人付き合いが苦手な人には、「相手から見た自分」というものがない。

自分にとって重要であるが、相手にとって重要ではないことがある。

自分にとっては重要でないが、相手にとっては重要なことがある。

自分にとっても相手にとっても重要ではないことがある。

自分にとっても相手にとっても重要なことがある。

人付き合いが苦手な人には、これがわかっていない。

「自分にとって重要であるが相手にとって重要でないこと」をするときも、「自分にとっても相手にとっても重要なこと」をするときも、同じ気持ちで同じ態度なのである。

人付き合いが苦手な人はだから親しい人間関係が築けない。

人が自分のことをどう思うかを気にする。

人のことを気にするといっても、たいていは、相手の評価をきちんと見極めるという意味ではない。

相手からバカにされるのではないか、断られるのではないか、嫌われるのではないかなどということを心配するという意味である。

人付き合いが苦手な人は相手によく思ってもらおうとして、無理をする。

よく思ってもらったかどうかが気になる。

それが、「人が自分をどう思うかを気にする」ということの内容であろう。

それらは単なる自己執着である。

そしてそういう自己執着は、悩みをつくるだけである。

我々が社会生活をしていく上で大切なのは、相手が自分をどう評価しているかということを、きちんと見極めることである。

人と相対したときに、「自分が思っている自分と、相手が思っている自分とは違うのだ」ということを、きっちり意識していること、これが重要である。

それを意識していれば、大きなトラブルになることは少ない。

大きなトラブルというのは、たいてい相手が自分をどう評価しているのかを間違って解釈するときに起きる。

おだてられているというのはバカにされているということであるが、それを、尊敬されていると錯覚する。

長い目で見ると、こういうときにトラブルが起きる。

私が悩みから救われたのは、他人から見た自分を理解できたときである。

人付き合いが苦手な人にとって大切なのは、他人から見た自分を理解することである。

社会生活をしていく上で「相手にとって自分はどういう存在であるか?」を認識することは、極めて重要である。

というよりも、これなしにスムーズな社会生活はできない。

人付き合いが苦手を克服する為には「完全な自分」へのあこがれを捨てる

「相手はこのような自分を求めているに違いない」という、独りよがりの思い込みが激しい人付き合いが苦手な人がいる

相手がどんなに「現実のあなたが好きだ」と言っても、現実の自分を憎むことをやめない。

執拗に「自分が考える理想の自分」にこだわる。

人付き合いが苦手な人は独りよがりの「自分の描く理想」、つまり理想の自我像を捨てることができない。

それは理想の自我像実現が彼らの心の支えだからである。

人付き合いが苦手な人は理想の自我像を実現すれば、悩みは解決すると思っている。

愛されている自信がある者は、理想の自我像に執着しない。

また愛する人がいれば、心の支えがあるから、理想の自我像に執着しない。

逆に対人恐怖症など神経症的傾向の強い人は、執拗に、「完全な人間」を演じようとする。

対人恐怖症の人も恥ずかしがり屋の人も同じ。

人付き合いが苦手な人は人を前に「完全な自分」を演じようとする。

そうでないと嫌われると思う。

実際は嫌われない。

人付き合いが苦手な人が完全な人間を演じようとする裏には、「完全な人間でなければ嫌われる」という間違った確信がある。

