人付き合いが怖い人は必死に”今ここ”を生きてみよう

内づらのわるい不機嫌な人は、心の底では愛情と受容を求めながらも、親密な関係がわずらわしい

人付き合いが怖い人は彼らは他人への愛情欲求、一体化願望が満たされていない。

それゆえに人付き合いが怖い人は自他の合体を望むが、同時に個性化を望む。

そして、人付き合いが怖い人はこの心の葛藤ゆえに内側にあたる身近な人に接すると、混乱して自己が自己として体験できなくなってしまう。

人付き合いが怖い人は結果として不安定で、不快な感情におちいってしまう。

彼らは愛情と受容を求めながらも、他方で親密な関係を避けたがる。

なぜか?

おそらく、人付き合いが怖い彼らは母なるものからの完全な自立がなしとげられていないからであろう。

女性の場合は父から分離、個別化がされていないのだろう。

人付き合いが怖い人は心理的な親離れが成就されていないことが、親密な関係を避けようとする姿勢となってあらわれる。

親しい内側の人がうっとうしく、不快なのは、親しくなることで親を裏切り、そしてもう親に迎え入れてもらえないのではないかという心配が無意識に働いているからであろう。

人付き合いが怖い不機嫌な内づらの基底にある問題は、親密さへの不快さであり恐れである。

そして人付き合いが怖い人は無意識のうちに親密さは親への裏切りと感じている。

人付き合いが怖い彼らにはまだ親が必要なのであろう。

外づらの人とは、人付き合いが怖い彼らにとって「よそ者」なのである。

人付き合いが怖い人はよそ者とどんなに親しくなろうと、相手がよそ者であるかぎり、親への忠誠と衝突することはない。

親に対しては自分をさらけ出すことはできない

そして内側の人間に親に対する感情を転位させてしまう。

つまり内側の人間には自分をさらけ出すことができない。

しかしよそ者には自分をさらけだすことができる。

親から離れられない人付き合いが怖い人というのは自分を信用できない人なのである。

自分を信用でき自信ができれば、他人と親しい関係を持ちたいという欲求は高まる。

健全な家庭で育った人は、自分を信用できるし、他人と親しい関係を持ちたいという欲求を実感できる。

しかし、嫉妬深い家庭などで育つと、人付き合いが怖い人はとても他人と関係を持つことへの欲求を素直に感じることはできない。

また人付き合いが怖い人はそのような欲求を高めることもできない。

嫉妬深い親というのは、自分の子どもとの関係では常に他人に脅かされている。

子どもが他人に親近感を持つことに脅かされている。

子どもにはこの親の気持ちが反映する

親離れできない子どもは、この親の気持ちを大切にする。

嫉妬深い親に育てられると、子どもは自分の人間としての立場を失う。

立場の喪失は自我の喪失でもある。

親は親の立場で、子どもは子どもの立場で親子の関係を結べないのが嫉妬深い親子関係である。

よそ者がよそ者であるかぎり親は脅かされない。

だから人付き合いが怖い内づらのわるい不機嫌な人も、外側の人に対しては接近を妨害するものを心の中に持っていない。

嫉妬深い親が子どもに望む世界観はどういうものであろうか。

それはすべての他者をよそ者として排除しておく世界観である。

子どもが、結婚し配偶者と親しくなることは望まれないし、親しく生活するという人生観は望まれない世界観なのである。

実際、多くの奥さんは次のように悩んでいる。

「夫は私か母親のどちらかを選ぶなら母親を選ぶといいます」

自分の奥さんと親しくなることは、母親との関係を脅かすものではまったくない、ということが、これらの人にはどうしてもわからない。

残念ながら人付き合いが怖い彼らは嫉妬深い母親に育てられたのであろう。

自分の考え方はおかしいと頭ではわかっていても気持ちの上でどうしようもない

それが内づらのわるい不機嫌な人なのであろう

人付き合いが怖い内づらのわるい不機嫌な人は嫉妬深い親に負けてしまっているのである。

嫉妬深い親から心理的にどうしても離れられないでいるのが、人付き合いが怖い内づらのわるい不機嫌な人なのである。

ことに嫉妬深い親に猫かわいがりされた子どもは悲劇である。

多少極端な例であるが、ある人付き合いが怖い内づらのわるい不機嫌に苦しむ男性が話をしてくれた。

小さいころからの話である。

悩みや苦しみは、現実から逃避していれば、母親が助けてくれた。

小学校でも中学校でも、ほとんど努力しなくてもよかった。

母親は、自分が成績わるくても、陰で先生に贈り物をしてくれる。

僕の友達を家に呼んでもてなしてくれる。

母親の温かい羽根の下で安心して暮らせる。

母親と性的な話になると緊張する。

そういう話は避ける。

