人前で緊張するのを克服するには今までと違った種類の人と付き合う”勇気”が必要

真の友は、意見の大きな対立の方を、小さな不和よりも許し合うという

その通りである。

もともと対立と不和とはまったく異なる。

しかし、世の中には対立と不和とが同じことになってしまう場合もある。

そのような付き合いは人前で緊張する人は息苦しい。

そんな相手といたら、人前で緊張する人はしんどくて逃げ出したくなる。

すると、相手は逃げようとした人前で緊張する人を責めるにちがいない。

このような人は意識して相手を束縛しているのではない。

意識せずに相手を束縛しているから始末がわるい。

親子関係にはこのようなケースがよくある。

親は子どもを愛しているつもりでいる

ところが親が我執の強い人であると、子どものほうは緊張してどうしても息がつまってくる。

我執の強い自己本位な親が愛していると信じていても、子どものほうはからみつかれているような緊張した束縛感しかない。

そのようなケースなら、むしろ意識的に束縛された方が気が楽であろう。

友人関係でも同じである。

我執の強い自己本位な人は、相手のために何かをしてあげているつもりでも、相手は密着されてくるような緊張した束縛感しかもてない。

そこで、息がぬけなくて逃げ出してしまう。

人間関係が稀薄な人前で緊張する人は、どうしたら友人ができるか、という方法論よりも自分の我執を反省することであろう。

この我執は当の本人は気がついていなくても、友人がいないということが、その証拠なのである

ある父親は、息子によく「好きなようにしていいんだぞ」と言っていた。

しかし、息子のほうは、そう言われても、緊張した束縛感しかもっていなかった。

友人に対して魅力を感じていなければ、言葉でどんなことを言っても、相手は緊張した束縛感をもってしまう。

そして、その人から逃げていく。

なぜか押し付けがましい、と言う人もいる。

言葉では「好きなようにしていいんだぞ」と許容しても、相手はやりきれない緊張した束縛感をもつ

逆に相手のあるがままの自然な姿に魅力を感じていれば、言葉で束縛しても、相手は解放されている気持ちをもつものである。

人間関係を形成できるできないということも人前で緊張する人は、その人が相手の自然の魅力を味わい得ているかどうか、ということである。

我執の強い人は、相手にどのような言葉をかけても、相手は拒否されていると感じるものである。

母子なども、どんなに表面的に密着していても、子どもは拒否される不安な緊張を抱えている。

人間関係というのは正直なものである。

人格の寛容な人は、相手にくつろぎを与える

我執の強い人は、どのような言葉や態度をとっても、どこか息をつけない緊張した苦しさを与える。

”杖を挙げて犬を呼ぶ”ということわざがある。

これこそ、まさに我執の強い人の愛情である。

「自分は何のために行動し、生活し、生きているのかという問題について考えてみる。

すると、自分の行動のほとんどは、他人に対する見栄である」

このように他人を意識して行動していても、友人ができるわけではない。

他人に対する見栄ではなく、他人の自然な姿に魅力を感じるようになって、人間関係はできてくるのである。

それまでは、どんなに多くの人に囲まれても孤独感をもつであろう。

人間関係をつくるには、他人の自然の魅力を味わうことである

ところが、他人の魅力を味わい得るためには、自分が自分を嫌いでは無理である。

深い自己嫌悪におちいっている人前で緊張する人は、他人を愛することはできない。

なぜ人前で緊張する人は自己嫌悪におちいるのか。

心の底で自分が自分を嫌っている、それは自分が人前で緊張する自分をあざむき続けたからである。

長い屈辱の歴史が、人前で緊張する人を心の底で自己嫌悪に追いやった。

その人前で緊張する最たるものは過剰適応である。

自分をあざむいて、他人の意にしたがった。

しかもその他人とは、我執の強い人である。

人は寛容な人と接していれば、自分をあざむく必要はない

自分をあざむき続けた人前で緊張する人は、我執の人に取り込まれている。

だとすれば、心の許せる人間関係をつくれない人前で緊張する人は、表面的に付き合っているその人間関係を変え、今まで接したことのない人に接することである。

「他人と接触してみても、その気になっても、心ではどうもうちとけることができず、ただ孤独感でいっぱいになってしまう」

孤独感に苦しんで、人とあえて接するのはよい。

しかし、人前で緊張する人はその接する人を間違えているのである。

孤独だからといって、今までの自分の孤独感の原因である母親と一緒に映画を観にいっても、孤独感はなくならない。

母親こそは、自分の自然な感情が発展するのを阻害した張本人であるからだ。

何もここで具体的な母親だけを言っているのではない。

今まで自分の周囲にいた人達とはちがった種類の人間と付き合うことを、すすめているのである。

相手が大きく見えすぎるのは、自分の錯覚だ。

人前で緊張するのを克服するために大切な原則の一つは、けっして妥協してはならない、ということである

ただ何についても妥協しないということではない。

見きわめなければならないことは、人前で緊張する人はどのようなことについては妥協し、どのようなことについては妥協しないか、ということである。

理想に固執して現実と妥協できないという人前で緊張する人は、むしろ精神的に欠陥がある。