と同時に、自分自身も完全な人間でなければ気持ちが収まらない。

人付き合いが苦手な人の中には自己蔑視がそこまでひどい人が多い。

現実の自分に、自分が耐えられないのである。

だからまた、他人も現実の自分に耐えられないと感じてしまうのである。

人付き合いが苦手な人は自分がその弱点を嫌いなだけ。

相手がその弱点を嫌いなわけではない。

本当の美意識は、現実の自分を排斥しないこと。

対人恐怖症の人は「自分には見えていないが、相手には見えている自分」があるということを知らない。

対人恐怖症の人は、他人を前にして完全な自分を演じようとしている。

しかし「自分には見えないが、他人には見えていること」がある。

人付き合いが苦手な人はどんなに完全な自分を演じているつもりでも、他人からは、その人の完全でない部分は見える。

無理をして頑張っている人もそうである。

周囲の人からはその人が無理をしていることが見える。

人付き合いが苦手な人のように無理をしている人は、自分をよく見せようと無理をしているが、周囲の人からはその無理が見えている。

それがわかれば、他人を前にして「完全な自分」を演じようとは思わないのではないだろうか。

人付き合いが苦手を克服する「ちょうどいい人間関係」

社会的生活で大切なのは、「相手が自分をどう見ているか」を正しく判断することである

人付き合いが苦手な人は、相手が自分を悪く思っていると思う。

実際に他人はよく思っているのに、自分は悪く思われていると思っている。

恥ずかしがり屋な人、引きこもりの人などは、人を見ていない。

人と接していない。

現実にコミットしていない。

人付き合いが苦手な人は相手が敵意を持っていないのに、敵意を持っていると思う。

相手が攻撃しようとしていないのに、攻撃しようとしていると感じる。

人付き合いが苦手な人はだからおびえる。

おびえる必要がないのにおびえる。

人付き合いが苦手な人は相手が好意を持っているときでさえ、相手が非好意的だと感じる。

すべて現実の世界ではなく、勝手な想像の世界である。

人付き合いが苦手な人は相手が強くないのに、強い人と思ってしまう。

ずるい人は、それを見抜く。

対象無差別に好かれたいと思っている人にとって、もっとも危険な人は、なれなれしい人である。

定年退職した人が、退職金詐欺などで騙されるのは、相手からなめられているのに尊敬されていると思うからである。

人付き合いが苦手な人は人とふれていないから、このようなことが起きる。

人付き合いが苦手を克服するための知恵「ライオンになりきろうとしたネズミ」は辛い

自分はネズミなのに、相手にライオンと見せている人がいる。

人を騙す人は、その相手がネズミと知りながら、相手に「あなたは強いライオンですね」と言う。

ほめる、おだてる。

とにかく相手が求めている言葉を言う。

それが麻薬である。

騙される人は、その心地良さに負ける。

自分には見えていない自分が、質の悪い相手には見えている。

そこでトラブルが起きる。

自分はライオンに見せていても、自分はネズミと知っていれば、相手を観察できる。

自分をわかっていればいい。

トラブルは、自分を見えていない人が起こす。

コミュニケーションがうまくいっていない人のコミュニケーションをうまくいかせるためには、次の二つのことを反省する必要がある。

本当に自分は今、自分が思っている自分なのか?

人は今、自分が思っているように自分のことを思っているのか?

