人付き合いがめんどくさい人が自立する初め

子どもに心理的に依存しながら、子どもをかわいがっていると錯覚している親は、信じられないほど多い

心理的に決して家庭的ではないのに、行動が家庭的なので、「私は家庭的」と信じている父親の何と多いことかと驚くばかりである。

人付き合いがめんどくさい彼らは家庭的なのではなく、実は一人では何もできないだけなのである。

なのに、それがわからないのである。

人は、性格特性と行動特性の違いが理解できない。

行動と動機の違いが理解できない。

家庭的な人は、家庭の生活を楽しむ。

人付き合いがめんどくさい外づらがよくて内づらのわるい人というのは、家庭的な人ではなく、家庭を離れては何をしても充実感がないので、不本意ながら家にしがみついているのである。

真に家庭的な人というのは、家庭を離れてもその場を楽しめる人である。

人付き合いがめんどくさい、配偶者に、あるいは子どもに心理的に依存して家にしがみついている人は、不本意ながらも家族と一緒にいるときが多い。

そこで自分が家庭的だと錯覚をする。

人付き合いがめんどくさい人はその上で不満の塊である。

そして、人付き合いがめんどくさい人は自分が心理的に女房子どもに依存しているという事実に気付かずに、「自分はこんなに家のことを思っているのにおまえたちは」と家の人の言動に不満になる。

人付き合いがめんどくさい人はその不満から家ではテーブルをひっくり返すが、外では礼儀正しさの手本のような人になる。

世間の人はその人の行動を見て「さすがに」という。

人付き合いがめんどくさい人は家が嫌いなのに家のことをするから、どうしても恩着せがましくなる。

恩着せがましいとは、相手への依存をあらわしているのである

人付き合いがめんどくさい恩着せがましい人間は、自分はAということができないので、仕方なくBということをやったというだけなのである。

「俺は同僚と酒を飲みにいかないで、わざわざお前と食事をしてやっているんだ」と恩着せがましくいう父親は、実は心理的に同僚と酒を飲みにいけないので、不本意ながらも家族と食事をしているのである。

人付き合いがめんどくさい人はつまりどちらにいてもつまらない。

ただ心理的には「家族」のほうに甘えて依存しているから、不愉快だけれども「家族」と食事をしているにすぎない。

こうなればどうしても内づらはわるくなる。

人付き合いがめんどくさい人は身近な人に甘えている。

その結果、人付き合いがめんどくさい人は身近な人への要求が大きくなり、身近な人に不満になる。

結果すべてが「不本意ながらも」することになる

人付き合いがめんどくさい内づらのわるい人間が気付くべきはこの事実である。

今の状態は、身近な人が「そうしろ」と要求したものではない。

身近な人の要求によって彼らと一緒にいるわけでもなく、また人付き合いがめんどくさい人の彼らへの愛情から彼らと一緒にいるわけでもない。

人付き合いがめんどくさい人は、それ以外のことがうまくできないからそうしているに過ぎないのだ、という事実に気づくことが必要なのである。

身近な人を離れて何かをすることができないのは、身近な人が自分を束縛しようとしているのではなくて、単純に自分が一人で何かをすることができない、というだけのことなのである。

