人付き合いがしんどい人が気が楽になるのは自分の感情をどうコントロールするかにかかっている

「中心我」と「社会我」というものがある

中心我とは自分の内側の固有の自我であり、社会我とは社会的枠組みの中で位置づけられた自我である。

中心我の脆弱さを社会我によって強化していこうとする人付き合いがしんどい人がいる。

学歴、所得、容姿などである。

そういう人付き合いがしんどい人は、恋愛その他の不可避的に自己の内づら、中心我にかかわってくるような事態に巻き込まれると、気持ちが不安定化する。

内づらのわるさとは、この人付き合いがしんどい中心我の瓦解の結果であろう。

自分を守ってくれていた防壁がなくなってしまった状態で不安定感、不愉快さを味わっている。

外の人間に対しては、社会我が自我のもろさを守ってくれる

したがって安心していられるし、自己を自己として感じることができる。

外の人間に接しているときは、自己の内づら的な脆弱さを味わわなくても済む。

役割と役割で接しているかぎり、内づら的な脆弱さは問題にならない。

だから、近い人と接したときのような不安定感、不愉快さはない。

何回恋愛しても、恋愛が成立したとたんその恋人から逃げ出していく人付き合いがしんどい男性がいる。

彼はある女性を好きになり、追いかける。

その段階ではこの女性はあくまでも彼にとって外側の人間である

人付き合いがしんどい彼にしてみれば、その女性と接しているときは内づらの脆弱さから自分を守ってくれる防御壁を持っている。

しかし恋愛が成立したとたん人付き合いがしんどい人は今までの防御壁は役に立たなくなる。

とたんに、人付き合いがしんどい彼は自己を自己として経験できなくなる。

恋人とのあいだに人付き合いがしんどい彼は間をとれなくなってしまう。

かくて再び防御壁が有効に働く別の女性を求めて人付き合いがしんどい彼は、その恋人から逃げていくことになる。

何回結婚しても、結婚したとたん奥さんに対するうっとうしい感情をどうにも処理できなくなるという人付き合いがしんどい男性もいる。

人付き合いがしんどい人は生の人間関係のような無防備な状態では自己を維持できないのである

他者からの分離と個性化が完成されてさえいれば、外側の人間に対してであろうと、もっとも身近な内側の人間に対してであろうと、自己を維持できなくなるということはない

他者からの分離と個別化が完成されていない人付き合いがしんどい人は、近い人に接してこられると、自己が他者性をおびてしまう。

今、例として人付き合いがしんどい男性をあげているが、本質的には男性と女性が入れ替わっても同じことである。

自己が他者性をおびるとは、自分の人付き合いがしんどい内づらに相手があいさつもなく土足で踏み込んできたような感じを持つということである。

「他者の自己化」に対して「自己の他者化」である。

したがって人付き合いがしんどい人は他者を自分から切り離して対象化することができない。

その他者を自分の愛や憎しみの対象とすることができない。

他者性をおびてしまった人付き合いがしんどい自己は、支配されてしまった自己なのである。

もはや自分が自分をコントロールすることが人付き合いがしんどい人はできない。

他者と分離され個別化された自己があってはじめて、他者は愛や敵意の対象となり得る

人付き合いがしんどい不機嫌な内づらとは、このように他者を対象化できず、自分の感情のはけ口を失ってしまった状態になっているのである。

不機嫌で内づらのわるい人付き合いがしんどい人には、まだ他者が誕生していない。

他者が誕生してはじめて自己中心性も解消される。

つまり、はじめて他者との間に人間としての関係が生じてくる。

他者の誕生は、同時に自己の誕生でもある。

そこではじめて他者と向き合っても、内づらの不安や混乱はない。

他者を避けて自閉的に自分の世界に閉じこもる必要はない。

いつも不機嫌で内づらのわるい人付き合いがしんどい人は、自己中心的でありながらも、相手に不満を持っている。

人付き合いがしんどい人は、それは感情のはけ口を失っているからである

不機嫌とは表現されることを拒否した感情であるが、表現しようにも表現の主体も対象もないのだから不安定、不愉快になるのは当然である

他者と分離され個別化された自己があり、その自己が他者に対して感情を表現するのが感情表現である。

しかし、いつも人付き合いがしんどい不機嫌で内づらのわるい人が、近い人に接して自己が自己として経験されず、自己が他者性をおびてしまったら、感情の主体も対象もないのだから感情が表現されるはずがない。