今まで記してきたことの他に、回避依存症といわれるものがある。

人付き合いが怖い人は過干渉の親に育てられた人である

アルコール依存症の人がアルコールを飲まないではいられないように、回避依存症の人は、近くなるとその人を回避しないではいられない。

「わが家の者はいちばんであり、他の人々は愚かである」

人付き合いが怖い彼には、親密さが家族への裏切りのように思えた。

「よそ者」と親密になることに対する恐れにはいくつかある。

1.人びとに嫌われるのではないかという恐れ

2.人びとと親しくなることで家族を裏切るのではないかという不安

3.もう家族に迎え入れてもらえないのではないかという心配

そういう人付き合いが怖い人は、とりあえずアルコール依存症(alcoholism)や性交渉(sexual affairs)で、現実から目を背けることがある。

空しさを避けるためのsexual affairsである。

実存的空白で欲望は肥大化する。

無理をして過剰に適応した人付き合いが怖い人は口唇欲求のような欲求を排斥しながら、意識的に自分の人格をつくっていく。

人付き合いが怖い人は欲求は意識からは分離されても、その人の心の底にある。

意識的につくられている人格とは融合することなく、分離されて心の底で満足させられることを待っている。

内づらが、その分離されて心の底で満足されることを待っている欲求不満を表現している。

外づらが、意識的につくられている自分の人格である。

この二つが融合していないのが、人付き合いが怖い内づらがわるくて外づらがよい人の心である

人付き合いが怖い人は家ではreal self(本来の自分)である。

家での姿が、本当のその人である。

人付き合いが怖い人は外では疑似自己である。

本当の自己を隠して、人に見せるための自己を演じている。

こういう人付き合いが怖い人は、とにかく人に認めてもらいたい。

人付き合いが怖い人が無意識の領域で本人が受け入れてもらいたいのは「実際の自分」のほうである。

つまり人付き合いが怖い人は幼児的願望を持った自分、ダメな自分である。

そして人付き合いが怖い人は疑似自己と、「実際の自分」との乖離が不安を生む。

意識と無意識の乖離

人付き合いが怖い人はその不安を解消しようとして、外ではいよいよ立派な自分を演じなければならない。とにかく認められたいからがんばる。

すると、人付き合いが怖い人は人に見せるための「疑似自己」と「実際の自分」との乖離がいよいよ深刻になる。

たとえば大企業の役員をやめて家に戻ったときには、もうその乖離は埋めようがなくなっている。

人付き合いが怖い人は「実際の自分」の欲求は何も満たされていない。

人付き合いが怖い人の欲求不満は深刻である

そして実は、自分は心理的にいえば立派でも何でもない

人付き合いが怖い人は情緒的成熟に挫折している。

心の底では憂うつである。

ところがどんなに無意識の領域で憂うつに苦しめられても、その人付き合いが怖い人は「本来の自分」「実際の自分」を認められない。

人付き合いが怖い自分は外では「実際の自分」を隠して無理をしていたということを認められない。

しかし実はある視点から見れば、立派なのである。

その人が、たとえ疑似自己であったとしても、「そこまでがんばった」ということは間違いない。

しかし人付き合いが怖い人は仮面をかぶりつづけて生きていたということも事実である。

そこで「私の人生は、そういう人生だった」と認めれば道はひらける。

人付き合いが怖い人は幼い頃に、ありのままの自分を受け入れてもらえなかったことが悲劇のはじまりであった。

私はありのままの自分を受け入れてもらえないままにがんばった。

「私は疑似自己のままで生きてきたのだ」と認める

まさにこれがアイデンティティの確立のときである。

それは自分の運命を受け入れて、社会の中の自分の位置がわかったときである。

自分だって、もし違った人間関係の中に生まれていたら、疑似自己としてがんばらなくてもよかったかもしれないのである。

しかし自分の運命は違った。

人付き合いが怖い自分は生き延びるためには疑似自己として生きる以外に方法はなかった。

もしその人付き合いが怖い人が本当にがんばって生きてきたのであれば、「私にはこれ以外の人生は考えられなかった」と思える。

そのときが、その人付き合いが怖い人にとって人生のコペルニクス的転回のときである。

「私には私の人生がある」と、自分の人生を受け入れてくれたときに、今までの自分の人生がよく見えてくる。

偽りの自分としてがんばった人付き合いが怖い人生が見えてくる。

虚勢に苦しんだ自分の人付き合いが怖い人生が見えてくる。