心理的に自立できない人付き合いがめんどくさい人は、どうしても内づらがわるくなる。

人付き合いがめんどくさい人は同じコインの表と裏でどうしても外づらがよくなる。

内づらのわるい人が気付くべき事実はこれである。

人付き合いがめんどくさい人はこれが情緒の成熟への第一歩であり、意識と無意識の乖離を統合するきっかけである。

人付き合いがめんどくさい人が今日から「心の荷物」を手放していくために

内づらのわるい人が錯覚するのにもそれなりの理由はある

依存心の強い親に育てられた子どもが大きくなって結婚するとどうなるか。

相手は自分に何も期待していないのに、期待していると錯覚する。

親の期待が結婚相手に転位される。

かくて人付き合いがめんどくさい人のように内づらのわるい人は、相手が何も期待していないのに期待されていると錯覚し、それを束縛と感じるようになる。

みずからの依存心を愛と錯覚している人の何と多いことが。

子どもへの依存心を子どもへの愛と錯覚する人、親への依存心を親孝行と錯覚する人、家への依存心を家への愛と錯覚する人・・・。

そしてこれらの錯覚が、実に多くの混乱と不幸を人間関係にもたらしている。

それらの誤解された関係は互いに自我の犠牲の上に維持される。

人付き合いがめんどくさい人のように自分を正しく認知していない者は、他人をも正しく認知できない。

たとえば、自分の親への依存心を親孝行と錯覚する人は、自分の親そのものも正しく認知できない。

人付き合いがめんどくさい人は心の冷たい親を心温かい親と錯覚したりする。

自分の中にある依存性が認知できない子どもは、親の内づらの依存性も認知できない

結婚して相手の幼児的依存性に苦しめられている人はたくさんいる。

しかし、相手の幼児的依存性に苦しめられている「その当の本人」も、実は依存性があったのである。

もし自分が親からの心理的離乳を完了し、自律性を獲得していれば、恋愛中すでに相手の幼児的依存性を認知して別れていたはずである。

結婚前に相手の幼児的依存性を「やさしさ」と思い違いしたのは、自分の側にも同じものがあったからである。

よく「結婚前の男のやさしさほどあてにならないものはない」という。

その通りである。

「結婚前にはあんなにやさしかったのに」と悩んでいる人が大勢いる。

実は、そうして悩んでいる女性自身、みずからの内に幼児的依存性を結婚前に残していたのである。

しかしその自覚がない。

人付き合いがめんどくさい人は自分に幼児的依存心があったからこそ、相手の幼児的依存心を”やさしさ”と錯覚した。

この事実に気づくことが、解決への第一歩である。

自分を正しく認知することはたいへんなことである

ただ、人付き合いがめんどくさい人のように人間関係でトラブル続きの人は、いったん立ち止まって、自分は自分を間違って認知しているのではないかと反省してみることである。

人付き合いがめんどくさい人、自分を正しく認知していない人は、他人も正しく認知できない。

したがって人付き合いがめんどくさい人は人間関係のトラブルがふつうの人より多い。

人付き合いがめんどくさい人は相手を正しく認知していれば、「結婚前にはあんなにやさしかったのに、今は・・・」というトラブルはなかったはずである。

会社の人間関係だって、近所の人付き合いだって同じことである。

人付き合いがめんどくさい人のように「外づらがよくて内づらがわるい人」は外では甘えていないが、内では甘えている。

だから外では傷ついていないが、内ではすぐに傷つく。

人付き合いがめんどくさい人はそこで、内では傷つき、怒り、恨み、騒ぐ。

外ではそもそも意識的には甘えていないからそんなに傷つかない。

人付き合いがめんどくさい人はそこで恨みも、騒ぎもしない。

表面的にはまともなふつうの人なのである。

もちろん人付き合いがめんどくさい人は無意識の領域ではいよいよ自己喪失して自我は崩壊していく。

人付き合いがめんどくさい人は甘えていないが、いよいよ自分が自分でなくなっていく。

よく「夫は結婚したとたんに人が変わった」という話を聞く

それはその男性が結婚したとたんに相手の女性に甘えだしたからである。

だから今まで傷つかなかった相手のひと言ひと言に傷つくようになった。

相手の何気ない態度に傷つくようになった。

甘えていないときには傷つかなかったのに、甘えだしたとたん、相手の態度に傷つくようになった。

そこで今までは何でもなかった相手の態度に急に不愉快になるようになり、わめき散らすようになったのである。

相手にしてみれば、今までとまったく違った夫の反応にとまどうのは当たり前であろう。

人付き合いがめんどくさいような弱い人は、自分を見捨てない人に責任転嫁をする。

自分を見捨てる可能性のある人にはいい顔をする。

人付き合いがめんどくさいような内づらがわるくて外づらがよい人は、自分のことを真剣に考えてくれている人に酷い態度にでて、ずるい人にいい顔をする。

そして自分のことを思ってくれている人を恨みだす。

人付き合いがめんどくさい人は身近でない人に対象無差別にいい顔をすることで不必要な負担を背負う。

軽い荷物だけれども持ちにくい荷物というものがある

心理的な荷物の場合も同じである。

人付き合いがめんどくさい人はそういう荷物を背負い込む。

人付き合いがめんどくさい人は「認めてもらいたい」-この思いがあなたを苦しめる

身近な人に常に認めてもらいたいという欲求が人並み以上に強い

人付き合いがめんどくさい人は一人で何かをし、一人である感情を味わい、それで満足するということができない。

つまり人付き合いがめんどくさい人は自分自身で自我の確認ができない。

そして、そのような自分をたえず認めてもらいたいと願っている。

人付き合いがめんどくさい人は心理的に独り立ちできていないのである。

まともな自我の形成がなされていない。

したがってそのような罪責感を持ち、かつ、人付き合いがめんどくさいような内づらのわるい人は、今まで自分の育った環境が自我の形成に障害になっていたということを認識し、違った環境、つまり自我の形成によい環境を選ぶことに専心するのが何よりであろう。

