角にこすりつけたりして快感を味わっていると、「そんな恥ずかしい事しちゃ、だめ!」と叱られます。

これは、「楽しい」とか「快感」「夢中」「熱中」などという自分の感覚よりも、親の感覚を大事にすることを強制していることでもあるのです

自分が大事にしているおもちゃを、乱暴な友達が「貸して」と言ってきたとき、壊されるかもしれないので「イヤ」と言うと、「貸してあげない子はいじわるよ」と叱られます。

このとき、この子どものおもちゃを大事にしたいという自分の心は、否定されてしまうのです。

親の目で自分を見ることは、自然に子どもの心に内在化されていきます。

すると、私達の心は、監視する自己と、監視される自己とに分かれていきます。

そして、もはや監視する自己の起源を意識することはできなくなります。

監視する自己、監視される自己が具体的になにを意味するかは、簡単に理解していただけると思います。

私達がなにかしているとき、それを見ている自分がいることがあります。

この「なにかをしている自己」が監視される自己で、「それを見ている自分」が監視する自己です。

じっさいには別な自己があるわけではなく、意識の流れです。

すなわち、今の瞬間の意識が、次の瞬間には意識の対象になるということです。

一瞬の過去の意識が監視される自己で、現在の瞬間の意識が監視する自己というわけです

しかし、構造的に二つが同時に存在すると述べるほうが分かりやすいので、以下そのように記します。

自分がこの二つの自己に分離していることを強く感じることは、通常はありません。

なにか良くない行動をしたときなどに、罪悪感として感じられる程度です。

ところが、一時期、幻聴に苦しめられ、分裂病を疑われたある若い女性は、この監視している自己の声が「じっさいに耳にガンガン聞こえてきた」と語っていました。

また離人症の場合には、行為している自分をあたかも画像のように自分が見ている、という感じになります。

私達の心は、自分のなかに形成された監視の目に沿って発達していきます。

それによって社会に適応する自我が形成され、社会に適応した行動ができるようになるのです。

しかし、諸能力の発達により、親の目や監視する目からはずされた心の動きが形成されていきます。

このため自分の中に、社会に適応する部分とそうでない部分とができてきます。

たとえば、親に叱られて「ごめんなさい」としおらしく謝る自分と、「ふん」と親を馬鹿にしている自分が共存しているなどです

そして、人の目が気になる人はしだいに外界に適応している自分は嘘っぽく感じられ、適応していない部分の方が本物の自分のように感じられるようになります。

こうして、人の目が気になる人の自己は「偽の自己」と「真の自己」とに分かれていきます。

真の自己がもっとも急速に拡大し、決定的に監視する自己と対決するようになるのは、思春期以降です。

それはなんといっても、ホルモンの分泌により性的衝動が強まるからです。

このために、人には言えない淫らなイメージを思い浮かべます。

また、じっさいに一人で、あるいは異性と禁じられた行為を行います。

大部分の人では、このような時期に、監視する自己に少し眠っていてもらうような柔軟性ができてきます。

本音と建て前の使い分けとか、「嘘も方便」的な行動とか、表面だけ「はい、はい」と従順であるなどです。

ところが、監視する自己があまりに強固に形成されてしまった人の目が気になる人はそれができずに、こうした行動に強い罪悪感が伴ってしまいます。

真の自己と偽の自己との統合が上手く行かなかった人の目が気になる人は、真の自己と偽の自己との分裂が拡大していきます。

そうすると、人との付き合いは偽の自己による演技であり、ますます嘘っぽく感じられます。

人の目が気になる人は親の前では幼稚っぽく、人には愛嬌を振りまき、大人には礼儀正しくふるまうのは偽善的だと感じられます。

真の自己は、もっと露悪的で邪悪な自分を表現したい欲求に突き動かされます

しかし、人の目が気になる人はできません。

そのために、人の目が気になる人は本当の自分で生きられないという無力感にとらわれます。

ところが一方で人の目が気になる人の真の自己は空想の世界に閉じこもるために、非現実的な全能感に満たされます。

このためにこうした人の目が気になる人の心は、極端な無力感と極端な全能感とのあいだで揺れ動くことになるのです。

人の目が気になる人の愛着人物のいない不安

「臆病、警戒心、不信感」があるということは、日常生活でものすごくストレスが強いということです

それは、恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人は自分の能力を発揮できないということです。

リラックスして自分がしたいことをしているときというのは能力が全開します。

さらに人の目が気になる人は「臆病、警戒心、不信感」があれば、人とつきあっても楽しくはありません。

一度、映画に一緒に行って楽しいからまたその人と行きたいと思います。

そこで相互作用は繰り返されて関係ができます。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人はなかなか恒常的な関係ができません。

