自己肯定感と自己価値感の違い

自分に価値があるという感覚を自己価値感という。

人と比べて劣っていても、未熟なところがあったとしても、自分には無条件に価値があるという感覚である。

マズロー、アドラー、ロジャーズ、メイなどの人間性心理学に属する研究者に限らず、人間の心理を深くリアルに理解しようとすれば、用語はどうあれ、自分の価値についての感覚、感情、意識に触れないで済ますわけにはいかない。

これをself-esteemとして実証的研究の俎上に載せたのは、ローゼンバーグであり、クーパースミスである。

self-esteemは自尊感情や自尊心などと訳され、自己価値感が中核をなすが、研究者により自己評価の高さ、有能感や自信、劣等感のないこと、同情を拒否する態度など多様なものが含まれる。

日本語でも自尊心は「自尊の気持。特に、自分の尊厳を意識・主張して、他人の干渉を受けないで品位を保とうとする心理・態度。プライド」とされており、心理学用語として使用するには広義で曖昧すぎる。

ここでは概念の意味するところを明確にするために自己価値感という用語を使用する。

なお、日本で自己価値感を中核概念として最初に用いたのは1983年品川不二朗の書著である(『子どもがやる気をおこすとき ヤケをおこすとき―自己価値感の心理学』あすなろ書房)。

現在、日本では、とくに教育や臨床の現場などでは自己肯定感という言葉がよく用いられるが、自己価値感はその基盤となるものであり、自分についての最も根底的な感覚といえる。

私たちは自己価値の感覚を常に意識しているわけではない。

温かな愛情に包まれていると感じたときや、一人の人として尊重されていると感じたとき、あるいは、大きな仕事をやり遂げたときなど、幸福感、達成感、充実感などとともに自己価値感を体験する。

むしろ自己価値感は、それが脅かされたときに自己無価値感(無価値感)として体験されやすい。

それは、愛を失ったり、失敗したり、劣っていることが明らかになったり、軽んじられたり、自分を偽ってしまったときなどである。

このために、無価値感は、不安、孤独感、無力感、無能感、屈辱感、卑小感などの感情と結びついている。

また、自己価値感が希薄な人ほど自己価値の感覚が脅かされるので、無価値感を頻繁に深く体験することになる。

アドラーの「人生の最高の法則」

オーストリアの精神分析学者アドラーは、自分の価値感が低減させられるのは許せないということが「人生最高の法則」だと述べている。

自分という価値を守り、高めたい欲求は、人間にとって基本的で強烈なものである。

このために、私たちは意識的、無意識的に自己価値感を獲得し、維持し、高めようとする。

愛し、愛される関係を求め、愛を深めようとする。

自分の力を伸ばし、自己成長しようと努力する。

親や教師、友達、社会から認められようと努める。

自己価値感を守ることは、ときには自らの命と引き替えにするほどの重さがある。

たとえば、いじめられて自殺するほどつらいのに、そのことを親に訴えない子どもがいる。

親に言ったら、いじめられている情けない自分の姿が親にあからさまになってしまうからである。

言ったら、自分で自分の無価値さを確認することになり、耐えられないからである。

親からひどい虐待を受けている子どもも、その親をかばう。

親にさえ愛されていないという事実を受け入れることは、耐え難い無価値感情をもたらすからである。

子どもばかりではない。

恥辱により自己価値感を傷つけられて生きるよりも、死を選ぶ大人がいる。

無価値感を埋める試み

基本的な欲求は、それがみたされないと、その欲求への過度の執着が生じるという性質がある。

自己価値感も同様であり、それが満たされないと、強迫的な自己価値感が形成される。

だから、無価値感が強い人ほど、誰からも称賛され、誰からも注目され、誰からも愛されることに執着する。

そのために、人一倍の努力や自己犠牲的態度が身に付くことが多い。

こうしたことで、心の底に深い無価値感を秘めながら、粘り強い努力によって潜在能力を十二分に発揮する人がいる。

崇高で尊敬される生き方をする人も少なくない。

また、その心理的特性から、医療や福祉、教育関係の職業を選択する人も多い。

このような生き方ができるためには、環境条件や一定の諸能力が前提になる。

それらに欠ける場合には、自己価値感が偽装され、屈折した形で表現される。

たとえば、努力を放棄する、評価に無関心を装う、ひねくれる、強情になる、すねる、幼く甘えん坊になる、頻繁に心身の不調を訴えるなどである。

いずれも表面的には自己価値感への欲求がないかのようである。

そうではない。

このような人は、自己価値感への渇望があるのだが、それを達成する自信がないためにこうした行動をとるのである。

直接的な行動を追求する能力がないゆえに、こうした屈折した行動で自己価値感を満たそうとするのである。

たとえば、努力の放棄は、自分の無価値さを直視しなければならない状況を回避する行動である。

「僕だって、本当はやればできるのさ」と。

ひねくれることや強情になることは、周囲を手こずらせ、自分の存在をアピールする行為である。

心身の不調は、それにより周囲の保護や同情、注目を引き出そうとするメカニズムが働いている。

思春期以降になると、意識的に自己否定的方向で無価値感を埋めようとすることがある。

たとえば、勉強でも特技でも自己価値感を得られなかった女子が、思春期になり自分の身体の価値に気づき、身体で無価値感を埋めようとすることがある。

男子の場合、体力に自信を得て、暴力的な行動で自己価値感を得ようとする人がいる。

人生とは、それぞれの人が自己価値感を保持し、高めようとする行動の集大成と理解することができる。

※参考文献:「自分には価値がない」の心理学 根本橘夫著