人を好きになれない、自分を好きになれない人は心の底に隠されている「怒り」に気づく

服従依存の裏には敵意が隠されている

権威主義的な人、何でも従順なイエスマン、頼まれたら断れない人、それらの人を好きになれない、自分を好きになれない人には自分でも気づかない敵意や憎しみがある。

そのような隠された敵意や憎しみ、怒りがあるからこそ、人を好きになれない、自分を好きになれない人は本当には他人と親しくなれないのである。

その怒りを抑圧し投影しても、また単純に気付かないまま、心の底に隠れたままにしていても、その怒りが、その人を好きになれない、自分を好きになれない人が他人と親しくなることを妨げるのである。

表面的には人を好きになれない、自分を好きになれない人は付き合いのいい人間であり、誘われれば断らずについてくるし、八方美人で誰にでもいい顔をするが、どうしてもそれ以上にはならない。

心を通じ合うというところまでは人を好きになれない、自分を好きになれない人はいかない。

もう一歩親しくなれない

人を好きになれない、自分を好きになれない人にはどうしても壁がある。

いくら付き合っても、人を好きになれない、自分を好きになれない人はいくら長い時間一緒にいても、どうしても人間的な親しみが湧いてこない。

なんとなく壁があり、その壁をどうしても打ち破れないという人を好きになれない、自分を好きになれない人はがいる。

それはその人を好きになれない、自分を好きになれない人の心の中に、どうしようもない怒りがあるからであろう。

怒りをおさえている

本人の気づいていない怒りが、その人を好きになれない、自分を好きになれない人を他人に近づけさせないのである。

この自分の心のなかの怒りに気づくことが、人を好きになれない、自分を好きになれない人が他人と親しくなるための第一歩であろう。

従順な者、生真面目すぎる者、権威にどうしてもさからえない者、上の者にすぐ取り入ってしまう者、それらの人を好きになれない、自分を好きになれない人々は、自分を犠牲にして、他人に気に入られるように振舞っているのである。

その結果、その、人を好きになれない、自分を好きになれない人は恐ろしい怒りをもつ。

それに気づいていない

強い者、上の者に、お気に召すようにと人を好きになれない、自分を好きになれない自分を投げ出し、いいように扱われながら、心のなかでは怒っている。

人のお気に召すままに人を好きになれない、自分を好きになれない人は振る舞い、表面ではそれに満足しているように見えながら、じつは心の底では怒りに燃えている。

したがって自分を人を好きになれない、自分を好きになれない人は支配する上の者に従順でありながらも、心の底から親しみを感じているわけではない。

主人と従者という関係から人を好きになれない、自分を好きになれない人はどうしても出られない。

執着性格とかメランコリー性格とかうつ病の病前性格者、あるいはうつ病者の人間関係は、役割的人間関係であるといわれる

それは何年つきあっても人を好きになれない、自分を好きになれない人は部長と課長という役割的関係を出られないということであり、会社を離れて飲んでいるときでさえ、部長と課長であるということである。

そのような秩序のなかでしか人を好きになれない、自分を好きになれない人は人と接することができないのは、やはり隠された敵意があるからである。

秩序、役割をこえて人の心と人の心との触れ合いになると、人を好きになれない、自分を好きになれない人は恐ろしい怒りの部分に直面せざるを得ない。

いつも人と一定の距離を置いておくことが、人を好きになれない、自分を好きになれない人は自分の心の中の怒りを無意識に追いやったままにしておくために必要なことなのである。

相手の好意を失うことを恐れ、自分を殺し、自分を偽って生きることで怒りが生じ、その怒りを抑圧する。

相手が支配的な人格である場合には、相手はまた自分の支配欲と愛情を取り違える。

相手が支配しているのに愛していると思い込む従順な人を好きになれない、自分を好きになれない人は、支配されているのに愛されていると錯覚する。

お互いに自分の真の性格に気づくことなく関係が続く。

人を好きになれない、自分を好きになれない人の「好かれる努力」があなたを苦しめている

なぜ怒りを抑圧するのだろうか。

それは人を好きになれない、自分を好きになれない人は恐れである。

今述べた好意を人を好きになれない、自分を好きになれない人は失う恐れ、愛を失う恐れである。

その恐れは幼い日、人を好きになれない、自分を好きになれない人が暗い夜道で一人迷子になるような恐れである。

誰かにおそわれるような恐れである。

それは殺されるほどの恐れである。

従順な人を好きになれない、自分を好きになれない人は好意を失うことの恐れ、愛を失うことの恐れに気づいているかもしれないが、自分がどれほど恐れているかというその程度には気づいていない。