そして疑似自己として生きた人付き合いが怖い時代をも含めて、「これが自分の人生だ」と受け入れられる。

人付き合いが怖い人はがんばって生きてくれば、今の職業は自分には適していないなと気がついても、「私にはこれ以外の職業は考えられなかった」と感じる。

「私にはこれ以外の職業は考えられなかった」と感じる人には、いろいろなタイプがある

はじめの職業が自分には適していない商売で、最後まで商売人として生きた人もいるだろう

あるいは職業を転々として、いくつ変わったかわからないという人もいるだろう。

外側から見ればいろいろとちがった人生である。

しかし必死で生きてきた人は、最後には、「私にはこれ以外の職業遍歴は考えられなかった」と感じるにちがいない。

そう感じない人は、手抜きして生きてきた人である。

手抜きして生きてきた人は、たとえ社会的に成功しても、「私にはこれ以外の職業は考えられなかった」と感じることはない。

アイデンティティの確立はない。

つまり「私にはこれ以外の職業は考えられなかった」と感じる人は、一切の職業的劣等感から解放される。

心理学者がアメリカのマサチューセッツ州のコンコルドの刑務所に入って調査したときのことである。

そこには武装強盗の人たちが入っていた。

刑務所の中で話をしたときの、ある若者である。

「俺はブラック(黒人)だ、教育も受けていない。親父は俺が小さい頃、女をつくって家からでていった。俺に、盗む以外にどう生きろというのだ」といった。

そして彼は「俺には、盗むことは悪くない」と主張した。

要するに「俺に生きる権利があるというなら」ということである。

人付き合いが怖い人の決断する覚悟の大切さ

1.捨てる

「譲る」のは解決の先延ばし

嫌われるのが怖くて、譲って、譲って、人間関係を維持していこうとしているうちに、どんどんと心の底には敵意が積み重なっていく。

譲って人間関係を維持しようとしても、だれでもおもしろくない感情を抱く。

敵意が積み重なれば、表面的にどんなにいい顔をしても、関係はうまくいかない。

それは、ベラン・ウルフが言うように相手はその人の無意識に反応するからである。

相手はその人の無意識にある敵意に反応する。

だから、人付き合いが怖い人は最終的にはどうしても人間関係はうまくいかなくなる。

人付き合いが怖い人は譲って、譲って我慢しても、最後には結果は悪くなる。

譲ることでうまくしようとした人間関係は、譲ることでうまくいかなくなる。

「決断する」ということは「捨てる」ということである。

「あの人とは、うまくいかなくなってもいい」と覚悟をする。

その「捨てる」覚悟ができなければ決断はできない。

「こうしたらあの人が気分を害する」「ああしたらこの人が怒る」と気にしていては、毅然とした態度はとれない。

「もういい!」と「捨てる」覚悟をして、はじめて決断ができる。

そして「捨てる覚悟ができて、はじめて気持ちのうえで「スッキリ」とする。

人間はすぐに決断できるものではない。

だれでもいろいろと悩み、「どうしようか?どしようか?」と迷い、そうしているうちに、あるときに「こうしよう」という決断ができる。

決断できない人付き合いが怖い人は、結局ずるい人からなめられる。

ずるい人は決断できない弱さをかぎ分けて近寄ってくる。

さらに欲求不満な人からいじめられる。

要するに人付き合いが怖い人は質の悪い人から利用される。

そして人付き合いが怖い人は消耗して病気になる。

いつでも、だれからもいい人と思われようとしていれば決断はできない。

いつでも、だれからもいい人と思われることなどありえない。

人付き合いが怖い人は決断する前に、いままでの自分の人生を反省してみる。

相手の意志に振り回された自分。

自分を消してまで相手の意に添った自分。

そして結局はなめられた自分。

あれだけ頑張って、無理をして、評価はされなかった自分。

そうした生き方の反省の上に立って決断をする。

感情をねじ伏せても無理があるから、ストレスになる。

人間、一年後にどうなっているかはわからない。

「決断をしない」ということは、「修羅場をつくらない」ということである。

「譲る」ことでその場は解決する。

しかし本質的な状況は悪化している。

たとえば対人関係においていえば、相手は譲る前よりさらにこちらをなめてくる。

より傲慢になってくる。

より利用しようとしてくる。

その場を収めるという手段は、長期的に見ると事態の悪化を招く。

ブドウに新芽がでるためには、ブドウのどこかを切る必要があると聞いた。

「どこを切ればいいのかな?」

適切なところを切れば新芽が出る。