人付き合いが苦手な人は、「相手によい印象を与えられるか、与えられないか」によって自分の価値を決める。

しかしその「相手によい印象を与えられたか、与えられなかったか」は、その自己中心的な彼ら自身が判断する。

自己執着の強い人は相手を見ていないから、現実には、相手にいい印象を与えようとする行為によって相手に嫌われているということがある。

逆に嫌われると思って避けた行為で、相手から好かれていたに違いないということもある。

何が相手に不快感を与えるかを彼らは自己中心的に解釈するので間違う。

人付き合いが苦手な人はとにかく現実の相手にふれていない。

自己蔑視すると、実際の自然な自分は相手に不快感を与えると錯覚する。

泳げる魚が、木に登れるサルよりも価値がないと錯覚するようなものである。

人付き合いが苦手な人はとにかく現実にコミットしないから、想像の世界が恐ろしい。

心の能力とは相手を見ること。

相手を観察すること。

人付き合いが苦手な人は努力するのだけれども、自己中心的な基準に照らし合わせて行われている努力である。

努力が実らない。

人にはいろいろな分け方がある。

外向型と内向型などは有名な分類であろう。

ハーバード大学の脳の研究所の所長をしていたケーガンという人は、抑制型と非抑制型とに分類した。

抑制型の人の最大の問題は、相手を見ていないことである。

相手を誤解している

そこでうまくコミュニケーションできない。

逆に非抑制型の人で、なれなれしい人、ずるい人は、相手を見抜く。

非抑制型の人で心理的に不健康な人は、なれなれしい人であり、ずるい人であり、騙す人であり、搾取タイプのひとである。

相手を道具としてしか見ていない。

人間として見ていない。

抑制型の引きこもりや恥ずかしがり屋の人は相手を見ていない。

そこの違いは大きい。

人付き合いが苦手を克服する基本「無理はしない」

幸福を分析したタタルケビッチの本に「幸福がやってくるときは、本人は何もしなくてもやってくる」という考え方を紹介している箇所がある

これを読めば、多くの人は「とんでもない」と反対するであろう。

人付き合いが苦手ない人がこれほど無理に無理を重ねてどりょくしてもなかなか手に入らない幸福が、「本人は何もしなくてもやってくる」はずなどないと思うに違いない。

しかし、さらにタタルケビッチは、次のように書き続けている。

「幸福を手に入れられるとすれば、極めて単純で簡単な方法でのみ手に入るのだ。

このことは、ずっと昔からわかっていた。

そして『つねに幸福でいるためには、ほとんど犠牲を払わずに幸福でいなければならない』と、十八世紀にエルベシウス(フランスの哲学者)が書いている」。

これはどう解釈したらいいであろうか。

これこそ「無理をしないほうが好かれる」ということなのである。

人々は不幸になるために、苦しい努力を続けていることがある。

「犠牲を払わずに幸福でいなければならない」などとたわけたことを言うな、と思う人も多いだろう。

「こんなに犠牲を払っても幸福になれないのに、犠牲を払わずに幸福でいなければならないなどとは、とんでもないことだ、バカも休み休み言え」と言いたくなる人も多いだろう。

もっとはっきり言えば、「犠牲を払うから幸福になれないのである」。

人付き合いが苦手な人は自分の適性を犠牲にし、自分の自己実現を犠牲にし、無理に無理を重ねているから幸福になれないのである。

「今のありのままの自分では幸福になれない」という、誤った考え方が問題なのではなかろうか。

今のありのままの、弱点だらけの自分でいいのである

今のありのままの、弱点だらけの自分で価値があるのである。

人付き合いが苦手な人は、それがわからないから弱点を隠して、必死になって幸福になるための無益な努力をしているのである。

極端に言えば、生きているだけでいい。

幸福は向こうからやってくる。

人付き合いが苦手な人は弱点のある自分の価値を信じさえすれば、幸福は向こうからやってくる。

人付き合いが苦手を克服するため「ありのまま」でいるためにも、努力が必要?