恥ずかしがり屋の人は自分が傷つきそうな場面を避けます。

傷つくことを恐れて、人と会うことに怯えるから、いよいよ孤立になります

そして人の目が気になる人は自分の欠点に意識を集中させます。

ことに性的な出会いは、恥ずかしがり屋の人の目が気になる人にとって深刻な脅えを引き起こします。

人の目が気になる人はそこで身を引きます。

それが自己評価をさらに下げます。

人の目が気になる人は近づきたいけど、近づくのが怖いのです。

迷うだけで決断ができません。

人の目が気になる人は近づきたいけど、近づけないから、いい友達ができません。

そして人の目が気になる人は向こうから近づいてきた人に騙されます。

騙す人は、恥ずかしがり屋の人のように自分を守ることだけを考えている人を捜します

これは実際にあった話です。

高校三年生の女子が「妊娠した」と言いました。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる大学生は、自分を守ることばかり考えています。

そこで人の目が気になる彼は困惑しました。

ところが、これは高校三年生の女子とその母親が仕組んだ罠でした。

人の目が気になる男のほうが騙されます。

脅された人の目が気になる男のほうは「すこしのお金で別れられた」と思っているが、女の方が上手です。

じつは、妊娠していませんでした。

「つまらない男だから、お金を取って捨てよう」と女は思いました。

困惑のときにこれが起きます。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人は困惑する事件が起きていないのに、起きたと思って困惑します。

そして人の目が気になる人は困惑したときに利用されます。

この人の目が気になる大学生には信頼する仲間がいませんでした。

信頼する仲間がいれば対処は違いました。

そして人の目が気になる人は困惑したときに利用されます。

「信頼する仲間がいれば、いかなる種類の事態に対する恐怖も減少します。

対照的に、ひとりぼっちになると、いかなる種類の事態に対する恐怖でも増大します」

人の目が気になる人は困ったときに助けてくれる愛着人物がいると思っているか思っていないかで、不安と恐れは違ってきます。

恥ずかしがり屋の人にはこうした愛着人物がいません

この人の目が気になる大学生には信頼できる仲間もいないし、母親も怖いです。

母親に話せば怒られるだけで、解決はしてくれません。

人の目が気になる彼は小さいころから何かあると怒られるだけで、だれも解決してくれませんでした。

そこで人の目が気になる人は何かあると怖いから自己執着が強くなります。

「なんとかなるさ」という安心感がありません。

人の目が気になる人はいつも不安で怯えています。

ボウルビィは「恐怖への敏感性の程度」は愛着人物がいるかいないかに左右されると言います。

「恐怖への敏感性の程度」とは、どれくらい「怖がるか」ということです。

困ったら助けてくれる人がいると思えば、人は挑戦します

「人が怖い、人に近づきたくない、人に会いたくない」という恥ずかしがり屋の人の目が気になる人は、小さいころから愛着人物の有効性を信じられませんでした。

それが人の目が気になる彼らの人に対する不信感を生み出しています。

恥ずかしがり屋の人の目が気になる人は困ったときも困っていないときも、自分一人で生きてきました。

人の目が気になる人は自分一人の力では生きていけないときも、自分一人の力で生きてきました。

だから人の目が気になる人は臆病で警戒心が強いです。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人を「臆病、警戒心、不信感」と説明します。

それは恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人が育った人間環境を考えれば当然です。

人と会っていて、「この人は自分を批判する」と思っているのと、「この人は自分が困ったときに助けてくれる」と思っているのとでは、会っているときの消費するエネルギーが違います。

人の目が気になる人は人から評価されるのが怖い

世の中にはまともに挨拶ができない人がいます

人の目が気になる人は「人が怖い、人に近づきたくない」という心理が極端まで行けば、挨拶するのも苦になります。

そして事実、人の目が気になる人が安心して人に近づけないのは、自分が嫌われる存在という自己イメージがあるからです。

人の目が気になる人が人に近寄るのが困難な原因のひとつとして、「低い自己評価」があります。

自分は嫌われる存在という自己イメージがそれです。

ではなぜそうした自己イメージを持ってしまったのでしょうか?