与えられた現実の中で、精一杯やることが強い精神である。

自己主張せよということは、けっして自分の都合を主張せよ、ということではない。

むしろできることなら、相手の都合にあわせるほうがよい。

自分にとって会う時間が十時が都合よいからといって、相手の都合を無視することが自己主張ではない。

相手が十二時が都合よいと言うなら、十二時にゆずれるならば、ゆずったほうがよい。

ただ、この時に大切な条件がある。

相手にゆずるのは、相手の都合を考えて相手にゆずるということである

相手の都合にあわせなければ、相手に嫌われるのではないか、そのように恐れてゆずるのではないということである。

相手への愛情からなら人前で緊張する人はどんな相手にゆずってもよい。

しかし、けっして人前で緊張する人は相手への恐怖から相手にゆずってはならない。

相手に嫌われるのが恐くて人前で緊張する自分が折れてしまうようなことをしていると、何となく打ちひしがれたような、もの悲しい気持ちになってしまう。

知人が自分に何かを頼んできた時、自分の利益を考えて断ることが自己主張ではない。

知人が借金にきたら、無理をしてでも貸してやることのほうがよい。

しかし、人前で緊張する人がどんなことがあっても断るべきなのは、お金を貸さなければ、もう付き合ってもらえないのではないか、というような恐怖感からお金を貸すことである。

相手の依頼を断ったら、人前で緊張する人はもう以後、相手から拒絶されるのではないかという恐怖感からはけっして依頼に応じてはならない。

対人関係を無理して円満に維持しようとしていると、いつの間にか気分が重くなる

人前で緊張する人は争いを避けることで、かえって心がうつろになってくる。

対人関係で人前で緊張する人は自己抑制しすぎると、やがては気が滅入ってくる。

つまり”絶対に妥協してはいけない”ということは、恐怖感について言っているのである。

もし一万円貸してくれと言われたら、自分がその人から嫌われることが恐くないならば、一万円貸せるのなら一万円貸してあげることである。

しかし、もしその人から嫌われるのが恐くて仕方ない、その人から鷹揚な人間だと思ってもらいたい、その人に対していい子でいたい、その人からケチだと思われたくない、そういう恐怖感を抱いているならば、千円でも貸してはならない。

そういう点で、妥協をしてはならない、ということなのである。

妥協していると、いつになっても気分が晴々とはしない

人前で緊張する人はたった千円のことで、何か打ちのめされたような気持ちになってしまう。

ひいては人前で緊張する人は趣味や職業への関心の欠如にもなる。

うなだれて歩きたくなかったら、ノーと言うべき時にノーと言うことである。

しかし困っている相手が自分の信頼している親友なら、自分のすべての財産を投げ出すことも必要である。

なぜなら信頼しあえているということは、お互いの間に恐怖感がないということなのであるから。

私たちはそのような関係から情緒的な満足感を得られるし、友人のために自分が役に立ったという喜びも得られる。

友人を信頼できる人は、人生の目的や生きがいをもちやすい。

人前で緊張する人が一人で勝手につくりあげた”恐怖心”は、こうすれば消える!?

何か頼まれて断りにくい時は、だいたい断わる必要のある時である

断わりにくいという人前で緊張すること自体が、すでにお互いが信頼しあえていないということである。

信頼しあえている友人同士では、はっきりノーということは、けっして難しいことではない。

自分のペースで歩くことは、信頼しあった友人同士の間では可能である。

断わりにくいという緊張する人間関係は共感的人間関係ではなく、共生的人間関係である。

そんなものは、親しそうに見えても欺瞞的一体化である。

ノーと言うのが怖い、それほどまでに相手を巨大化してしまったのは、ほかならぬ人前で緊張する自分自身であるということを忘れてはならない。

相手が悪いのでも、他の誰が悪いのでもない

勝手に人前で緊張する自分が一人で相手を恐怖の対象にしてしまったのである。

恐るるにたりない人間を恐れるのは、人前で緊張する自分が相手に恐怖心をもって対応したからである。

ある人が、人前で緊張する自分にとってそれだけ力のある人間になってしまったのは、自分自身が相手にそれだけの力を与えたのである。

客観的に相手に力があるわけではない。

一人で人前で緊張する自分が勝手に相手に力を与えてしまったのである。

なぜ自分は相手にそれだけの人前で緊張する自分への影響力を与えてしまったのか、それは自分が弱いからである。

自分の弱さが何でもない相手を巨大化してしまっただけの話である

何でもない一人の人間に人前で緊張する人は、自分は自分に対する影響力を勝手に与えてしまった。

そして、人前で緊張する人は勝手に相手の言うなりになっている。

それは人前で緊張する自分の影を恐れて逃げているようなものであろう。

いずれにしろ、人前で緊張する人は一人芝居なのである。

しかし、とにかく人前で緊張する自分はある人間を恐怖するようになった。

その人間から何か言われると人前で緊張する自分は断れなくなった。

その人間から人前で緊張する自分は拒絶されるのを恐れるようになった。

ここではっきりさせなければならないのは、その恐怖心は人前で緊張する自分がある行動様式をとることによって、一人で勝手に作り上げた恐怖心であるから、同じように自分の行動の仕方でその恐怖心は消えるものである、ということである。