人間関係のトラブルは、相手がいるからなかなか思ったようには処理できない。

したがって自分のなかの問題もそう簡単に処理できない。

できることは自分のなかの問題を整理することである。

「切る」とは、「自分がどうすれば納得できるか?」ということである。

渦中にあると相手に飲まれているから些細なことがたいへんなことだと思う。

納得が解決。

執着しないと、違うほうにエネルギーが行く。

生産的なほうにエネルギーが行く。

エネルギーが違うほうに注がれれば、ストレスはなくなる。

「人生、うまくいかない」と思うことが大事。

明日はわからないから「まず寝よう」

事実は生きられるのだけれども、「もう生きられない」と思うことがある。

「これさえなければ」と思うが、それがなくなれば、次の問題が出てくる。

違うことが起きてくる。

「火事になると病気が治る」ということを読んだ。

火事から逃げることが第一の問題になるからである。

だから夜の十二時には寝る。

寝られることが、怒りがないことのバロメーター。

寝ることができれば、勝てる。

シーベリーは不安を解決する八つの方法を述べている。

その一番目は「不安な気持ちのままでベッドに横になっていてはいけません」(デヴィッド・シーベリー著、加藤諦三訳『問題は解決できる』三笠書房、1984年)である。

快眠快食快便が目的。

それをしていれば、いつかは目的を達成できる。

それができていれば、自然と事態は好転してくる。

捨てることができれば、ストレスをためない。

ストレスがなければ快眠快食快便ができる。

人付き合いが怖い人の勝負は会社の出世ではない。

快眠快食快便が勝負。

快眠快食快便は一見簡単なことのようでもたいへんなことである。

なぜならそれはストレスを抱え込んでいないということだから。

熟睡できないときには、とにかく自分はいま問題を抱えているということである。

人付き合いが怖い人はそれを認めること。

自分には気がついていない不満なことが何かある。

身近なことが原因かもしれない。

大きなことに気がいってしまっているあいだに、小さな身近なことで不満がたまっている。

積み上げたものが器から漏れたときに決断する。

どうしようかな、やめとこう。

ルビコン河を渡ろうかな、やめようかな。

そこには迷いの時間がある。

時間を経て決断をしたときには、その決断に魔法の力がある。

迷いがないときには、すでにそれ以前に心で準備をしていたということである。

決断をしたときにはサッパリしている。

時の勢いがある。

自分に魔法の力を与えてくれるのは決断。

今の時代、親の介護で悩んでいる人は多い。

介護をしなければ兄弟から嫌われる。

人付き合いが怖い人は親不孝と言われる。

利己主義と言われる。

事実、親の介護をしない人はトコトンの利己主義者。

それがイヤなら介護をする。

自分はいい人を演じながら、親の面倒をみない方法を考える。

人付き合いが怖い人はだから悩みが出る。

覚悟をして親の面倒をみる方法を考える。

そうでなければ「私は利己主義で、どうしようもない人間」と認める。

あるテレビ局が人生相談で、むかしは親がお金に困って子どもを売る相談があったと言ってきた。

とんでもないことだと言う。

たしかにみごとに自分勝手。

ただ子どもを売る話は、むかしは教科書にも出ている。

しかし、じつはいまの親のほうがひどい。

いまの若い親の多くは、子どもは子ども、自分は自分と心の底では思っている。

いまは、ほんとうは子どもに無関心なのに、きれいごとで規範を言っている。

しかし、むかしと同じ。

むかしはどうせ昆虫なら昆虫として扱っている。

いまもむかしも親は自分勝手。

ただ、いまはその自分勝手を心の底に隠している。

いまは親が自分を自分勝手と思っていない。

子どもがあっというまに生まれた。

いまの親は、自分を自分勝手と思っていないで、自分勝手なことをしようとしているから悩みが出る。

切れる関係ならしょうがない

人付き合いが怖いから、言いたいことが言えないでいると気持ちが暗くなる。

あまりにも我慢すると気持ちが暗くなる。

暗い人付き合いが怖い人は我慢しすぎている。

その結果、人付き合いが怖い人はかえって嫌われる。

人付き合いが怖い人は「みんなからわがままな人だと思われやしないか」と恐れて、我慢をする。

八方美人になっていては決断ができない。

人付き合いが怖い人は「あの人は我慢が出来ない人だ」と言われるのを恐れて、自分の感情と意志を言えない。

「あの人はけしからん人だ」と思っていても、ハッキリと「あの人はけしからん」と自分の感情と意志を示せない。

