人付き合いが下手を上手に変える

身近な人に甘える

甘えが満たされなくて、人付き合いが下手な人は「すねる、ひがむ」。

人付き合いが下手な人は不機嫌になる。

そういう人付き合いが下手な人は、近い相手に対してはどうも心理的に要求が大きい。

依存心の強い人付き合いが下手な人は、近くなると相手が自分の思うように働いてくれないという不満がでる。

内づらのわるい人付き合いが下手な人というのは、内づらをあらわすような関係の人に対して適当な距離をとることがむずかしい。

距離をとれないところから来る内づらの混乱が、不快で不機嫌になる

身近な人と接すると、人付き合いが下手な人は自分の内づらが占領されて自分が自分でなくなってしまう。

そのような心理状態になることを人付き合いが下手な人は必死で避けようとし、あるいはその混乱の中で必死に自分を守ろうとしているのが不機嫌であろう。

つまり、人付き合いが下手な自分の内づらを混乱させる身近な人間に対して身構えている状態が、不機嫌な心理状態である。

心理的独立が人付き合いが下手な人はなされていない。

身近な人間に内づらをコントロールされてしまう

もちろん身近な人のほうがコントロールしようとしているわけではない。

身近な人間の存在そのものが内づらを混乱させてしまう

その身近な人間から自分を守ろうとして人付き合いが下手な人は不機嫌に黙りこむしかなくなる。

つまり近い人間から、自分が混乱させられてしまうことがないように、不機嫌に黙っている。

どうしても言いたいことが言えなくなってしまう、圧倒されてしまう、何も言わないのに気持ちの上で負けてしまう。

それがおもしろくなくて、ときには見当違いのことに難くせをつけて相手を責めるしかない

いつまでも相手をぐちぐちと執ように責める人付き合いが下手な人は、内づらの混乱を回復しようとして、回復できないからである。

責める原因が相手の言動にはなく、自分の内づらにあるからである。

人付き合いが下手な人の自分の内づらの不確かさ

身近な人といると、自分が不確かで、もやもやしている

霧が消えるように人付き合いが下手な自分が消えてなくなってしまう。

身近な人でない、「外側の人」に対しては何とか維持できた内部の自律性が人付き合いが下手な人は、身近な人に接するとこわれてしまう。

外側の人に対しては何とかみずからの内部を律することができていたけれど、人付き合いが下手な人は身近な人に接するとそれができなくなる。

自閉的な構えを示すことで内づらの自律性を守ろうとしているのである

不機嫌の特徴は自閉性と両価性である。

というのは、外づらがよく内づらのわるい人付き合いが下手な人というのは、身近な人に対して、自分が支配されていると勝手に思い込んでいることが多いからである。

内づらの世界において人付き合いが下手な人は、彼は自己の自己性を守れなくなっている。

内づらの世界においては自我の同一性が脅かされてしまう。

絶対的に区別された自分と他人の関係が脅かされてしまう

人付き合いが下手な人は内づらの世界においては自他の区別が消失してしまいそうになる。

私たちは自分が確立できてはじめて対人的接触が可能となる。

私とあなたがともに個別化されることによって、私とあなたは心の接触が可能であり、共感も可能である。

ところがもし、ある人に出会うことによって自分の気持ちが相手に吸い込まれてしまったらどうなるか。

自他の区別が消失し、人付き合いが下手になり接触や共感は不可能であろう。

人付き合いが下手な人が離れられない人

内づらのわるい人にとって内づらの関係とは両価的なものである

どのような人に対して人付き合いが下手な内づらのわるい人は機嫌が悪くなるかといえば、当然身近な人に対してである。

そのくせ、その身近な人に人付き合いが下手な人は心理的に依存している。

つまり心理的に依存しているその人と離れれば、その人に会いたくなる。

その人のそばにいたい

人付き合いが下手な人はその人なしに生きていけない。

しかし、そばにいると人付き合いが下手な人は不快になる。

次の例は典型的な不機嫌の例ではないが、両価的なものの例として読んでもらいたい。

あるDVの夫である。

会社では別人で、評価されている

しかし妻には暴力をふるう。

そして妻は逃げ出して別居した。

そうすると人付き合いが下手な彼は一人で眠れなくて、毎晩「死にたい、死にたい」と泣いている。

「妻に帰ってきてもらうためにはどうしたらよいか」と悩んでいる。

しかし妻が帰ってくればまた暴力をふるう。

外との関係においては人付き合いが下手な内づらのわるい人は、機嫌よくふるまう。

人付き合いが下手な人は外づらはよい

まさに別人

人付き合いが下手な人は外づらの世界だけでは生きていけない。

心を支えているのは外づらの世界ではなく、内づらの人たちとの関係である。

両価的な感情を表現したのが内づらのわるさという症状であろう。

憎いけれども、人付き合いが下手な人はその人なしには生きていけない。

内づらのわるさとは出口を失った感情である

その人は人付き合いが下手な内づらの人に対して持つ感情をどうしても表現できないのである。

このDVの夫も、やさしさがないわけではない。

しかしやさしい感情を表現することができない。

やさしい感情は表現されることを拒否されている。

拒否するのは相手に対する抵抗なのである。

自分の感情を表現すれば人付き合いが下手な自分が失われてしまうように感じるからである。

外づらの人と会っても、その人は役割があるかぎり、みずからの存在を脅かされることはない

内づらの人と人付き合いが下手な人が会うと、みずからの存在が脅かされる。

家族という共同体の世界は、会社のような機能集団的な世界のように役割が重要な世界ではない。

機能集団的な世界では部長や課長などという立場がはっきりとしている。

自分の立場の喪失という心理的に恐ろしいことは起きてこない。

感情の表現を人付き合いが下手な人が回避するのは、相手の中に吸い込まれて自己性を喪失することを拒否しようとすることである。

そしてこれがとりもなおさず自閉的ということであろう。

内づらがわるくて外づらがよい人は、身近な人に対して自分の感情表現を回避して押し黙ってしまう

人付き合いが下手な人は自閉的になることで、自分自身を守っている。

しかしなぜ内づらのわるい人付き合いが下手な人は、このような他人から干渉されているような感じを、その内づらの関係にある人に対して抱くのだろうか。

外づらの関係にある人に対しては、同じような感情を抱くことはないだろう。

それは役割によって防衛されているからである。

外の人に対しては、立場の喪失という心理的に恐ろしいことは起きない。

事実において相手はこちらの内側を意のままに支配しようなどとは思っていない。

こちらが勝手に内づらを支配されているような気持ちになり人付き合いが下手な人は不快になる。

要するに内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが下手な人というのは、自我の基盤が脆弱だということである。

人付き合いが下手な人が上手になるためには、自我が成熟した人と付き合い、自我の基盤を成長させることである。