殺されるほどの恐れなのである

人を好きになれない、自分を好きになれない人はだからこそ、どうしても相手にさからえず、お気に召すままとなってしまう。

なにも生まれたときから人を好きになれない、自分を好きになれない人はお気に召すままといっているのではない。

好意を失うことを殺されるほど恐れていなければ、なにも好んで自分を犠牲にして支配的な相手のいうなり、望み通りになどなるはずがない。

権威に従順な人を好きになれない、自分を好きになれない権威主義者たちは、心の底では怒りをもちながらも恐れている人々である。

そして、その怒りを人を好きになれない、自分を好きになれない人は抑圧している。

自分のなかの怒りに気づくことは、同時に自分のなかの恐れにも気づくことである。

自分が相手に怒りながらも、嫌われることを恐れていることに気づくことである

人を好きになれない、自分を好きになれない人は自分で自分が頼りない。

それなのに人を好きになれない、自分を好きになれない人は怒ってしまっている。

怒りに人を好きになれない、自分を好きになれない人が気づくことは、保護と安全の断念でもある。

だからこそ人を好きになれない、自分を好きになれない人は恐れる。

つまりそれまで人を好きになれない、自分を好きになれない人は保護と安全を得る代価として、自分を奴隷としてさしだしていたのである。

しかし心の底では、人を好きになれない、自分を好きになれない人は奴隷として扱われることに怒っていた。

自分の人間性を人を好きになれない、自分を好きになれない人は認めてくれないことに怒っていた。

肉体的に自由を許されない奴隷の解放をアメリカで行なったのはリンカーンであるが、心理的に自由を許されない人を好きになれない、自分を好きになれない奴隷は、この世の中にまだまだたくさんいる。