ハッキリと「こうする」と自分のなかで決められれば気持ちも落ち着くのに、あっちにもいい人と思われたい、こっちにも利己主義な人と思われたくない、となると決断はできない。

決断をするということは、人間関係でトラブルは出てくるということである。

すべての人に「好かれたい」と思っていれば、決断はできない。

そうして「すべての人から好かれたい」と思っているあいだに、言いたいことが言えず、不本意ながらも相手に同調し、敵意が積もりに積もって、高血圧になり、心臓病で倒れるかもしれない。

何よりも大切なのは決断である。

「捨てる」ということである。

決断できない人付き合いが怖い人は、人を勘違いしている。

人はこちらが我慢しても、それほどこちらのことを「立派な人だ」とは思っていない。

それほどこちらのことを気にしているわけではない。

あなたがものすごく我慢をしても、相手はあなたがそれほど我慢をしているとは思っていない。

切れる関係は切れる。

そこが決断である。

人付き合いが怖い人は我慢をしても体調を崩すだけである。

ストレスが原因の高血圧で心臓病になって倒れたからといって、その人たちがだれも真剣にあなたを助けてくれるわけではない。

それぞれの人はそれぞれで、自分の問題でせいいっぱいなのである。

人付き合いが怖い人は好かれようとして我慢したからといって、それほど好かれるわけではない。

好かれようとして無理をして、我慢をして、それでも期待したものが返ってこない。

人付き合いが怖い人は返ってこなければ逆に恨みが出てくる。

「これだけ我慢をしたのだから、少しはわかってくれるだろう」と思うが、まず分かってもらえない。

「切れる」関係なら切れてもしょうがないと腹を決めることで、体調を保てる。

人に「私は不幸」と話してもしょうがない。

人付き合いが怖い人は自分の意図していることを相手が理解しないと腹が立つ。

したがって相手に「こう思ってもらおう」と思うことは話さないほうがよいときが多い。

「こう思って」くれなくて腹が立つからである。

自分ではよいと思って話しているが、他人から見るとよいことではない。

この世の中には何もない。

それをわかることが悟り。

そうすれば悔しくて眠れないということはない。

自分らしく生きるとは、自分の能力にしたがって生きるということである。

その能力とはなにもパソコンや語学の能力ではない。

耐える能力も、生きるためには重要な能力である。

それは英語の能力などと比較できるものではない。

はるかに重要である。

自分らしく生きるとは、その自分の能力にふさわしい生き方をするということである。

自分の能力を超えて頑張って我慢をしても、結果はよくない。

それはガソリンが切れても走ろうとするようなものである。

それが燃え尽きる人。

ガソリンがないから走れるわけはないのに、走ろうとする。

執着性格は疲れても休めない。

自分にできないことは「できない」と伝えて、関係が切れても心はサッパリしている。

2.対決する

難しくても対決する。

拒絶されることを恐れない。

ある大企業に飛び込みで雇用された女性がいる。

学歴は高卒。

人事の人は「高卒、困ったなぁ」と言った。

そこで彼女は「どうしていけないんですか?」と聞いた。

ほんとうにそう思ったからである。

自分がいままでに取った実用新案などを巻紙に書いて持っていった。

彼女は自分を売り込むのは「巻紙だ」と思ったからである。

そして秘書になれた。

自分を打って出る。

対決するということは、人付き合いが怖い人にはできない。

拒絶されることが怖い人には生身で相手と対決できない。

対決する覚悟を決めると、拒絶されることも嫌われることも怖くなくなる。

人付き合いが怖いのは、自己蔑視しているからである。

自分が自分を軽蔑していなければ、相手から軽蔑されることは怖くない。

毅然として自分を出す。

すると相手の対応が違う。

すると相手が見える。

人付き合いが怖い人は利口ぶった演技を身につけても、それでは相手が見えない。

演技をしていると、自分を出したときと出さないときの、相手の対応の違いがわからない。

生身の人間と対決することを恐れないためには、こちらはやることをやっていなければならない。

飛び込みで秘書に採用された女性もやることをやっている。

だから飛び込める。

次に自分で自分を守る姿勢がなければならない。

何でも人に頼らない。

3.人付き合いを整理する

納得するまで頑張って、ダメなら別れる

整理とは優先順位をつけること。

この人に嫌われるのと、この人と別れるのと、あの人から信用をなくすのと、あの人と争うのと、どちらが困るか?

