人付き合いがうまくいかない人は無意識へと抑圧するしかない

人間にとってはじめての内づらは家族に対してである

人付き合いがうまくいかない人は家族というものをどのようなものとして教え込まれてきたか、ということが重大になってくる。

つまり人間は、外側の人間に対してはより内側における感情規制が強く、もっとも身近な内側の人間に対しては、より多くの「こうあるべき」という考え方を持っている可能性がある。

今こうあるべきという考え方を「ビリーフ」と呼んでおく。

たとえば、内側の人とは仲よくなければならぬ。

兄弟では喧嘩をしてはならない。

内側の人の要求に対しては決してノーといってはならない。

お互いにこれ以上の人はいないのだから人付き合いがうまくいかない人はあらゆる摩擦はさけなければならない。

いや、親子兄弟のあいだで摩擦などあるはずがない。

いろいろなビリーフがある

このビリーフによって人は自分を縛っている。

これらのビリーフが事実にもとづいているのならよいが、かなりゆがんだビリーフもある。

そして人付き合いがうまくいかない人は、ゆがんだビリーフに縛られることで悩み苦しむ。

親子兄弟のあいだで摩擦などあろうはずがない、などというのは事実に反するビリーフである。

ところがこのビリーフに縛られた人付き合いがうまくいかない人は、摩擦があっても攻撃性を親兄弟の中で外にあらわすことはできない。

摩擦を人付き合いがうまくいかない人は意識の上で感じることすらできないかもしれない。

意識してもゆがんだビリーフに縛られて攻撃性は外には表現されない

そのような人付き合いがうまくいかない人は内に憎しみを持ちつつ、どうすることもできない。

外の人に対してなら、家族そろっていっせいに軽蔑の合唱などすればよいが、人付き合いがうまくいかない内側同士ではそれができない。

また、外の人に対しても家の者は同じ感情を持つべきだ、持って当たり前だ、家族とはそういうものだというゆがんだビリーフも人付き合いがうまくいかない人はある。

人付き合いがうまくいかない人はこのようなゆがんだビリーフのもとに内に憎しみを秘めて成長する人がいる。

大人になってから、実際に接する内側の人間が代わっても内に対してのビリーフは変わらない。

内づらのわるい人付き合いがうまくいかない不機嫌な人間というのは、小さいころの内側の人間についてのゆがんだビリーフを、大人になっても持ち続けている。

親子兄弟、夫婦、恋人、それぞれ内側の人間同士で要求をぶつけあい、人付き合いがうまくいかない彼らはノーといいあってもいいわけである。

そのようにしてしか人間は心のふれあう人間関係はできない。

人間はお互い同士100%都合よくできてはいない

ところがこの人付き合いがうまくいかない人のような事実に反するビリーフは現実には多い。

あるところに事実に反するビリーフに苦しめられ続けた人付き合いがうまくいかない人がいる。

家族以上によいものはない。

このビリーフは生きていく上で疑うことを固く禁じられたものであった。

その人が生まれた家で育ててもらうためには、このビリーフを、水が上から下に流れることより間違いないと信じることが第一の条件であった。

ある日、その人が友人と街で飲んでいたときのことである。

その友人が街の大勢の人を見て、「家に帰りたくない人がいっぱい」といった

それはその人にとって腰の抜けるほどの驚きであった。

皆が帰りたいところ、それが家である。

それはその人付き合いがうまくいかない人のビリーフであった。

家に帰りたくない人は「わるい人」なのである。

「家ほどいいところはない」、これを耳にタコができるくらいでは追いつかないほど、いつも聞かされて育った人である。

その人も、そんなことを愉快そうにいう友人と夜の街で飲んでいるぐらいだから、かなり解放はされていたが、驚きを感じたということは、心の底にはやはりまだそのビリーフが残っていたということなのであろう。