人を好きになれない、自分を好きになれない人の従順さと頼りなさの悪循環

上の者に絶対服従を誓うような人は、心のなかで怒りの炎を燃やしているのではなかろうか

人を好きになれない、自分を好きになれない人はその怒りの反動形成として絶対服従の態度に出るのである。

極端に尊敬する人物がいると安定するという。

やはり人を好きになれない、自分を好きになれない人は隠された敵意ゆえであろう。

過度の尊敬は、その隠された敵意の反動形成であり、自己陶酔の外化であろう。

過大に評価する人がいると安定するというのは、それによって心の葛藤を解決しているからである。

逆に言えば、ある人を過大に評価するということは、その人を好きになれない、自分を好きになれない人が心に葛藤をもっているということの証拠でもある。

その人物が偉大なのではなく、その人物を偉大と思うことがこちら側の心に必要なのである

人を好きになれない、自分を好きになれない人はとにかくある人物を過大に評価し、その人のいうことを何でも聞くことによって、心理的に安定するのである。

相手の支配を自ら招くのは、人を好きになれない、自分を好きになれない人が心理的に頼りないからである。

頼りなさと従順は、にわとりと卵のようなところがある。

ただ従順になればなるほど人を好きになれない、自分を好きになれない人は頼りなくなり、頼りなければ頼りないほど従順になる。

その悪循環のなかで怒りはどんどん激しくなっていく。

抑圧された怒りや敵意は、外界に投影されて、いよいよ従順さが加速される

外の世界が人を好きになれない、自分を好きになれない自分に敵意があるように思われてきて、それを恐れ、さらに従順さをもって対応する。

他方では人を好きになれない、自分を好きになれない人は頼りない感情が強化される。

つまり頼りなさに苦しむ人を好きになれない、自分を好きになれない人が、敵意に満ちた世界に投げ込まれたらどうなるか。

それを考えてみれば、人を好きになれない、自分を好きになれない人が上の者に絶対服従する人の心の内と、その態度が理解できるのではなかろうか。

それが何でもいうことをよく聞く、人を好きになれない、自分を好きになれない素直な部下であったり、反抗期もないよい子である。

支配的な人間にとって人を好きになれない、自分を好きになれない人は都合のよい人間でもある。

支配的な人間がそのような人間を求めていると同時に、そのように不安な人を好きになれない、自分を好きになれない人もまた支配的な人間を求めている。

すべての人が、自己中心的でわがままで支配的な人間と深くかかわっていくわけではない

人を好きになれない、自分を好きになれない人は生活のさまざまな面でそのような支配者とかかわってしまうのは、かかわる側の心の中にもその原因がある。

もしかして今、人を好きになれない、自分を好きになれないあなたは、単にわがままで幼児的な暴君を偉大な人と、ものすごく尊敬して、その人のお気に入りになっているかもしれない。

その人のお気に入りになることで人を好きになれない、自分を好きになれない人は安全を得ようとしているかもしれない。

しかしその人を好きになれない、自分を好きになれない人の安全の代価は高い。

生きることの無意味感であり、抑うつであり、ストレスであり、不眠症であり、胃の不快感であり、イライラであり、億劫であり、何よりも人を好きになれない、自分を好きになれない人は不幸である。

支配者は犠牲者を求めている

人を好きになれない、自分を好きになれない人はその支配者に気に入られるために、自ら好んで犠牲者となったのである。

その支配者に気に入られることで人を好きになれない、自分を好きになれない人は、何かよいことはあったであろうか。

心の頼りない人を好きになれない、自分を好きになれない人にとって、安全は不幸と一緒でなければ手に入らない。

頼りなさに苦しんでいない者は、自ら好んで支配的人間の犠牲になどならない。

人を好きになれない、自分を好きになれない人の「心の弱さ」を乗り越える唯一の方法

大切なのは、自分の心の弱さを自覚することである

人を好きになれない、自分を好きになれない人は支配的な人間の誘惑に勝つことである。

誘惑と言えば、すぐに男と女の誘惑、あるいはお金の誘惑を考える。

しかしそれ以上に人を好きになれない、自分を好きになれない人が注意しなければならないのは、支配される誘惑である。

自分を犠牲にする誘惑である。

性の誘惑、お金の誘惑以上にそれは強い。

自分を犠牲にしたいという欲求は、想像以上に強いのである

それは、それが依存心から出ているからである。

しかも人を好きになれない、自分を好きになれない人はその自分を犠牲にしていい顔をしたいという誘惑は、歯止めがない。

悪いことを人を好きになれない、自分を好きになれない自分はしているという自覚がない。

立派な人間であると人を好きになれない、自分を好きになれない自分は思い込んでしまう。

それを防ぐためには、人を好きになれない、自分を好きになれない自分の心の弱さを自覚するしかない。

気に入られるために自分を犠牲にして生きる

すると今度は人を好きになれない、自分を好きになれない人は気に入られていないといよいよ不安になる。

そこでますます人を好きになれない、自分を好きになれない人は気に入られるための行動をしようとする。

まさに人を好きになれない、自分を好きになれない人は自己抹消である。

自我欠損という言葉があるが、人を好きになれない、自分を好きになれない人はこの状態である。

そして相手のほうは、いよいよ自己を抹消してしまった人を好きになれない、自分を好きになれない者をなめる。

相手は、自分を抹消した人を好きになれない、自分を好きになれない者が望み通り動くのが当たり前と思いだす。

自分の思い通りに動かなければ、けしからんと思いだす

そのわがままで支配的な人も、自己を抹消していない者に対しては、礼儀正しく振る舞ったりする。

つまり自己を抹消した者を自分より劣等の立場に置くことを当たり前と思いだし、自己を抹消した人を好きになれない、自分を好きになれない人は、自分を劣等の立場において安心することに慣れてしまう。

