人付き合いが疲れる人の気が楽になる初め

オルポートは、「針小棒大の(心理)メカニズム」ということを説明している

他人の中にある性質を誇張する心理過程である。

この場合は、少しはその性質が他人の中にある。

しかし質量ともに、本質的には人付き合いが疲れる人の中にある性質である。

そして人付き合いが疲れる人は、その性質が自分にあるということを認めたくない。

そこでその弱点を人付き合いが疲れる人は他人の中に見つけて、その重要性を誇張する。

心理過程の人間に、人付き合いが疲れる人は自分をよく見せようとしても無理である

それは、こちら側がどんな人間であるかが問題なのではない。

「相手が自分自身に何を隠そうとしているか」ということが問題である。

もし過去と他人の心はかえられないとすれば、「針小棒大の心理メカニズム」が機能している他人に向かって、人付き合いが疲れる自分をどのように印象づけようとしてもそれは成功しないであろう。

こちらをどのような人間と見るかを決めるのは、彼の中に機能している「針小棒大の心理メカニズム」であって、現実の我々の言動ではない。

もっとひどいのはいわゆる「投影」である

「投影」についてはユングとオルポートと考え方に違いがあるようである。

しかし、今現在議論しているテーマについては、その違いはさして問題ではない。

人付き合いが疲れる人は”他人まかせ”を楽しむ生き方を

他人が自分をどのようにみているかということに悩んでいる。

考えてみれば、まさに見る人の心にまかせる以外にどうしようもないのである。

このように人付き合いが疲れる自分を見て欲しいという願いは愚かな願いである。

オルポートの『偏見の心理』に投影の説明として次のような文章が載っている。

全面的に人付き合いが疲れる自分の中にある―他人にはまったくない―属性であるにもかかわらず、他人の中にあると見られる。

自分の中にまったくなくても、それがあると見られてしまうのである

このような心理的作用が人間にあるときに、「自分をこのように見て欲しい」という願いを持つことがどのくらいバカげたことか、理解してもらえるのではなかろうか。

中には、「そんな『投影』などという防衛的心理作用とは無関係な人もいるではないか」という反論もあるであろう。

しかしそのような防衛的心理作用のない人は、人を見抜く目を持っている人である。

つまり、その人に、実際の人付き合いが疲れる自分より自分をよく印象づけようとしても無理なのである。

ところでオルポートに従って、「投影」ということをもう少し考えてみよう

人付き合いが疲れる人などに「抑圧」がうまくいかなかったときに「投影」は起きるという。

自分にとって好ましくない人付き合いが疲れる性質が自分にある。

自分の意識にとって歓迎できないものは何でも抑圧する可能性がある。

殊に、もし素直に直面するなら、人付き合いが疲れる人は自己評価を低くするような葛藤である。

人付き合いが疲れる人、他者への非難は、自己否定の裏返し

自分は偉大な人間であると思いたい

殊に人付き合いが疲れる人は、栄光を求める。

心のバランスを回復するために、人付き合いが疲れる人は尊敬や愛情を過度に求める。

自分が劣っているという心の底の感じ方の反動形成として、人付き合いが疲れる自分は立派な人間であると思いたい。

そんな人は、自尊心を傷つけるような人付き合いが疲れる性質を、自分の一部とは認めたくない。

卑怯、人付き合いが疲れる、強欲、虚栄心、幼児的依存心・・・そのような性質は認めたくない。

そこで、そのような”自尊心を傷つけるような人付き合いが疲れる自分の実際の性質や傾向”を抑圧しようとする。

他人を攻撃することで、心の葛藤を処理するという

全状況を人付き合いが疲れる人は外化する。

自分の内面の問題を、人付き合いが疲れる人は他人の問題にしてしまう。

自分の中にあるのではなく、他人の中にあるものとして、他人を攻撃してしまう。

自分の虚栄心が強いのに、それが人付き合いが疲れる自分の自尊心を傷つけるので、ある他人を虚栄心が強いと非難する。

ある人を虚栄心が強いと非難している人付き合いが疲れる人は、実はその人自身が、虚栄心が強い

声高に他人を非難している人付き合いが疲れるその人自身の姿なのである。

人付き合いが疲れる人は、肩の力を抜いて、この瞬間を満喫しよう

さてこう考えると、「他人にこう思ってもらおう」とか「他人に自分のことをよく印象づけるために」とかいうように、他人の目を意識して何かすることがどれほどバカらしいことか理解できるであろう。