「ありのままの自分」といったとき、誤解をされないように補足しておきたい。

「あるがままの私を愛して」とはどういうことか

努力していない時、あなたはあるがままに生きていない。

「あるがまま」とは、関係において「あるがまま」ということ。

相手が「あるがままでいいよ」と言っているときに、「あるがまま」でいい。

あなたはお金がない。

でも恋人を、あの素晴らしいレストランに連れて行ってあげたい。

そこで、必死になって三カ月お金を貯めた。

そしてそのレストランに連れて行ってあげた。

恋人とそこで食べたかったから。

そのあなたの気持ちを知って、恋人は、あなたとならラーメン屋でもいいと思う。

その努力がなくて、「ラーメン屋でもいい、お金のないあなたでいい」と言わない恋人に、不満になるあなたは単なるわがまま。

その努力がなくて、
「あるがままの私を愛して」と言うあなたは単にずうずうしくて、嫌な人というだけ。

その努力がなくて、

「あるがままの私を愛して」

と言うから嫌われる。

人付き合いが苦手な人は自分ができることを、口先ではなく、行動に移して精一杯努力して、その上で「あるがまま」のあなたが愛される。

「あるがままの私でいい」は、開き直りの言葉ではない。

努力しないで「あるがまま」ではない。

人付き合いが苦手な人は自分のできることの中で、精一杯行動する。

だから、自分は自分でいいのである。

大切なお客さんが遠方から来た。

「あるがままでいいよ」と言って、もてなさない。

それは「あるがままでいい」ではない。

自分の住んでいるところでできることを精一杯してもてなして、「あるがままでいい」のである。

自分の住んでいるところでできることを精一杯しないで「あるがままでいいよ」と言って、もてなさないから、次にはきてもらえないのである。

無理しないほど幸せをつかめる

「笑う門には福来る」という言葉がある

福がくるから笑うのではない。

笑っているから福が来るのである。

しかめっ面をしている人は、福がきたら笑えると思っている。

だから辛いだけで人生が終わるのである。

犠牲を払って、辛くて笑っていない人のとことは、福がよけていく。

「ある人いわば幸福になる才能を持っていて、幸福になるようにあらかじめ決まっており、どんな原則にも関係なく幸福になる。

さもなければ、そのような才能を持ち合わせておらず、その場合、たくさんの原則をもってしても、その人を幸福にすることはできない」

幸福になれる人となれない人があらかじめ決まっているなどと、恐ろしい事があるのだろうか。

それはあるといえば確かにある。

幸福になる才能とは、「弱点だらけの自分で価値がある」と思うことである

弱点だらけの自分で価値がないから努力するのではない。

人付き合いが苦手を克服したい人は弱点だらけの自分で価値があるから「こそ」努力するのである。

そして、人付き合いが苦手な人とそうでない人とでは、努力の動機がまったく違う。

「幸せを呼ぶ努力」と「不幸を呼ぶ努力」の違いである。

人付き合いが苦手な人は相手に優越しようと、自己実現を忘れて無理をしている人がいる。

相手に優越することに、自分の価値がかかっているかのごとくである。

そして、人付き合いが苦手な人は、なんとしても、自分の優越を相手に認めさせようと必死になっている。

しかしそのような人は、皆から反発されて受け入れられない。

人付き合いが苦手な人の中には、必死になって弱点を隠し、理想の自我像を人前で実現しようと無理に無理を重ねている人がいる。

そのような人は、はたから見ていても痛々しい。

人付き合いが苦手を克服する為にはこんな努力はすぐやめる

要するに、これらの努力は皆、不幸になるための努力なのである

それならかえって何もしないほうが皆から好感を持たれる。

だからこそ「幸福がやってくるときは、本人は何もしなくてもやってくる」のである。

無理をしていないのだから。

幸福についての「一方の説によれば、幸福を手に入れるのは困難で大変なことだ。
もう一方の説によれば、幸福を手に入れるのは簡単だ」とタタルケビッチは書いている。

それは次のようになる。

人付き合いが苦手で無理をしている人から見ると「幸福を手に入れるのは困難で大変なことだ」し、無理をしていない人から見ると「幸福を手に入れるのは簡単だ」ということになる

