人付き合いが面倒から気が楽になる心理

「世の中に、外づらがよくて内づらがわるい人がたくさんいる」。

「主人はいったんぶつぶつ文句を言い出すと、夜中の二時、三時まで延々といいつづけるんですよ」と奥さんが悩んでいる。

そんな奥さんに「ご主人は会社ではどうですか?」ときくと、必ずといっていいほど次のような答えがかえってくる。

「それが模範社員らしいんですよ。それで誰に相談しても、私がわがままだ、ということになっちゃうんです」

要するに「会社では別人」。

人付き合いが面倒な人は責任感が強い。

ご主人が家に帰って来て、奥さんの出迎え方がわるいといって不機嫌になり、玄関のスリッパの並べ方がわるい、とスリッパを投げる。

おはしの並べ方がわるいというのもある。

ご主人が冷蔵庫の前にいて、ある食べ物や飲み物のことをいう。

そこで、ちょっと「冷蔵庫の中にあるから、出してくださらない」というと、それでとたんに不機嫌になる。

これらはすべて不機嫌の口実で、夫はこのことで不機嫌になっているのではない。

もともと不機嫌な夫が帰ってきただけである。

「冷蔵庫の中にあるから、だしてくださらない」という言葉は、別に相手に対する蔑視ではないが、神経症的傾向の強い夫にしてみれば、屈辱に感じられたのである。

隣の家のことをちょっとほめたとたんに不機嫌になって夜中までネチネチと文句を言い続ける。

返事の仕方一つで不機嫌になって、夜中までぶつぶつネチネチ文句をいわれたのでは、いわれるほうも消耗する。

いったん不機嫌になると、なかなか直らない。

そこで妻が「とにかくどうでもいいからあなたの好きなようにしてください」という。

すると「その言い方は何だ」ということになる。

もちろん妻の言い方が原因ではない。

もともと妻との人間関係が夫にとって不確かなのである。

不愉快なのである。

さらに本質的には夫の自我の確認が不確かなのである。

もっと正確にいえば、妻との関係が不愉快なのではなく、身近な人と親しい関係を持てない人なのである。

つまり現在の妻と離婚しても次の妻とまた同じことが起きる。

「好きなようにしてください」といわれても、当の本人自身が自分で自分をもてあましていて、自分にも自分がどうしたいのだかはっきりしないのである。

自分で自分をもてあましているのだから、言いがかりをつけて責めつづけるより仕方ない。

このような夫は会社ばかりでなく、外づらは驚くほどよい。

地域社会の人にも愛想がいいし、親戚にもいい顔をする。

そこで皆が「あんないいご主人」ということになる。

内づらがわるくて外づらがよいというのは神経症の一つの症状である。

アメリカの著名な精神科医である、精神医学者であるジョージ・ウェインバーグは「神経症と心理的健康の基準は社会とは無関係なのです」という。

人付き合いが面倒な人はパーソナリティーに矛盾を含んでいる。

そして人付き合いが面倒な人はその矛盾に苦しんでいる。

人付き合いが面倒な内づらがわるくて外づらがよい人は、心の中で苦しみ悩んでいる。

人付き合いが面倒な人は内にあっては要求がましく、自分の感情を押し付けてくる人が、外にあっては他人によく思われようとペコペコしている。

ある場所では気がひけて、気がひけてどうしようもない人が、他の場所では一切の相手の感情を無視する暴君に変わる。

会社や隣近所の人によく思われようとしているくせに、妻に対してはまったく逆の態度にでる。

人付き合いが面倒な人は外の人に対しては身を低くして、その人の意に迎合していくくせに、自分の妻に対しては、これでもかこれでもかと傷つけることをいう。

他の女性に対してはよく思われようとするから卑屈にさえなるのに、妻に対しては傲慢になる。

「夫はすぐに怒るから話ができない」という妻がいる。

夫は妻に神経症的要求を持つ。

しかし外づらはよい。

「超という言葉がつくほど外づらがよい夫は、妻や子どもに対しては異常敏感性とともに「待てない、焦る」という性格を否定的性格としてあげている。

要するに「内づらがわるくて外づらがよい人」は生きるのに適していない性格である。

このように外づらがよくて内づらがわるい人は、これからも確実に増え続けるであろう。

こういう人付き合いが面倒な人は心の居場所がない。

人付き合いが面倒な人は内にも外にも、ここが安心という場所がない。

内づらがわるくて外づらがよい人には「私はここさえあればよい」という場所がない。