他人が自分をどう見るかは、こちらがどのような人間であるかの問題ではない。

こちらを見る他人がどのような人間であるかの問題なのである。

世の中には人付き合いが疲れる人とは逆に、抑圧も投影も関係ない人がたくさんいる。

自分の内面を直視できる人である。

そのような人はまた、他人の現実もよく見える

そこで、そのような人に人付き合いが疲れる人は実際の自分以上に立派な自分を見せようとしても見破られる。

いつも緊張して人付き合いが疲れる人はストレスが高い。

何もしないのに人付き合いですぐ疲れてしまう。

つくづく無駄なエネルギーを人付き合いが疲れる人は消費している。

そして、今まで記したように理解できてから、はじめて人付き合いが疲れている人も肩から力が抜けて楽になる。

心理的健康な人は別として、人付き合いが疲れるが人を批判するときその人がどういう人間であるかは関係ない。

批判する人の心の問題である。

ウェインバーグは、挫折した野心家について書いている。

人を声高に非難することが、最後の防衛手段である

人付き合いが疲れる人は、人を批判している自分の自我意識の剥奪を恐れて批判しているに過ぎない。

人から好かれようとするために人付き合いが疲れる人が無理することは、暑い夏にミンクのコートを着て「すごいでしょう」と好かれようとしているようなものである。

人間嫌いな人に好かれようとして、無理して頑張って人付き合いが疲れる神経症になるひとがいる。

人付き合いが疲れる人は弱さを出すと、「自分の魅力」に気がつける

現実にふれることなく、独りよがりの想像の世界で生きている

人付き合いが疲れる人は現実にコミットしないで善意で努力しても、物事は予想どおりには進まない。

相手のためと思ってしたことでも、人付き合いが疲れる人は相手を傷つけるだけの結果に終わることも多い。

逆に相手が好意でしたことに深く傷ついている人付き合いが疲れる人もいる。

尊敬されているのに、バカにされていると解釈する人付き合いが疲れる人もいる。

弱点ではないことを人付き合いが疲れる人は弱点と思い込み、弱点を隠すことにエネルギーを消耗する。

大人になっても現実にコミットしないで、独りよがりの想像の世界で生きている人付き合いが疲れる人は、小さい頃、それだけ厳しい現実であったということである。

自分を取り巻く現実に、人付き合いが疲れる人は頑なに心を閉ざすことでしか生きてこられなかった。

弱点を隠そうとすることで、実は人付き合いが疲れる自分の長所を殺している。

もともとある、その人の長所が花開くことを妨害している

弱点を人付き合いが疲れる人は隠そうとするから、自分の長所を信じられなくなるのである。

弱点を隠そうとすることで、実は人付き合いが疲れる自分の長所を自分に隠してしまっているのである。

自分の弱点を認め、そして受け入れるから、自分の長所が見えてくる。

弱点を隠す人は、人付き合いが疲れる自分の長所に気がつかない。

このことは周囲の人を見渡せば理解できるのではなかろうか。

弱点を隠して虚勢を張っている人がいる

多くの人はその人付き合いが疲れる人を見て、「もし彼があんなに虚勢を張らなければ彼と親しくなれるのに」と思う。

「彼は虚勢など張らなくても、いいところがいっぱいあるのに」と思う。

「どうして彼は、自分のいいところに気がつかないのだろうか」と思う。

「私は十分彼のいいところを認めているのに、あそこまで虚勢を張ると、あいつとは付き合えない」と思う。

人付き合いが疲れる人の「無理」とは実は、自分に対する最大の裏切り

魚は、水の中で泳げることに気がつかない

同じように人は、「ありのままの自分」に価値があるということに気がつかない。

魚が、自分が魚であることに満足しないで、皆から賞賛されたくて、無理して木登りも、と無理をする。

そしてすべてを失う。

次の言葉を人付き合いが疲れる人は肝に銘じておくことである。

自分自身であろうと決意することは、人間の本当の使命である

不安な人は、好かれたい、愛されたい、誉められたいから自分を裏切る。

本当はこうしたいけど、人付き合いが疲れる人は、好かれたいから諦める。

本当は欲しいけれども、人付き合いが疲れる人は、愛されたいから「いらない」と言う。

本当は人付き合いが疲れる人は、こうしたいけれども、ほめられたいから我慢する。

つまり人付き合いが疲れる人は、無理をする

自分のしたいことを行なって嫌われるのが怖いから、人付き合いが疲れる自分のしたいこともできない。

そしてこのように人付き合いが疲れる自分を裏切り続けるから、相手に対して憎しみを持つ。

こんなに無理を人付き合いが疲れる人はしているのに、こんなに我慢しているのに、「それなのに」と思うから憎しみが出る。

そしてもちろんこの憎しみは意識されることなく無意識へと追いやられることもあるし、意識されることもある。