さて人付き合いがうまくいかない内づらのわるい不機嫌な人というのは、内側の人に向かったとき、このゆがんだビリーフに縛られている。

実際の自分の感じ方と、その感じ方を許さないビリーフのあいだでもだえているのが人付き合いがうまくいかない内づらのわるい不機嫌な人である。

人付き合いがうまくいかない人はふさがったままの「感情の出口」をつくってあげる

攻撃性を外にあらわせないで病んでしまった人は案外多いのではないだろうか

その程度にはいろいろと差があるだろう。

人付き合いがうまくいかない内づらのわるい不機嫌な人などというのは、比較的その程度の少ない人ではある。

人間のエネルギーは何か外の対象に向かうのが正常なのであるが、それが内に向かってしまう人付き合いがうまくいかない人がいる。

心の葛藤でエネルギーを使いはたす人付き合いがうまくいかない人もいる。

自傷行為でエネルギーを使いはたす人付き合いがうまくいかない人もいるだろう。

オリンピックの選手などを見ていると、闘志をむきだしにして相手にいどんでいく人もいるのに、どうしてある人々はそのエネルギーを外に出せないのだろうと思う。

その原因はいろいろとあろう。

先に述べた二重拘束なども人付き合いがうまくいかない人のその一つであろう。

さらに保護と迎合の関係の中で成長してきた者などは、受け身が身についてしまっているだろう

支配・被支配の中で自分の素直な感情やエネルギーを外にあらわせない人間になってしまっている人付き合いがうまくいかない人もいよう。

肉体に習慣があるように心にも習慣がある。

人付き合いがうまくいかない内づらのわるい不機嫌な人というのは、もっとも身近な内側の人に接すると自分の感情やエネルギーの出口を失ってしまう。

感情がないのではなく、感情を誘発されながら、それをみずから禁じるという人付き合いがうまくいかない矛盾におちいってしまう。

内づらがわるい人付き合いがうまくいかない人も、外の社会においては、それなりに感情の出口を持つ。

外の社会においては自分の位置も役割も、それにふさわしい感情表現の手段もある。

しかし人付き合いがうまくいかない人は相手が外側から内側の人間へと移るに従って、自我の確立のもろさ、個性化の未完成、自我境界の不鮮明さが問題になってくる。

内側の人間になればなるほど、人付き合いがうまくいかない人は相手と向き合ったときに自己が自己でなくなり、自己の感情は宙に浮いてくる。

人付き合いがうまくいかない人は「気持ちがふさいでしまう」ということをよくいう

”ふさぐ”という表現がそれをよくあらわしている。

感情やエネルギーがないのではない。

ただその出口が人付き合いがうまくいかない人はなぜか”ふさがれて”しまうのである。

感情やエネルギーはあくまでも「自己」から他者へとでていくのである。

人付き合いがうまくいかない人はその自他の関係ができていなければ、感情はでようがない。

自己と他者との分離と個性化ができていてはじめて、自己から他者への感情の出口ができる。

内づらのわるい不機嫌な人付き合いがうまくいかない人が、内側の人に接して気持ちが”ふさがれて”しまうのは、外側の人に対しては保持できていた「役割という自己の個別化」がくずれてしまうということであろう。

いずれにしろ、人付き合いがうまくいかない人のように気が”ふさぐ”ということは、どこまでが自己でどこからが他者であるかわからないで、ただ未分化につながっているということである。

「うっ屈してしまう」というようなこともよくいわれる。

彼の気持ちは”うっ屈”している、どうも気持ちが”うっ屈”してしまって、などという

うっ屈の”うっ”はうつ病の”うつ”である。

屈は”折れ曲がる”ことである。

人付き合いがうまくいかない人は気持ちが外へ向いていきながら、相手に直接向かわないでどこかで折れ曲ってしまうというのが”うっ屈”しているということであろう。

自己の内から出口を通って他者へ向かって気持ちがでていかないで人付き合いがうまくいかない人は、どこかで折れ曲ってしまう。

そして人付き合いがうまくいかない人はどこまで行っても他者に行きつかない。

どこまで行っても人付き合いがうまくいかない人は自己であり、しかも自己の内に他者がいる。

夢でいえば、行きつくはずの場所にどうしても行けない夢を見る人である。

人付き合いがうまくいかない人はどう考えても行けるはずなのに、なぜかそこに行きつけない

他者性をおびた自己だから、気持ちが”うっ屈”してしまうのである。

人付き合いがうまくいかない人は「自己の他者化」である。

自己が他者化しているから、人付き合いがうまくいかない人は行きつけるはずのところに行けない夢を見るのである。

よく知っているところだから行こうと思って行けないはずがないのに、行けない。

血族の関係ほど重苦しく不快きわまるものはないなどといわれるのも、血族の関係ほど自己が自己自身として成立しにくいものはないからであろう。

自己の個別化がまったく行われていない人付き合いがうまくいかない人にとって、血族の関係ほど重苦しいものはない。

一方、自己の個別化が完成している者にとっては、血族は、もっとも身近な人であり心の支えである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著