単純に日常的なことでもそうである。

待ち合わせをする。

常識的にはお互いの都合のいい時間に会う。

自分を抹消した者とわがままで支配的な人との関係は違う

わがままで支配的な人が人を好きになれない、自分を好きになれない人の自己抹消者の都合を無視して勝手に時間を決める。

そして自己を抹消してしまった人を好きになれない、自分を好きになれない人は、そのとき自分の都合をいえない。

わがままで支配的な人が、そのときの気分で決めたような時間を、人を好きになれない、自分を好きになれない人は絶対に破ってはいけないものと決め込む。

自己を抹消してしまった人を好きになれない、自分を好きになれない人は、そんなにまでされてもこの支配的な人との関係を絶つことができない。

愛情に人を好きになれない、自分を好きになれない人は飢えているからである。

どんな屈辱的な関係でも、愛情に飢えている人にとっては、ないよりはいい

人を好きになれない、自分を好きになれない人は同年輩の場合でも自分を主張することを恐れる。

まして、先輩との関係では人を好きになれない、自分を好きになれない人は自分を主張することをもって恐れる。

そして愛情に飢えているだけに、人を好きになれない、自分を好きになれない人は年の離れた先輩や、上司の立場にいる人を権威主義的な父親代わりにする。

つまり自分のそばで人を好きになれない、自分を好きになれない人は権威主義的、支配的な父親代わりを求めている。

そこにわがままで支配的で攻撃的な人が、逆に自分の命令をよく聞く従順な人を好きになれない、自分を好きになれない人を求めてあらわれる。

お互いに無意識に選びあって関係がつくられる

そこでは命令する者と命令される者との関係が生じる。

自分を抹消した人を好きになれない、自分を好きになれない人は、どんな筋の通らないことでも命令されるとさからえない。

気に入られるために自分を抹消してしまった人を好きになれない、自分を好きになれない人は、まず自分の周囲にある屈辱的な関係というものの一方の原因は自分の心のなかにあるということを自覚することである。

次にその関係を続けることは、人を好きになれない、自分を好きになれない自分をいよいよ神経症的にするものでしかないということを自覚することである。

最悪なのは人を好きになれない、自分を好きになれない人は関係を続けること、次に悪いのは復讐すること。

選ぶ道としては、人を好きになれない、自分を好きになれない人はその人と関係なくなることである。

これを逆に言えばこうなる。

最もよいのは関係を絶つこと

次によいのは人を好きになれない、自分を好きになれない人は復讐すること。

つまり関係を続けるくらいなら、人を好きになれない、自分を好きになれない人は復讐したほうがまだよいということである。

自分を抹消した人を好きになれない、自分を好きになれない人の心の底には間違いなく敵意や憎しみがあるのだから。

自己抹消は人を好きになれない、自分を好きになれない自分を憎むあまり、破滅寸前の状態になっている。

極端にいえば、自殺か殺人かということである。

自殺の可能性はあるし、人を好きになれない、自分を好きになれない人はその一歩手前のうつや神経症には、現実になっている。

人を好きになれない、自分を好きになれない人は人を憎むか、自分を憎むか

人は不安なとき、人を憎む者、人から離れる者、自分を憎む者に分かれる。

頼りない人を好きになれない、自分を好きになれない人にとって、自分を憎むことのほうが、人を憎むよりやさしい。

他人に攻撃的になるタイプは、自分が他人を攻撃しているということに気がついている。

ところが自分を憎んでいる人を好きになれない、自分を好きになれない人は、自分を憎んでいるということに気がついていない。

カレン・ホルナイは自分を憎んでしまった者のことを記している。

自分を憎んだ人を好きになれない、自分を好きになれない人は、最後には自分を破壊しようとする衝動をもつというのである。

憎しみが自分を破壊するほうに向いてくる

そしてそれがときに、突然飛び降りたいというような衝動となってあらわれて、やはり何かにつかまるというのである。

高いところから飛び降りたいという衝動は、突然あまりにも強くなり、そうしないためにその人は何かにしがみつかなければならない。

自分を憎んでしまい、他人が自分を軽視し、軽くあしらい、もてあそぶことを人を好きになれない、自分を好きになれない人が許してしまうことは危険である。

自分をボロボロにして他人に追従していく、人を好きになれない、自分を好きになれない人は自分を殺すところまで自分を追い詰めてしまうのは、自分自身なのである。

人を好きになれない、自分を好きになれない人の不安・苦悩の出口はどこにある?