これが本人には人付き合いがしんどい得体の知れない不愉快さとして感じられるのであろう。

不機嫌で内づらのわるい人付き合いがしんどい人は、もっとも身近な内側の人間に自分が脅かされると感じている。

しかし、事実はそうではない。

彼は、相手に脅かされているのではなく自己の他者性におびやかされているのである

自己の他者性とは、人付き合いがしんどい内づら的な個別化の弱さであり、自我のもろさである。

人付き合いがしんどい人はわかりやすくいえば、自我の未確立である。

ではなぜ人付き合いがしんどい自己が他者性をおびてしまうのであろうか。

なぜ自己の中に他者性が混じってしまうのであろうか。

それは、発育過程において親から自己は自己であってはならないというメッセージを送りつづけられたからである。

自己が自己となることによって他者を愛することができるのに、依存心の強い親が子どものそのような発育を恐れた

子どもを所有しようとした親は、子どもの内に自己が発育することを恐れた。

それゆえ自己が自己として他者から分離され、個別化の道を歩むことを子どもは恐れた。

子どもは自己が自己として実現されることに罪責感を持った。

人付き合いがしんどい子は自己は自己であってはいけないのである。

自己は常に自己の所有主である親性をおびていなければならない。

親性とは他者性である。

自己のオーナーは他者なのである。

そしてその人付き合いがしんどいオーナーは自己が自己として実現することを禁じている。

人付き合いがしんどい人の自己と他者が心理的にくっついてしまった「癒着」である

自己の個別化を完成した人にとっては、他者は自己の外から自己に出会ってくるものである

人付き合いがしんどい自己の個別化がなされていない者にとっては、他者は外から出会ってくるものではない。

私たちは自己の個別化をなしとげていくとき、まず頭の中で、自己は自己として実現してよいのだ、その際、他者の存在などに気をくばる必要はないのだと理解することが大切であろう。

自己が自己として実現していくことに何の負い目を感じる必要はない。

しかし、自己の個別化を達成しようとするとき、執ような罪責感に負けてしまう人付き合いがしんどい人がいる。

そのように負けてしまう人付き合いがしんどい人は、近い人に対していつも不機嫌である。

自己と対峙する他者に気配りをする必要などない。

自己の個別化がなされていない人付き合いがしんどい人が、他者に気くばりなどしようと思ったとてできるわけがない。

その無理な気配りが「自己執着的対人配慮」である

相手にとってはありがた迷惑な人付き合いがしんどい人の配慮である。

人付き合いがしんどくなるような人がよくする自己執着的対人配慮である。

気配りなどというものは、自己の個別化がなされた人のするものである。

自分一人に手をやいている人付き合いがしんどい人が、他者のことなど考える必要はない。

離婚の悩みがある。

人付き合いがしんどい人は相手との葛藤、みずからの心の葛藤等に苦しんでいることはもちろんである。

そして自分が自分で手に負えないのに、人付き合いがしんどい人は具体的な解決策を提案すると「それで、子どもはどうなります?」という。

この状態で人付き合いがしんどい人は子どものことなどいくら考えたって子どものためにはならない。

そういう人付き合いがしんどい親はもともと子どもを愛する能力がないのである。

人付き合いがしんどい人はもともと子どもを愛する資格がないのである

みずからの心の葛藤が解決できたときにはじめて「自分は親なのだ」という意識が生まれ、子どもを愛する能力が生まれてくる。

人付き合いがしんどい人は他人に迷惑をかけながら「人に迷惑をかけたくない」などとウジウジいっていても仕方ない。

大雨の中を人付き合いがしんどい人は傘をささないで歩いていながら、ぬれたくないといっているような人である。

傘をさすことが第一である。

大切なのは迷惑をかけなくても生きていけるような人間に、自分がまずなることである。

内づらがわるく不機嫌な人付き合いがしんどい人は身のほどを知らないのである。

自分の内には人付き合いがしんどい人は三歳の幼児性を残しながら、その解消を心がけずに、まともな四十歳の人間としてふるまおうとしているのである。

小さな子どもが勝手なことをしながらだんだんと大人になるように、自己の個別化がなされていない人付き合いがしんどい人は、どこかで勝手なことをしながら成長するより仕方ない。

疑似成長している人付き合いがしんどい人は、そのままでいるといつか破綻する可能性がある。

破綻するとはまったくの無気力になったり、自律神経失調症になったり、神経症になったり、人付き合いがしんどくなり等々である。

まずありのままの自分を認める、自己の自己化を行うことである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著