そのようなことを考える。

自分にとって大切な人はだれかがわかってくる。

ところが人付き合いが怖い人は成功を焦っているから優先順位を間違える。

先を考えていない。

どこに石を投げるかで先が違う。

客観的にものを見られるということは整理できている。

人が「泥棒しようぜ」と言った。

その人は悪い。

しかし、それに乗った人付き合いが怖い人は意志がない。

また人付き合いが怖い人は「泥棒をしよう」というような人を、自分の側に置いておいたことが悪い。

そういう人が側にいることは、運がよくないということである。

そういう人から離れていることが安心すること。

そういう人から離れていることで心安らかにいられる。

何をしてもうまくいかないときには、人間関係を変える。

人付き合いが怖い人は人間関係を整理することが必要。

いかに生きるかではなく、いかに側に変な人を置かないかを考える。

変な人とは、こちらの思考を変えてしまう人である。

変な人といると、周辺が変な社会になる。

社会的に許されない環境になる。

そしてトラブルが起きる。

なんか心に引っかかるものがある人とは、別れる。

メダカのなかにザリガニがいると「これ、だいじょうぶかな?」と思うだろう。

水は同じでもお互いに緊張感が走ることにはちがいない。

それと同じこと。

多くの場合、別れることはエネルギーがいるから、離れなくてもよい理由を見つける。

その理由づけの段階で道を間違える。

その後トラブルが起きる。

人間関係は自分が納得するまでよい関係を追求する。

そして時間をかける。

人付き合いが怖い人はそうしないと判断する力をなくす。

自分が自分でわからなくなる。

人付き合いが怖い人は生きることに自信をなくす。

恨まれて困ることはない

人付き合いが怖い人はその人と離れるということは、その人から恨まれることになるかもしれない。

しかし人付き合いが怖い人は恨まれることを覚悟でこのことをしないと、問題は解決しない。

人は何もしなくても恨まれる。

恨まれても困ることは何もない。

努力してもよく思われることはない。

何をしても恨まれる。

何をしなくても恨まれる。

そうした意味で人間社会にトラブルの解決はない。

人付き合いが怖い人は良く思われようとして、手紙にいろいろなことを書いている。

しかし、人付き合いが怖い人はそう書いたからといってよく思われることはない。

そう書いた後で返事を要求していて、「厚かましい」と思われたりする。

「穏便にことをすませよう」とすると、質の悪い人にどんどん侵食される。

相手が搾取タイプのときには、穏便に事をすまそうとしてはいけない。

トラブルを起こして言い訳をする子がいる。

そういう子は憎しみがある。

怒らないお母さんは疲れてしまっている。

だから怒らない。

人付き合いが怖い人は「穏便に事をすませよう」としていると、周りにおかしな人がどんどん集まる。

無理して「いい人」を演じていると、関係の形が崩れる。

人付き合いが怖い人はこっちがいい人を演じていると周りは自分勝手な世界に入ってくる。

綱引きをして、引いているフリをする人がいる。

口先だけは大きな声で「よいしょ、よいしょ」と言っている。

逆に本気で引っ張る人がいる。

綱が切れたときには、ほんとうに引っ張っている人が怪我をする。

前後を見ないで、全身で綱引きをしているから怪我をする。

頑張る人が出れば出るほど、周りは頑張らない。

怠ける。

周囲の人を見ないで頑張る人付き合いが怖い人は、やがて「眠れない夜」を迎えるような人になる。

気がついてみると自分一人が頑張っている。

あなたの我慢に解決策はない。

几帳面なのにわざと遅れてくる人がいる。

ケチで人をなめている。

憎しみがあるのに、口はていねい。

自分の机の上だけは整理されている。

こういう人は他人を利用する。

また、遅れてくるし、机の上が散らかっている人もいる。

全部だらしがない。

そういう人は優先順位がわからない。

全部だらしがない人と同じように、悩みが原因で早く死んでしまう人も、自分にとって何が一番大切かがわかっていない。

そういう人は善良なのだけれども、人間環境の整理ができていなくて、おかしな人に囲まれていつもトラブルにまきこまれている。

やたらに愛想よくする人付き合いが怖い人がいる。

人付き合いが怖い人は何かをしてもらおうとすると愛想よくなる。

そこでずるい人になめられてしまう。

人付き合いが怖い人はペコペコしてしまうとなめられる。

だますつもりがだまされる。

誠意は、つきあっている関係の中で示される。

いきなりの誠意は必要ない。

相手がどんな人だかわからないのだから。

最初は自己主張。

相手を見ろ。

変だと思ったら変。

相手がどんな人かもわからないうちから親切は危険である。

なめられてひどい目にあうことが多い。

親切な人は、相手の親切がわかるが、一度も人に親切をしたことのない人は、相手の親切がわからない。

あなたが親切をしても、相手は親切をされたとは感じない。

人付き合いが怖い人は逆に弱みがあると誤解される。

そして人付き合いが怖い人はとんでもない仕打ちにあう。

「恩を仇で返す」という言葉がある。

しかし、これは少し違う。

恩を受けた側は、恩を受けたとは感じていない。

恩を感じる心そのものがない。

修羅場は現実と向き合うこと。

活路を見つけるために、現実と向き合う。

人付き合いが怖い人は現実に向き合うためには覚悟が必要。

修羅場とは、自分の自覚。

修羅場は現実と向き合って、自分がどう生きるかを見つけること。

それは活路を見いだすこと。

「修羅場をつくる」ということはそういうこと。

修羅場は活路。

人付き合いが怖い人は現実と向き合うことは活路を見いだすことと思わなければ、話し合いが泣き言になってしまう。

私達は持っている価値のないものに、しがみついて、自分から人生を苦しいものにしてしまう。

自分の幸せにとって何の意味もないものに、なんでそこまでしがみつくのか?

いま人付き合いを怖れている人は、あなたが病気になったときに助けてくれますか?

人付き合いが怖い人は傷ついたあなたの心を癒してくれますか?