人付き合いがめんどくさい人が自我の形成によい環境とは、何よりも情緒的に成熟した人々のいるところである。

立派な家も、高い社会的地位も必要ない。

人付き合いがめんどくさい人の成功によって自分の地位を上げようとしているような人のいないところ、成功へのストレスのないところ、あなたが感じるように感じることが許されるところ、そして何よりも、誰かに忠誠を誓う必要のないところである。

このような罪責感を覚えるような人間が育った環境には、誰か忠誠を誓う必要のある人がいたのではないかという気がする。

なぜなら、たとえばこの罪責感に関して、単に目上の人の期待する感情と自分の実際経験している感情が違うという説明だけでは、どうも十分ではないような気がするからだ。

単に目上の人というだけではなく、自分が忠誠を誓っている目上の人でなくては、この種の罪責感は生まれてこないであろう

そのような人付き合いがめんどくさい人は育った環境の中で忠誠を誓わされたのである。

一般的な人付き合いがめんどくさい人は、罪責感が症状としてでる。

が、人付き合いがめんどくさい人を生みだす家庭の特徴というと、第一に社会的体面を重んじる云々があって、次に家の中に主権的人物がいてその人を中心にして服従依存の関係が成立しているといったようなことがよくある。

この服従依存とか盲従関係というのが問題なのである。

とにかく人付き合いがめんどくさい人は、ある人物に忠誠を誓わされたのではないだろうか。

そしてその忠誠を誓った人物の期待に添えないとき、罪責感がでてくる。

だとすれば、新しく求める環境の中では忠誠を誓う必要を感じる主権的人物がいてはならないのである。

親とのふれあいがなかった

「嫌われたくない症候群」がもっとも深刻になったのが、対人恐怖症だろう

対人恐怖症者は人から嫌われるのが怖い。

幼児期に親から嫌われることは、だれにとっても怖いに違いない。

しかし、もし親が人間嫌いだったらどうなるか?

ものすごい人間嫌いでなくても、心の底に敵意や憎しみがあったらどうなるか?

そんな人はべつに珍しくはない。

つまり子どもの嫌いな親は珍しくない。

そのような人間嫌いな親の子どもは、間違いなく嫌われている。

もっと簡単にいえば、自分を嫌いな親は子どもを嫌いである。

この世の中には心の底で自分を嫌いな人はたくさんいる。

親がどのような演技をしても、子どもは親の無意識に反応する。

子どもは自分が嫌われているということを間違いなく感じ取る。

そうしたら親が怖い。

生きているのが怖い

そして「なぜ嫌われたか」という原因を人付き合いがめんどくさい人は「私はダメな人間だから」と解釈するだろう。

そして人付き合いがめんどくさい人は嫌われないためには、いつも「いい人」でいなければならないと信じる。

そして「完全な自分」を演じなければならないと思い出す。

その子どもが大人になっても、「ほんとうの自分」は嫌われる存在だという意識はぬぐえないだろう。

大人になって周囲の人の種類は変わった。

人間環境が変わった。

それでもその人の意識は変わらない。

したがって人付き合いがめんどくさい人は嫌われていなくても「私は嫌われている」と思う。

そうしたら人付き合いがめんどくさい人は大人になっても「ほんとうの自分」を人に隠しはじめる。

人付き合いがめんどくさい人は仮面をかぶって嫌われないように無理をする。

しかし人付き合いがめんどくさい人は「ほんとうの自分」を隠せば隠すほど、「本当の自分」は嫌われる存在だという気持ちは強化されていく。

子どもが素直に育つには、いつでもどこでも親にふれることができる必要がある

親から嫌われていると感じている子どもは、親との触れ合い方がわからない。

親と心が触れるという体験がない。

親のほうも、子どもに無関心だったら、子どもとの触れ合い方がわからない。

親が深刻な劣等感に悩まされている。

親は「カエルは立派だが、トンボは卑しい」という価値観を持っている。

そして親自身は心の底のまた底では卑しいトンボなのである。

その深刻な劣等感を子どもに威張ることで癒そうとしている。

そうするとどうなるか?