なんとなく不快感が出てくる

人付き合いが疲れる人は相手を必要とするために、相手に気に入られようと無理をする。

「相手にこうして欲しい」という人付き合いが疲れる自分の必要性を犠牲にする。

自分を主張することを避ける、人付き合いが疲れる自分の欲求を犠牲にする。

自分を偽っていると、人付き合いが疲れる人は道を間違える。

無理をしていると、道を間違える

淋しいから、人付き合いが疲れる人は、皆に受け入れられようとして自分を偽る。

無理をする。

チヤホヤされたいときは、集まってくる友達は、チヤホヤの代償を奪う。

淋しいと、ずるい人が人付き合いが疲れる人の周りに集まる。

淋しいから人付き合いが疲れる人は断れない。

チヤホヤされることの代償は大きい

「人のふり見て我がふり直せ」である。

虚勢を張る前に人付き合いが疲れる自分の長所に気がつくことである。

無理をしている人付き合いが疲れる人は、自分の弱点を隠している。

自分にも他人にも人付き合いが疲れる人は隠していることがあるし、また自分では知っているが、他人に隠していることもある。

いずれにしても無理をしている人付き合いが疲れる人は、自分の弱点を隠している。

つまり無理している人付き合いが疲れる人には、ごまかしがある。

そして弱点を人付き合いが疲れる人は隠すことで、「弱点のある自分は人に受け入れてもらえない」という感覚を強化してしまう。

ありのままの自分は価値がないという感覚を強化してしまう。

そして他人が人付き合いが疲れる人は重要になっていく。

辛い努力をしながらも、人付き合いが疲れる人はどんどん他人が不当な重要性を持ってしまう。

つまり無理をしている人付き合いが疲れる人は、毎日努力しているのだが、どんどん弱い人間になっていく。

どんどんおびえた人間になってしまう。

他人が不当な重要性を持ってしまうということは、たとえば、メンツを異常に気にすることである

人付き合いが疲れる人は何かに挑戦しようとしても、もし失敗したらメンツがなくなる。

そう恐れて人付き合いが疲れる人は挑戦しない。

好きな人を何かに招待したい。

しかし拒絶されると人付き合いが疲れる人はメンツがつぶれる。

あるいは見栄を張って人付き合いが疲れる人は無理をする。

他人の目に映るところに気を配る

自分の経済力ではちょっと買えない高級品でも、人付き合いが疲れる人は無理をして買う。

他人の目に人付き合いが疲れる自分がビッグに映るための自己顕示である

中には傷つくことを恐れて、何もしないでいる人付き合いが疲れる人もいる。

そういう人付き合いが疲れる人は振り返って「我が人生に悔いなし」というようにはならない。

「人生を最高に楽しむ」心の持ち方

好かれようと無理をすると、いろいろのものを失うと、記してきた。

その一つは人生の意味である。

バカにされまいと人付き合いが疲れる人のように、無理をしていると、自分の人生に意味を感じなくなってしまう。

これはあたりまえのことである。

自分でない自分を生きるのであるから、人付き合いが疲れる人のように自分の人生の無意味感に苦しむのはあたりまえであろう。

嫌われることへの恐れが、人付き合いが疲れる私達の幸福を蝕んでいる。

「理性を頼みとし、恐れる必要のないものを恐れなければ、幸福は得られる。

どんなできごとも恐ろしくないが、その出来事を恐れる気持ちが恐ろしい。

幸福には外的な敵はなく、その人自身が幸福の敵である。

幸福と不幸は、人生を取り巻く状況の問題ではなく、それに対する内的な態度の問題だ。

自分の中にあり、自分次第のものなのだ。

『人間はもっとも快適な状況にあっても不幸でいる可能性がある。

しかし、自分の力で、不幸を幸福に変えることができる』。

このことに最初に気がついた人として、ルクレティウスはエピキュロスをほめ讃えている」

このような言葉を極端すぎると解釈するよりも、人付き合いが疲れる人が幸福になるためには自分の態度がどのくらい大切であるかを述べたものであると解釈したほうがいいだろう。

幸福になるには他にも必要なものがあるということを、タタルケビッチ自身、十分に承知していたのである。

”被害妄想”という言葉がある

被害を受けていないのに、被害を受けていると思い込んでしまう。

それと同じことで、人付き合いが疲れる人のように嫌われていないのに、嫌われていると思い込んでしまう人がいる。

それは”被嫌妄想”である。

”被嫌妄想”の心理にとらわれると人付き合いが疲れる人のように「もっとも快適な状況にあっても不幸でいる」ことになる。

そして被嫌妄想の心理を人付き合いが疲れる人は、みつめれば「自分の力で、不幸を幸福に変えることができる」。

※参考文献:無理しない練習 「自分らしく」生きたほうが好かれる 加藤諦三著