人付き合いが嫌いな人が気が楽になる初め

非生産的構えと受容的構え

内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人は、非生産的構えで生きている。

身近な人には人付き合いが嫌いな人は搾取タイプの人になり、外の人には受容的構えになる。

人付き合いが嫌いな人は、自分には価値がないと考えている。

そこで人付き合いが嫌いな人は貢ぎ物をする。

生産的構えの生き方とは、自分の潜在的能力を活かした生き方であり、そう生きる心の構えである。

内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人が、心の葛藤を解決するためには生産的生き方をするしかない。

非生産的構えを生産的構えに変えることで、内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな生き方は自然と治ってくる。

内づらがわるくて外づらがよいという人付き合いが嫌いな人は、非生産的構えの結果であって、原因ではない。

つまり内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人が、内づらをよくしようとしても、なかなかよくなるものではない。

外で子羊は、人付き合いが嫌いな人は受容的構えの人。

フロムは非生産的構えの一つとして、受容的構えということを挙げている

受容的構えは、内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人の、外づらの面をあらわしている構えの心理である。

人付き合いが嫌いな人は「愛の対象を選ぶにさいして選択をしない」とフロムは述べている。

それは手と足を怪我して、包帯を巻いている人が、酔っ払いが来たら、それでも世話をしようとするようなものである。

人付き合いが嫌いな人はとにかく好かれることがたいへん重要なことである。

誰にでも人付き合いが嫌いな人は好かれようとしている。

小さいころから人付き合いが嫌いな人は本当には愛されていないから心の底からさみしい。

精神科医のボウルビィのいう不安定性愛着障害の子と同じである。

つまり小さい頃愛着人物との関係が不安定だった人である。

人付き合いが嫌いな人はこの「誰でも」ということが大切である

フロムは「anybody(誰であっても)」といっている

さみしい人付き合いが嫌いな人は「相手にとって都合のいい人になる」と、「本当に好かれる」との違いがわからない。

相手にとって都合がいい人になることで人付き合いが嫌いな人は、相手がちやほやしてくれると「好かれている」とか「重んじられている」と錯覚してしまう。

落選しそうな候補者はおかしな宗教団体の票でも欲しい。

「ノー」と人付き合いが嫌いな人はいえない。

誰に対しても人付き合いが嫌いな人は「イエス」と答える。

愛のない子はとらえられて最後は利用されるだけである。

最後になるまで人付き合いが嫌いな人は気がつかない。

人付き合いが嫌いな人は、大人になってもその幼児的願望で動いているのである。

だから魔法の援助者を求める。

「特別の性質の忠誠心を抱く」というが、これは幼児が母親に特別の性質の忠誠心を抱くということである

極端な場合にはカルト集団のメンバーと教祖との関係だろう。

人付き合いが嫌いな人は搾取するものにさえ感謝する。

心理的に人付き合いが嫌いな人が安定するためには援助者が必要である。

この構えの人付き合いが嫌いな人は「安定を感ずるためには多くの援助者が必要であるから、多くの人々に忠誠をつくさなければならない」。

だから誰にでも人付き合いが嫌いな人は忠誠をつくそうとする。

誰にでもつくす姿勢を人付き合いが嫌いな人は見せる。

「彼らは助けなしに何事も為しえないと思っているので、一人ぼっちになると駄目になったと感ずるのである」

内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人は、実は一人ぼっちではない

内づらを見せている人は、まさに彼を助けようとしているのである

しかし内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人は、その自分が見せている内づらの世界の人を信じられない。

内づらがわるくて外づらがよい人付き合いが嫌いな人は、自分をてきとうに扱っている外の世界の人に忠誠をつくし、自分を大切に思ってくれる人に対して、不満になり凶暴になる。

「彼らはしばしば、純粋なあたたかさと、他人を助けたいという願望を持つが、他人の好むことをなしつつ、彼らはまたその人たちの寵を得るというはたらきを予想してもいるのである」

何か窮地に人付き合いが嫌いな人は陥る。

ノイローゼ気味の人付き合いが嫌いな人は、「誰かが助けてくれること」を待っている。

そこに「私が助けてあげましょう」といってくる人がいる。

そこで人付き合いが嫌いな人はコロリと騙される。

受容的構えの人は、外づらのよい八方美人になって何でもよく働こうとするが、無理がある

働き者だからずるい人には人付き合いが嫌いな人は利用価値がある。

有能でかつ人付き合いが嫌いな人の周囲にはずるい人が集まってくる。

だいたいどのようなタイプでも利用される人は一人で生きていく自信がない。

会社でも人付き合いが嫌いな人は一人でやっていける自信がない。

自分の社内での地位を人付き合いが嫌いな人は自分の力で守っていける自信がない。

一人で人付き合いが嫌いな人は生活していく自信がない。

そこでどうしても周囲に人付き合いが嫌いな人は迎合して周囲の好意で生きていこうとする。

その弱さをずるい人から見透かされるのである

本当に実力が人付き合いが嫌いな彼らはないのではない。

実力は人付き合いが嫌いな彼らは十分にある。

しかし自信がない。

自信がないのは、人付き合いが嫌いな彼らの生きる姿勢による。

一人では生きられないという心理的自立性の欠如である。

いいように利用される人付き合いが嫌いな人は、実際には実力はあるのに相手にすがっていい顔をする。

心理的に一人では生きられないということが人付き合いが嫌いな彼らの弱点なのである。

そこで人付き合いが嫌いな人はどうしても相手にすがる。

ずるい人のほうはその弱さを見抜く。

受容的構えの人はずるい人のいいなりになる。

人付き合いが嫌いな人はいいなりのなりながらも、ずるい人に感謝をしたりする

ずるい人はどんどん搾取できる

人付き合いが嫌いな人は利用される目の前にニンジンをぶら下げられて走らされている馬みたいなものである。

それほど愛が人付き合いが嫌いな人は欲しいということでもある。

しかし別の視点からいえば、人付き合いが嫌いな人は五歳児の若者になる。

働けばいいが、人付き合いが嫌いな人は働かないですねることも多い。

身近な人に対しては人付き合いが嫌いな人は、愛は常に愛されることだから、いつも不満である。

遠い人に対しては八方美人になるが、近い人には要求ばかりの人になる。

家では狼、外では子羊である。

自分が人付き合いが嫌いな人だと思った人は、何事も「楽をしよう」として人にまかせないことである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著