子どもからすれば、自分の親はカエルなのだから「私はカエルの子」である。

しかし親は子どもに威張ることで心の傷を癒やそうとする。

だから子どもは親から「お前は卑しいトンボだ」と貶される。

つまり子どもからすると、自分はカエルの子どもなのにトンボの世界で生きていることになる

こういえば奇妙なことだと思うに違いない。

しかし世俗の世の中にはこのようなことがよくある。

父親と母親は自分たちがトンボなのに、子どもには親をカエルと思わせている。

そして「イヤだね、この子はトンボになってしまって」と子どもを貶す

子どもは劣等感に苦しみ、自分はカエルになろうと無理をする。

ノイローゼになる。

三人とも自分を嫌いになり、相手も嫌いになる。

三人が自分たちはみんなトンボだとわかれば、心がふれあって生きられる。

こうして育った子どもの孤独感は深刻である。

心の中のさびしさは計り知れない。

しかもこの子どもは自分のさびしさに気がついていない。

フロムの言うこの無意識のさびしさこそ、この子の一生を支配してしまう

非生産的生き方になり受容的構えの人になってしまうのも、つまりいつも不満なのも、人に対する恐怖感に苦しめられ続けるのも、嫌われるのが怖くて八方美人になり、人に利用されつづけるのも、原点はこのさびしさである。

生涯苦しみ続け、悩み続けることの原点はこの無意識の領域にある、計り知れないさびしさである。

母親との関係で学ぶもっとも大切なことは、自分は自分だから母親に愛されているのだという感覚である。

すぐれているから愛されているのではない、自分だから愛されているのだという感覚である。

人から愛されるためには優れている必要はないのだと感じる。

その感覚があるから対人恐怖症にはならない。

母親との心の触れ合いは、巨万の富に勝るものを子どもに与える。

感傷的になりやすい人は自分をよく印象づけたいがために

自分が嫌われている、あるいは認められていないと思っている人と、自分は受け入れられている、自分は認められていると思っている人では、物事の受け取り方が違う

たとえば成功とか失敗の意味が違う。

自分は認められていないと思っている人付き合いがめんどくさい人にとって、成功とは評価されることである。

心理的に健康な人にとっては自分の心が満足することである。

同じように山に登ろうとしていても心は違う。

心理的に健康な人は、自分の力に合った山に登ろうとするが、自分は認められていないと思っている人はエベレストに登ろうとする。

自分の力にあった山に登る人は自分を知っている人である。

対人恐怖症の人付き合いがめんどくさい人は「理想の自分」を演じようとすると言われるが、そうした人たちは「実際の自分」を知らない。

人付き合いがめんどくさい人は「実際の自分」を知らないし、何よりも無意識の領域にあるさびしさに気がついていない。

自分の感情や行動を規定している心の底のさびしさに気がついていない。

対人恐怖症の人付き合いがめんどくさい人は、つねに他人に自分をよく印象づけようとしている。

人付き合いがめんどくさい人は嫌われたら自分の存在価値がなくなる。

他人に自分をよく印象づけようと努力すればするほど、自分はありのままでは価値がないという感じ方を強めてしまう。

自分をよく印象づけることに失敗しやしないかといつも不安である

人付き合いがめんどくさい人はいつも心配している。

いつも怯えている。

人付き合いがめんどくさい人はそこで虚勢を張ったり、迎合したりする。

自然な態度で人と接することができない。

人付き合いがめんどくさい人は現実の自分で生きていない。

心の底で「ほんとうの自分」が嫌われる存在だと思えば思うほど、必死で他人に自分をよく印象付けようとする。

とにかく人付き合いがめんどくさい人は嫌われるのは怖い。

こうした人々は現実に生きていない。

必死で他人に自分をよく印象付けようとしているときは「実際の自分」で生きているのではない。

ありのままの自分で人と接しているときだけが現実である。

あとは仮想現実。

悩んでいる人と話していると、自分の現実を話していない

斜に構えた人々の言っていることを翻訳すると、「オレ、現実で生きていないもの」と言っていることになる場合がほとんどである。

預金通帳に意外なお金が入っていた。

その一万円で「得した」と思って嬉しい。

「この一万円で果物を買おう」と思って喜ぶ。

それが現実を生きていること。

100万円を持ってエネルギーがなくて悩んでいるよりも、一万円で喜んでいることが現実を生きていること。

定年退職した人が「定年後の仕事は屋台でよい」と言う。

それは現実を生きていることではない。

「私は屋台がよい」という気持ちがあってはじめて現実を生きている。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著