それが素直さというものであろう。

逆に言えば、素直でなければ何をしても幸福にはなれない

人付き合いが苦手を克服するための大きなポイントは素直になることである。

「幸福を目指して奮闘努力するのは意味がない、とイギリスの作家エリザベス・ボーエンはいう。

幸福はひとりでに生じるか、もしくは全く生じないかのどちらかだ」。

人付き合いが苦手な人のように、したくない努力をしながらも「幸福になれない」などというのはなんと辛いことだろう。

しかし、確かにしたくない努力をしながらも、不幸な人はたくさんいる。

もっと言えば、人付き合いが苦手な人はしたくない努力をしながら、自分の魅力をなくしているのである。

他方では気楽に生きながら幸せそうな人がいる。

人付き合いが苦手で苦しんでいる人とそうでない人、この違いはどこからくるか。

自己実現の努力をしている人と、理想の自我像実現に向けて努力している人との違いである

「幸福を目指して奮闘努力するのは意味がないという言葉が当てはまるのは、人付き合いが苦手で理想の自我像実現に向けて努力している人である。

そういう人付き合いが苦手な人はボロを隠そうとするから、生きるのが辛い。

人付き合いが苦手のような無理を重ねている人は弱い。

「幸福を手に入れるのは簡単だ」というのは、自己実現の努力をしている人である。

ボロをボロと見ないから、生きるのが楽しい。

ボロをボロと見ないのは、理想の自我像と「現実の自分」を比較していないから。

無理のない人は強い。

人付き合いが苦手を克服するヒント「嫌いな人」は自分を映す鏡

ある人は若い頃、「幸福を手に入れるのは困難で大変なことだ」と思っていた

いや、「自分なんか幸福にはなれない」と何度も思った。

理想とは程遠く、人付き合いが苦手で、弱点だらけの自分が許せなかった。

しかし、そうではないとも思えるようになった時期があった。

それは、「人に弱点を隠して生きる」という無理をやめた時期である。

人前で理想の自分を演じる無理をやめた時期である。

それまでその人は、無理に無理を重ねて、自分を周囲の人に認めさせようとしていた。

自分に自信がないから、力を誇示し、能力を誇り、優越を求めた。

しかし周囲の人は認めてくれなかった。

しかしあるとき、「ふと」、次のように感じた。

「こんな私を周囲の人が認めたくないのはあたりまえだな」

それほど優れてもいないのに、優越しようと必死になって力を誇示している男を認めることなどあるはずがない。

そう思えたのである。

それまで、「こんなに力のある自分を認めない周囲の人がおかしい」と思っていた。
しかし「こんな私を周囲の人が認めたくないのはあたりまえだな」と思い直して以来、逆に「自分を認めろ」と要求する自分のほうがおかしく思え始めた。