内づらがわるくて外づらがよい人は、数として夫のほうが多いというだけで、夫と妻とを入れ替えても心理的特徴としては同じことである。

内づらがわるくて外づらがよい関係というのは、何も夫婦関係ばかりではない。

親子関係でも同じである。

人付き合いが面倒な人の心のトラブルは人間関係を通してあらわれる。

ある娘はいう。

「私はお父さんに殺される、お父さんは私を殺さなければ外でいきいきと活躍できない人だ」

「父親は大きな赤ん坊で、お母さんの紐みたいな人、紐にしがみついて、絶対離婚しない」

世間では病院の医院長として尊敬されている。

やさしい先生といわれて慕われている。

ライオンズクラブに属し、国際交流の通訳を担当し、留学生のことのボランティア等に走り回っています。

その上、顔つきが上品で知的で柔和、背は高くて180センチくらい。

とにかく見た目は立派に見える。

人付き合いが面倒な人、「ぼんやりとした不安」から逃げ続けて

ある人はエリートビジネスマンだが結婚に二回失敗し、三回目に芸者さんと結婚し、何とかつづいている。

彼はどういうわけか、無意識の領域で自分の相手に負い目を感じてしまうのである。

そこで人付き合いが面倒な彼は徹底的に相手を非難して、腐す。

これでもか、これでもかと相手を腐す。

「おまえなんか俺がもらってやらなければ誰ももらってなんかくれるものか」などということを何回も何回も繰り返していう。

「俺はおまえのような人間と結婚したのでひどく迷惑している」

「おまえは誰にももらってもらえないが、俺はたくさんの女性から結婚を迫られて困った」

このように相手を腐すのは、人付き合いが面倒な彼が無意識で相手に負い目を感じているからなのである。

人付き合いが面倒な人は相手を腐すことによって自分という存在の負い目から逃れようと必死になっている。

人付き合いが面倒な人はおまえはこんなダメな人間なのだから、拾ってやった俺に感謝しろ、というわけである。

しかし対人関係における負い目は、もともと自己存在の本来性を喪失してしまったことに起因している。

人付き合いが面倒な人はやさしくいえば、内づらに自信がない。

人付き合いが面倒な人は心の中に確かなものがない。

人付き合いが面倒な人はだから、いくら相手を腐してみたところで負い目から逃れられるわけではない。

人付き合いが面倒な人はいくら相手を腐してみたところで、それで自我の確認ができるわけではない。

人付き合いが面倒な人はいくら腐してみても、相手は自分以外の人と結婚できるのだ、という無意識の領域での感じ方は残っている。

「自分なんかと結婚して・・・」という相手に対する負い目は、抑圧できても彼の中から消えるものではない。

人付き合いが面倒な人の自分の本来性を喪失したことからでてくる自己評価の低さは、相手をけなしたことで解消するものではない。

人付き合いが面倒な人は自己本来の在り方を取り戻すことによってしか、自己評価の不当な低さはなくならない。

人付き合いが面倒な人は相手をけなし、自分の自慢話をして虚勢を張ってみても、無意識の領域では依然として低い自己評価しか存在しない。

人付き合いが面倒な彼は、妻をこれでもかこれでもかと腐すことで、妻を自分のものにしようとしていたのである。

相手を傷つけ、痛めつけ辱しめることで、妻を自分のものにしようとしていたのである。

そして自分に負い目を感じさせることの少ない芸者さんと結婚した。

芸者さんなら、結婚”してやった”という態度を相手に示せて、自分の負い目から逃れられそうだからである。

彼にとって最もうれしかったのは、「私のような女とあなたのような立派な人とでは不釣り合いです」という芸者さんの言葉であった。

これは彼の負い目を和らげるのに十分である。

人付き合いが面倒な人は相手の不幸ほど、彼を”ほっ”とさせるものはない。

彼は人付き合いにおいて負い目を感じるいわれなど、どこにもないのである。

ところがどうしても感じてしまう。

それは事実として何か負い目があるというのではなく、彼が「本来の自分」の生き方を放棄して生きてきたからである。

内側の人間に対してこれでもかこれでもかと腐しつづける彼は、外側の人間に対しては、これでもかこれでもかとお世辞を連発する。

人付き合いが面倒な人はもうこれ以上迎合できないと思うほど迎合していく。