いま人付き合いが怖いあなたの我慢には解決策がない。

人付き合いが怖い人はその先に生きる道がない。

活路を見いだすことが大切。

人付き合いが怖い人は人といて居心地が悪いのは、周囲の人が心理的に敵だからである。

人と食事をして楽しくないのは、周囲の人が敵だからである。

人付き合いが怖い人はこのままいても事態は改善に向かわない。

現実に向き合って事態を解決する。

「人間は、よくムダなことをしているな」と思うことがある。

だいたいデパートにはたくさんの商品があるが、生活にどうしても必要なものはあまりない。

人は生きるために必要のないものを手に入れようとして無理をする。

「これをなくしたらどうしよう」と思うが、なくしても生きていかれる。

人付き合いが怖い人は思い込みを解き放て

認めてもらいたい人を選ぼう

嫌われるのは怖くない、そういう強い人は、「あんな人に認めてもらわなくてよい」と思っている。

べつに嫌われてもよいと思っている。

しかし嫌われるのが怖い人は、だれでもかれでも認めてもらおうとしている。

人付き合いが怖い人は認めてもらうことを願わなくてもいい人から認めてもらおうとする。

そのことで、自分から心理的に弱者の立場に立ってしまう。

人付き合いが怖い人は認めてもらおうとすれば、認めてもらわなければ傷つく。

認めてもらおうとしなければ、認めてもらえないことで傷つかない。

だいたい認めてもらおうとして傷つく人付き合いが怖い人は、ずるい人の餌になる。

たいてい弱い、人付き合いが怖い人はずるい人に認めてもらおうとする。

人付き合いが怖い人はとは自分の力に頼って生きていこうとしない人である。

ずるい人は確実に、その認めてもらおうとしている人の心理的弱点を見抜く。

そして利用する。

「これをすれば認めてやる、あれをすれば認めてやる」というようにして利用する。

「人付き合いが怖い人」は自分から傷つきにいったようなものである。

何も苦しむ必要がないのに苦しんで生きている。

「さびしい」ということは、つねに危険な心理状態である。

認めてもらいたいし、つねに注意が欲しい。

つねに自分で自分の首を絞める準備態勢が整っているということである。

さびしいという人は、もし自分で自分の首を締めなければ幸せになれるのに、大抵は自分で自分を傷つけて不幸になっていく。

人付き合いが怖い人は認めて欲しいという欲求を持っていると、相手が見えない。

八方美人などはつねに傷つく。

人付き合いが怖い人はいい顔をする必要がない人にいい顔をする。

そして人付き合いが怖い人は親しい人がいない。

人付き合いが怖い人は無理をしていい顔をしているが、親しい人はできない。

嫌われるのが怖くて「イヤ」と言えない人付き合いが怖い人は、親しい人がいない。

人付き合いが怖い人は八方美人になることで、すべての人に対して自分から心理的に弱者の立場に立ってしまう。

小さいころから従順に生きてきたことで、八方美人になるような心理状態になっている。

「報酬として与えられる愛」(フロム)に慣れている。

人付き合いが怖い人は仕事でいえば下請け業者のようなものである。

「言う通りにしなければ仕事をあげない」と言われれば、言う通りにしなければならない。

権威主義的な親に従順に生きてきたということは、つねにプレッシャーを感じて生きてきたということである。

いま生きるのが苦しい人付き合いが怖い人は、「認めてやる」という誘惑に乗って生きてきて不幸になった。

誘惑とは自分の望むイメージのように扱ってくれる人である。