その時期、もう一つ愕然とする事件が起こった。

その人は、ある男をもの凄く嫌いだった。「あいつとだけは付き合いたくない」と思っていた。

それは優越を誇示し、騒がしい男であった。

力の誇示をするから、はたの人にとってはうるさい男なのである。

「イヤな男だなー」と思っていた。

ところがあるとき、「ふと」、その男と自分が似ていると直感したのである。

じぶんがもっとも嫌いな男と自分がよく似ている

これはその人にとって大変ショックだった。

自分に自信がなく、落ち着きのない不幸な男、それがその男に対する印象であった。

そのショックによって、「こんなに力のある私をどうして認めないのだ」という、周囲の人に対する怒りの気持ちは消えていた。

そしてまた、そう考え出すと、無理をする気もなくなってしまった。

無理をするのがバカらしくなった。

またそれと同時に周囲の人に認めて欲しいという願望も消えてきた。

すると不思議なことに、次第に周囲の人でその人を認めてくれる人が出てきた。

前に比べると弱点を出しているのに、案外受け入れてくれるのである。

弱点をかくしているときには人々は認めてくれなかったのに、弱点のあるその人に好意を持ってくれる人も出てきた。

「幸福貯金」を始めよう

自分の周囲の人の態度に不満な人は、一度、「自分は幸福になる才能がないのではないか」と反省してみることである

人付き合いが苦手な人は、幸福になる才能は、他人の気持ちを考えれば誰でも持てるものである。

「幸福になる才能に恵まれていない人」とは、今述べたように他人の気持ちを考えることのできない人である。

自己執着が強くて、共同体感情のない人である。

さらにもう一つ重大な特徴がある。

それは欲張りである。

幸福になれない人を見ていると、皆、欲張りである

人付き合いが苦手など悩んでいる人は皆、自己中心的で欲張りである。

幸せな人はわずかなもので満足している。

幸せになれる人は、怪我をしたときに、かすり傷ですんだ、崖から落ちないで良かった。

そう思う。

人付き合いが苦手な人は、小競合いで済んだ。良かったと思うことである。

かすり傷を問題にする人と、崖から落ちないですんだということを問題にする人の違い。

それが幸せになれる人、慣れない人の違いである。

一日一円なら貯金ができるのではないか。

一円なら道路にも落ちている。

十八歳のときからはじめて、喜寿の七十七歳までしたとする。

すると二万円を超える。

多分、有名ホテルで食事ができる。

これを聞いて、

「毎日貯めてこれだけじゃー、貯めるのなんてイヤだ」

そう思う人は幸せになれない人。なぜならその人は欲張りだから。

人付き合いが苦手な人もこうした、コツコツとした努力ができない人。

これを聞いて、「え?そんなになるの?」

そう思う人は幸せになれる人。

欲張りな人は、どんなにたくさん持っていても幸せになれない。

人付き合いが苦手なに人には憎しみがあるからである。

理想の自我像を実現できない自分に対する憎しみ、自分を認めない他人に対する憎しみがあるから。

「笑顔以外は皆、不機嫌」!?

人付き合いが苦手な人はいつも、周囲の世界の敵意に怯えているのである。

「不自然か不自然でないか」は問題ではなかった。

ある者が自分をおびやかすかおびやかさないかは、対象の問題ばかりではなく自分の心の問題でもある。

人付き合いが苦手な人はある人に怯えている。

あるいはある人のある姿に自分がおびえている。

その人付き合いが苦手な人はある人を怖いと感じる。

しかしそれは、人付き合いが苦手な人の心が恐怖に満ちているから怖いと感じているだけという事も多い。

事実として対象が危険なものだからではない

アメリカの心理学者、ゴードン・オルポートの『偏見の心理』に、次のような実験が報告されている。

一群の児童に、未知の男の写真を見せ、一枚一枚「どれくらい親しみを持てるか」「どれくらい好きか」を聞いていく。

その後で、暗い部屋で身の毛もよだつような”殺し屋ごっこ”をさせる。

その、ゾッとするような経験の後で、児童に再び同じ写真を見せる。

すると今度は、未知の男を脅威に感じるという。

つまり児童の心が恐怖に満ちているときには、同じ男を脅威に感じるのである。

したがって、根源的な欲求が満たされていない人付き合いの苦手な人は、相手のささいな言動にも脅威を感じて過敏に反応してしまう。

こう考えればすべての悩みが軽くなる

「他人にとって自分がどのように映っているか」ということは、自分の問題であるばかりではなく、他人の心の問題でもある

したがって「他人が自分のことをどのように思っているか」と人付き合いが苦手で悩む人は、いかに思い違いで悩んでいるかがわかるであろう。

人付き合いが苦手な人が立派に振舞ったからといって、他人に立派に映るわけではない。

それを証明するのが「投影」という心理である。

自分の中にある認め難い感情を、他人の中に見出すというものである。

つまり人付き合いの苦手な人がどのような人間であるかは関係ない。そういうことではなく、「相手がこちらに何を投影するか」によってこちらの姿が決まる。

「他人が自分をどう見るかということを、コントロールすることはできない」

この一点を理解するだけで、人付き合いが苦手な人がどれだけ多くの悩みから解放されるかわからない。

ものが黄色に見える眼鏡をかけた人がいるとする。

その場合、あるものが黄色かどうかは問題ではない。

何を見るかに関係なく、その眼鏡を通せば、見るものは黄色になる。

人付き合いが苦手な人のように自分がどういう人間であるかではなく、相手の眼鏡によって自分がどういう人間と映るかである。

それで自分が決まるのである。

※参考文献:無理しない練習 「自分らしく」生きたほうが好かれる 加藤諦三著