人付き合いが面倒な人は外に対しての迎合も、やはり負い目から逃れるための行動なのである。

ただ現れ方が逆になっているだけで、動機は同じである。

人付き合いが面倒な人は負い目を感じるいわれがないのに感じてしまうのは、やはり小さいころからの育てられ方によるところが大であろう。

人付き合いが面倒な人は恩着せがましい親に育てられた結果である。

自我の形成がなされていないかぎり、たとえ権威のある職業につき、豪邸に住んだとしても、常に挫折の可能性はある。

人付き合いが面倒な人は内づらがよくなるということが人間の自我形成の一つのメルクマールであろう。

「近い人と親しくなれる」ということが情緒的成熟の表現である。

人付き合いが面倒な人の行き過ぎた外づらのよさは、情緒的成熟の表現ではない。

不安の表現である。

人付き合いが面倒な人は誰にでもよい顔をする必要はない

人付き合いが面倒な人は大人になっても、依存性を残しているかぎり選択は同じようになされる。

人付き合いが面倒な人は身近な人に甘える。

人付き合いが面倒な人は甘えることで傷つきやすくなる。

人付き合いが面倒な人は傷つきやすくなるから常に敵意を抱く。

それは依存的敵意といわれるものである。

人付き合いが面倒な人は身近な人といることは不愉快なのであるが、身近な人に心理的に依存しているから、身近な人を選ぶ。

人付き合いが面倒な人は自分が選びながらも相手に不満を抱くのである。

人付き合いが面倒な人は心理的に健康な人の敵意より始末がわるい。

人付き合いが面倒な人の内づらがわるくて外づらがよい人は、身近な人に敵意を持ちながら身近な人から離れられない。

ある人の父親は行動を見ればきわめて”家庭的”であった。

夏でも冬でも家族旅行にでかけた。

子どもが大学生になっても家族そろって出かけた。

しかし旅行中、父親は不機嫌なことが多かった。

幾度も旅行していながら、父親が心から愉快そうにしていた記憶はまったくない。

いつも不愉快そうであった。

ときどき不安定な愉快さを示したこともあるが、それはふとした家族の言動で、とたんに不快さに変わった。

それなら、父親は家族と旅行などせずに、同僚と行けばよいのである。

しかし、父親は決して同僚とは行かなかった。

おそらく一度もないのではなかろうか。

同僚とは親しくなれなかった。

人付き合いが面倒な人のような内づらがわるくて外づらがよい人は、外の人とは親しくなれない。

人付き合いが面倒な人は外の人に気に入られようと迎合してよい顔をするが、心のふれあいはない。

人付き合いが面倒な人は、「人に依存するか、相手を抑えるか」する。

人付き合いが面倒な人は依存するから依存的敵意になる。

それを直接的に表現できなくなって内づらのわるさとなる。

人付き合いが面倒な人、内づらがわるくて外づらの良い人は、人と協力ができない。

そういう人の友達は、形式的な友達ではあるが、友情はない。

人付き合いが面倒な人は仲間意識のない仲間にはなれる。

人付き合いが面倒な人のような内づらがわるくて外づらがよい人は、外にいてよい顔をしていても、敵地にいるようなものである。

自分を守るためのよい顔であり、相手への愛情からの良い顔ではない。

人付き合いが面倒な人はいつも不安で緊張をしている。

人付き合いが面倒な人はよい顔をしているが落ち着きはない。

人付き合いが面倒な人は誰にでも良い顔をする。

人付き合いが面倒な人はよい顔をする人がころころ変わる。

人付き合いが面倒な人は「この人」に良い顔をするというのがない。

「この人」がいない。

人付き合いが面倒な人はあの人でも、この人でも関係なくよい顔をする。

人付き合いが面倒な人はマズローの言葉を使えば欠乏動機で良い顔をしている。

つまり人付き合いが面倒な人は相手を人として見ていない。

そういう人は人と協力しなければならない場面で、次から次へと人を変える。

人付き合いが面倒な人は仕事を変える。

つまり人付き合いが面倒な人は「私はこの人が好き」がない。

人付き合いが面倒な人は「私はこの人とは合わない」がない。

人付き合いが面倒を改善するには、誰にでもいい顔をすることはないのである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著

 

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