追い詰められていたって、そのことに気づいているのは本人だけなのである

人を好きになれない、自分を好きになれない人は自殺するところまで追い詰められていても、そのことを知っているのは本人だけである。

このことは、何度繰り返しても繰り返しすぎることのない大切なことである。

たとえばそこまで追い詰められているから、ほんの少しでも人を好きになれない、自分を好きになれない人が自分を大切にしようとすれば、周囲はあなたがひどいことをいいだしたかのように怒りだす。

なんというわがままだと人を好きになれない、自分を好きになれない人は怒りだす。

周囲の人はわがままをいうことが当たり前、あなたはそれに従うのが当たり前、それが公平となっている。

だからこそ、自殺がおきたとき、周囲の人はみな「まったく思いあたることがない」というのである。

そこまでボロボロにされ、侮辱され、乱用され、自殺するところまで追い詰められていたって、誰一人そんなことにはまったく気づいていない

どんなに大きな犠牲を人を好きになれない、自分を好きになれない人は払って相手に追従しても、わがままな相手はそのことに気がついていない。

ついには自分の命を犠牲にしても、そうせざるを得なくなっても、人を好きになれない、自分を好きになれないあなたの周囲の人は、あなたにとって重要な人々は、「まったく思い当たることがない」というのである。

従順な人を好きになれない、自分を好きになれない人は、そんなひどい人達のために自分の人生を台無しにし、自分の命を切り刻み、そして気に入られようとしているのである。

相手がなめて軽く扱っても、他の人と違って人を好きになれない、自分を好きになれない人を軽く扱っているという事自体に気がついていないということである。

一人で自分をボロボロにして苦しんでいるのである

気に入られたいと人を好きになれない、自分を好きになれない人は自分をボロボロにし、そして誰からも気に入られず、みんなから軽視され、なめられてしまった。

そのうえ誰も人がボロボロになっているなどということに気づかないし、気付こうともしない。

あなたにとって大切なことは、人を好きになれない、自分を好きになれない人は決して理解されない。

八方ふさがりで今人を好きになれない、自分を好きになれない自分はボロボロになり、小さなことでいいから自分を大切にしなければ自殺にまで追い込まれると分かっていても、周囲は決してあなたがあなたにとって大切なことをすることを許さない。

このままの関係を維持することが最悪で、次は復讐することだといったのは、それだからである。

決して復讐そのものがよいなどといっているのではない

よいことではないが、そのような心の姿勢になる以外に、人を好きになれない、自分を好きになれない自分を救う道がないといっているのである。

不当にも人を好きになれない、自分を好きになれない自分に向けられた攻撃性を、外に向け直すことが大切だといっているのである。

自分を憎み、そして自分を軽蔑してしまった人を好きになれない、自分を好きになれない人は、周囲の同情を得ようとするが、それは無理である。

自殺したって「まったく思いあたることがない」のであるから、あなたが「こんなに苦しいのだから」と思って心中ひそかに同情を求めても、決して同情など得られない。

なぜなら「こんなに苦しい」ことがだれにもわかっていないのだから、人を好きになれない、自分を好きになれないあなたはもはや誰かにわかってもらおうとしても無理なのである。

主人と追従者という役割が固定されてしまっているのだから

相手が支配し人を好きになれない、自分を好きになれないあなたが従う、それは太陽が東から昇るように当たり前のことになっている。

人を好きになれない、自分を好きになれないあなたが文句をいってはいけないということは、太陽が西に沈むように、みんなは当然と思っている。

あなたは人を好きになれない、自分を好きになれない自分に必要なものを剥奪されているのである。

それを人を好きになれない、自分を好きになれない人は取り返すだけである。

「私には”これ”が必要です」ということでしか自分を救えない

同情を求めていても人を好きになれない、自分を好きになれない人は無理である。

あなたが自殺したいというところまで追い詰められているとすれば、おそらく人を好きになれない、自分を好きになれないあなたの周囲にはわがままでずるい人しかいないであろうから。

それまでの人生で人を好きになれない、自分を好きになれないあなたは思いやりのある人におそらく出会っている。

あなたの苦しみを理解できる人に出会っている。

しかし人を好きになれない、自分を好きになれないあなたはそれらの人と関係しなかった。

自分の心の弱さから人を好きになれない、自分を好きになれないあなたは剥奪者に心ひかれたのである。

※参考文献:自分を許す心理学 加藤諦三著