人付き合いができない人は初めに「NO」を伝える練習をする

内づらがわるく、いつも不機嫌な人間というのは、内の人に向かったとき自分の欲求がいよいよ自分にとって不明確になるのである

人付き合いができない人はもっとも身近な内側の人と接したとき、自分の願望や主張がなくなってしまうのである。

「自分はこうしたい、自分はこれはしたくない」ということが一切なくなってしまう。

人付き合いができない人は内側の人と接したとき、自分自身の感情を失う。

したがって人付き合いができない人は何をやっても、それが自分自身の行動とはならない。

人付き合いができない人は何をやってみても、何をやらなくても、真の自分を裏切ったことになってしまう。

それは人付き合いができない人は真の自分が、実は自分にもまったく不明確だからである。

人付き合いができない人はもっとも身近な内側の人に向かって何をいっても、それは自分が真にいいたいことではない。

また黙っていたからといって、それで満足できるわけではない。

人付き合いができない人は何をいっても、何をいわなくても、内づらのわるい不愉快さが消えるわけではない。

それはおそらく、人付き合いができない人がもっとも身近な内側の人に接したときに「圧倒されてしまう」「負けてしまう」からであろう。

人付き合いができない人はもっとも身近な内側の人間の要求に負けてしまうのである。

しかし相手が本当に自分に対して何かの要求を持っているわけではない

人付き合いができない人は自分の側で何となく押されて重苦しくなってしまうのである。

もっとも身近な相手と接することで、相手の意図と関係なく、自分の脆弱な内づらが侵蝕されてしまう。

人付き合いができない人は相手が自分を不愉快にする力を持っているわけではなく、相手と接することで自分の中に暗い重いものがでてきてしまうのである。

そうした意味で人付き合いができない内づらのわるさというのは自縄自縛なのである。

ただ人付き合いができない人は、はじめから自縄自縛であったわけではない。

人付き合いができない人は小さいころの二重束縛が原因であろう

小さい頃、親から言語的に要求されたことと非言語的に要求されたこととが矛盾していた

人付き合いができない人は親子という逃れられない関係の中で、常に矛盾した要求をつきつけられて彼らは苦しんだのである。

たとえば「おまえの好きなようにしていいんだぞ」と口ではいいながら、顔の表情や前後の雰囲気で、どちらを選択するかを命令している。

二重束縛というとよくあげられる例がある。

部屋に入ってきた子どもに親が「疲れているんだから早く寝なさい」という。

子どもは疲れていない。

親の真意は「部屋をでていきなさい」ということである。

しかし親は心の底にある自分の真の感情に目を背けている。

子どもは親の心の底の真の感情に気づくことを禁じられている

親は子どもにそのように思われたくない。

他方、子どもは本当は疲れていない。

しかし「疲れていないから寝ない」といったのでは親の心の底の要求に背くことになる。

そこで子どもは罰を逃れるために、「自分は疲れているのだから寝よう」と思わざるを得ない。

子どもは真の自分にも、真の相手にも気づくことを禁じられて育つ。

言語的には「疲れているのだから寝なさい」というのは愛情の言葉に聞こえるが、非言語的には拒絶の言葉である。

人付き合いができない抑圧の強い親はどうしても子どもを二重束縛して育てがちである

それが親にとって心理的にはもっとも楽な生き方であるからだ

実際の親とは違うように親を見ることを子どもに期待しているのである。

人付き合いができない親自身が心の底に実際にある自分の感情に目を背けている。

実際の親は卑怯で人付き合いができない。

しかし人付き合いができない親はそれを認められない。

人付き合いができない人は子どもには勇気のある人と思われたくて、そう思うことを要求する。

子どもは本当は、心の底で親の真の姿に気付いている。

しかし親を恐れて、親を勇気ある人と思い込む。

子どもは相手の真の姿に気付きながら、それを意識できない

つまり完全にコミュニケーション能力を失う。人付き合いができない。

このようにして育った人が大人になって近い人と接したとき、人付き合いができない自分の真の感情に一体化できないのは当然であろう。

人付き合いができない人は大人になって近い人と接すると、昔の古い感情を再体験することになる。

実際の自分の感情に気づくことを禁じられて育ったときの混沌とした内づらが、条件反射のようによみがえるのである。

大人になって人付き合いができない自分の前にいる近い人は、昔のように自分を二重束縛してはいないのに、そう感じてしまうのである。

結果として人付き合いができない人は相手の意図とは関係なく、暗い混沌とした内づらが自分の中に広がる。

人付き合いができない人は幼いころから自己欺瞞を強制されて生きてきたことで、自分の感情が自分にもわからなくなっている。

役割で接する外側の人に対しては、親とのあいだにかわされた暗い混沌とした感情の再体験がないから、感情は比較的明快である。

人付き合いができない人というのは、離れていくことができない。

それはあくまでも心理的にはその人たちに依存しているからである

人付き合いができない人は自分が心理的に依存しながらも、その依存の対象が自分の心を重く暗くする。

その人といるといつも不機嫌なくせに、その人と別れるということができない。

人付き合いができない人は内づらがわるく、不機嫌というのは、どうも一つのことだけで説明できるような単純なものでもなさそうである。

依存心が強くて相手に両価的になっているなどというのもその一つであるが、不機嫌の原因のすべてではなさそうである。

一人で生きられる人というのは、内側の人であろうと外側の人であろうと、自分の感情を明快にしておくことができるのであろう。

自分の真の感情を不機嫌な人のように隠す必要がない

一人で生きられるということは昔の古い家の感情からも解放されているので、その再体験ということもない。

一人で生きられる人間は、相手に攻撃性を感じればそれを表現することができる。

ところが人付き合いができない依存心の強い人間は、攻撃性を感じてもその相手の保護を必要としているだけに、攻撃性を恐怖で抑える。

人付き合いができない人はせいぜいすねるぐらいである。

心理的に保護を求めているから攻撃性を表現できない。

人付き合いができない人は攻撃性があるから素直に好意を求めていけない

人付き合いができない人はこのような両価性のもとでは、自分と相手がからまってしまったような感じを持つとしても不思議ではない。

よく「間」をとるとか「間」がとれないなどという

人付き合いができない人は両価的で相手とからまってしまうことが「間」がとれないということであろう。

そして人付き合いができない人はそれは同時に自己の個別化がなされていないということでもある。

人付き合いができない人は依存心があると間がとれない。

間がとれないということは相手を対象化できないということであるから、相手に明快な感情を抱くことができない。

人付き合いができない内づらのわるい不機嫌な人は、内側の人間に実際の自分を知られることを拒否しようとする。

攻撃性があるものの、保護を求めている以上は、その攻撃性を知られたくない。

保護を求めているからといって、攻撃性がある以上保護を求めていることを知られたくない

そうなると人付き合いができない人は一人不機嫌に押し黙るしかなくなってくるのである。

自分で自分をもてあまし、人付き合いができないどうにもできなくなっているのが不機嫌な人である。

人付き合いができない人はなぜ「会社では別人」となるのか?

それは、人付き合いができない人は会社では役割関係の中での自分の立場がある。

人付き合いができない人は家庭とは違って自分の立場が明確である。

したがって、とたんに自分で自分を持てあます不愉快さはなくなる。

霧が晴れて、心は見渡すかぎり晴れている。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著