愛情飢餓感が強い人付き合いが怖い人は、搾取タイプの人に引きずり回される。

ときに、そういう人は搾取されているときは気分がよい。

「利用されていること」を「認めてもらっている」と錯覚するからである。

人に認められたいというのは、その人付き合いが怖い人の弱点。

しかし自分のほうが尊敬している人から認められたいというのは強い証拠。

尊敬は普段着。

普段着だけれどもエプロンだけはノリがきいている。

私はだれに対しても弱みはない

弱みがあると、人付き合いが怖い人は他人にいい顔をする。

そして笑顔を振りまく。

人付き合いが怖い八方美人は心の底で自分の偽善に気がついている。

それを見て、ずるい人は「この人は弱みがある」と的確に見抜く。

実際に弱みがある場合には、それはそうなるのが当たり前である。

しかし実際に弱みがあるのではなく、その人付き合いが怖い人が勝手に「私は弱みがある」と思い込んでいるだけのことがある。

実際に弱みがあるから人は他人にいい顔をする、というよりも、人付き合いが怖い人は他人にいい顔をするから、何でもないことが弱みに感じてくるのである。

「私は誰に対しても弱みはない」と思ってみる。

そう思えばそう思えないだろうか。

ある人付き合いが怖い女性である。

アルバイト先で周りの人を立てすぎて、自己嫌悪に陥り、ノイローゼになった。

その人は相手を立てないと受け入れられないと一人で勝手に思い込んでいる。

ほかの人は適当にみなそれぞれ楽しんでアルバイトをしている。

また別の人は「笑えないと嫌われる」と一人で勝手に思い込み、自分で自分に笑うことを強制していた。

無理がきかなくなって、笑おうとすると顔が引きつってしまい、一人で黙り込むようになってしまった。

この人付き合いが怖い人もまたノイローゼになった。

人付き合いが怖い人は、「いま、私はどのような思い込みに囚われているのか?」と自分に問いかけてみることである。

そして当然のことながら、最大の問題は小さいころからの思い込みである。

この思い込みを人付き合いが怖い人は小さいころの生活を反省することで解消しなければならない。

子どもが言うことを聞かないので、母親はどうしてよいかわからない。

そこで、子どもを脅す。

家出するとか、子どもをよそにやるといって脅かす。

「ママは出て行く」という母親は子どもを脅している。

そうして脅された子どもはいつも不安感がある。

「このような制裁や制裁の脅しが反復的に用いられるとき、あるいは時折であっても強度に用いられるとき、それらはパーソナリティの発達に不幸な影響をもたらす。

特に、それらは必要に際しての有効性に大きな疑いを故意に投げかけるので、そのようなおどしは、自分は棄てられるかもしれないという個人の恐怖を非常に増大させるだけではなく、他の事態に対する恐怖反応の敏感性をもいちじるしく増大させる」

要するに子どもは親から脅されることで、自分は嫌われるのではないかという恐怖感を増大させる。

人付き合いが怖い人は、小さいころいつも親から脅されていたのではないか。

「自分はいつも脅かされていたのではないか」と、小さいころのことを考えてみることである。

そしてこの脅しで言われなき恐怖感を心の中に増大させた。

したがって人付き合いが怖いという恐怖感には何の理由もないのだと、恐怖感が消えるまで自分に言い聞かせることである。

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著