その原因は親が人間嫌いだからです。

親は子どもが嫌いです。

子どもは、自分はそのままでは嫌われる存在だと思うから、人に迎合します。

迎合することで自分が自分にとって頼りなくなります

人の目が気になる人は自分自身が頼りないから、人が怖いし、人に近寄りがたいのです。

そこでさらに迎合します。

この悪循環です。

人の目が気になる人は迎合して一方的に尽くしだしたら、だれでも相手を嫌いになります。

人は孤独なときにそうします。

人間の心と行動は好循環していくときと悪循環していくときがあります。

それがオーストリアの精神科医ベラン・ウルフが言う、幸福も不幸も複利でふえていくということです。

いったん不幸になりだすと、坂道を転がるようにどんどん不幸になっていきます。

人の目が気になる人が「人が怖い」というと不合理と思う人がいるかもしれないが、決してそうではありません。

肉体的に傷つけられたときに「人を恐れる」ということはだれでも納得します。

しかし心理的に傷つけられても同じことです。

やはり人に近づくことは怖くなるでしょう。

恥ずかしがり屋の人が「人が怖い」という理由には、二つあります

一つ目は、人とどう接してよいかわからないことです。

二つ目は、人から評価されることが怖いということでしょう。

人の目が気になる人は自分より力のある人から自分が評価されるのが怖いのです。

そして、人の目が気になる人はその評価はいままではいつも低かったのです。

そして人の目が気になる人はその低い評価ゆえに責められました。

人の目が気になる人はだから人が怖いのです。

評価されるだけで、責められることもなく、「実際の自分」が受け入れられて、いままでの楽しい人間関係を維持できるのならよいです。

しかし評価のあとで、必ずその評価に従って批判されるということが続きます。

人の目が気になる人はだからもう人に近づくのが怖いです。

もう人と接することに疲れています。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人は、小さい頃から権威主義的な親を喜ばせることが仕事でした。

人の目が気になる人は権威主義的な親を喜ばせるためには従順でなければならなかったのです。

しかし、人の目が気になる人は従順な振る舞いをしていることの結果が自分自身への頼りなさです。

人の目が気になる人はそうした生活をしているうちに、じぶんのなかに人に知られては困るものができるのは当然です。

それがまた人と会うときに緊張感を生みます。

権威主義的な親は、子どもにとって圧倒的に力のある存在です。

人の目が気になる人はその圧倒的に強い力の人が自分を責めていました。

権威主義的な親は、自分をありのままの自分として受け入れてはくれませんでした。

そう理解すれば、恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人が「人が怖い」というのは納得できないでしょうか。

認めてほしいという切実な思い

恥ずかしがり屋の人はうつ病になりやすいということをジンバルドーが言っています。

他人の目が気になる人は小さい頃から嫌いな人といます。

嫌いな人といるからうつ病になってしまいました。

他人の目が気になる人は人間関係がおかしいのです。

家族のなかで醜いアヒルの子なのです。

彼以外のほかの家族はお互いに心が触れ合わなくてもよいのです。

彼らは同じ種類の人間だからです。

彼だけが触れ合いたかったのです。

ほかの人たちは、その人が自分たち家族を嫌いだと認めさせません。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人はさまざまな不要な心配をして生きています。

それは予期不安と言われるものです。

たとえば人の目が気になる人はそのひとつに顔を赤らめるという心配があります。

恥ずかしがり屋の人は自分をよく見せたいのです

人の目が気になる人は顔が赤くなるのは本質を突かれたときです。

彼らはいつも本質を見破られるという不安を持っています。

そして人の目が気になる人は本質を見破られたら、自分は嫌われると思っています。

人の目が気になる人は自分がほんとうにしたいこと、それができなかった挫折感で顔が赤くなります。

その挫折感を隠しています。

しかし人の目が気になる人はどこかで自分を出したいのです。

人の目が気になる人はでも出せません。

それは人の目が気になる人はそうした人間環境で育ったからです。

「いやね、こんな子、産まなければよかった」

人の目が気になる人はそうした声を聞いて育ちました。

無関心で育てられました。

人の目が気になる人はそうなれば「本質を見破られたら嫌われると思う」のは当たり前です。

自分を認めてほしいのです。

でも人の目が気になる人は認めてもらえないのです。

だから人の目が気になる人は自分を出さないのです。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人も、自分を表現したいのです。

人の目が気になる人は認められたいのです。

この二つの感情が矛盾します。

人の目が気になる人は認められたいから、「自分を表現したい」といういまの欲求を否定しなければなりません。

認められるためには、自分の本質を見抜かれてはいけません

そこで人の目が気になる人は失敗しそうなところに出ていきません。

その結果、どうしても恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人の世界は小さくなります。

人の目が気になる人はそれでも期待したように自分を認めてくれません。

うつ病にならないようにするには、恥ずかしがり屋の人はまず家族への執着を捨てることです。

恥ずかしがり屋の、人の目が気になる人は家族に執着しているのは、家族に心理的に依存しているからです。

自立するとは、執着を捨てることです。

※参考文献:人と接するのがつらい 人間関係の自我心理学 根本橘夫著
※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著