何としても相手に対する行動を変えなければならないのである

そこにおいてこそ妥協してはならない、ということである。

簡単なことを頼まれて人前で緊張する人は「ちょっとこれだけのことだから」と言っても、それは断じて引き受けてはならない。

それがどんな小さいことでも、それを引き受けるということは、今までの行動と同じ性質の行動になり、いつまでも恐怖心は心の中に居続けることになろう。

そのような恐怖心がある限り、人前で緊張する人は他人には馴染めない。

他人がよそよそしく見えるし、集団の中では自分が浮き上がって感じられてしまう。

何を見ても聞いても人前で緊張する人は生き生きした感じがないのは、対人関係で自分を抑圧しすぎてきたからである。

そうなると人の言うなりになりながらも、人前で緊張する人はとり残された感じをもってしまう。

人前で緊張するのを克服するには恐怖心からでた行動を”正当化”してはならない

尊敬と恐怖とをとりちがえてはならない

自分が尊敬する人のために何かをすることは、喜びである。

尊敬する人から何かを頼まれて、それをすることは喜び以外の何ものでもない。

しかし人前で緊張する人は恐怖心をもつ人から頼まれたことをするのは、その人に喜びではなく不安をもたらす。

緊張と不安の中であることをするか、集中と喜びの中であることをするか、それは人前で緊張する自分に頼んだ人と自分との関係で決まってくる。

相手の思惑ばかり気にする人は、たえず緊張している。

どんなことがあっても妥協してはならない、ということは大切な原則であるが、同時に、自己中心的な人間には生きている喜びがない、ということも明確な真理である。

この二つは、けっして矛盾するものではない。

生きていることに喜びを感じている人は、妥協していない人である。

妥協していない人は、対人回避をしない

逆に、人に会いたくない人前で緊張する人は妥協しすぎたのである。

妥協し過ぎて虚無的になってしまった人前で緊張する人は多い。

自己中心的な人は、自己中心であるがゆえに心理的には頼りない存在である。

だからこそ人前で緊張する人は、他人に嫌われることを異常に恐れたりするのである。

そして人前で緊張する自らの恐怖心からでた行動をいわゆる道徳によって正当化してしまう。

他人に親切にしなければならない、親孝行は大切なことである、などのさまざまな道徳律によって、恐怖心からでた人前で緊張する自分の行動を正当化してしまう。

相手にノーと言えなかったのは、相手に対する親切心からではない

相手に対する人前で緊張する人の恐怖心からである。

親切な行為が尊いのは、親切心からでたから尊いのであって、恐怖心からでた行為は、たとえ同じ行為でもけっして尊いものではあるまい。

そして、自分が相手に対する愛情からイエスと言ったのか、恐怖心からイエスと言ったのかは、その行為のあとの自分の気持ちでわかる。

相手に対する恐怖心から人前で緊張する人が親切な行為をした時には、そのあとで何となく不満になる。

しかし相手に対する愛情から親切な行為をした時は、たとえ何かの犠牲があっても、満ち足りた気持ちになる。

相手に何かの行為をして、緊張した時、そのあとで何となく不満になった時、その行為を立派な行為であっても、それはしないほうがよい行為だったのである。

人は相手に対する思いやりからでた行動によって成長するが、人前で緊張する人は相手に対する恐怖心からでた行動によって退歩する

相手に気に入られようとして「自滅」する。

相手に対する恐怖心で人前で緊張する人は動いているから”疲れやすい”のである。

人に会うことで人前で緊張する人は頭痛がしてくることもある。

全身の疲労感で人前で緊張する人はぐったりしてくる時もある。

人に会うのがうっとうしいのは、恐怖心から人前で緊張する自分を制御しすぎているのである。

他人のために何かをなせ、という格言は、”両刃の剣”である。

ある時には人を成熟させ、ある時には未熟にとどめる。

常に動機が問題なのである。

恐怖心に動機づけられて人前で緊張する人は行動すると自我の統合性を喪失する。

”オレはオレなんだ”という気持ちがもてなくなる。

自分が自分として立っているという感覚を喪失してしまう。

きっぱりと決まった自分というものを、感じとることができなくなってしまう

人前で緊張する人は他人からの承認を得よう得ようとして無理をし続けると、自分がどこかにいってしまい、自分が自分であるという、何より大切な感覚がもてなくなってしまうのである。

つねにプレッシャーを人前で緊張する人は感じているということであろう。

それも自分で人前で緊張する自分にプレッシャーをかけているということなのである。

プレッシャーを感じている限り、オレはオレなんだ、という感覚はでてこない。

長い間プレッシャーにさらされていれば、人前で緊張する人は逆に何をやるのも億劫になってくる。

ちょっとしたことが面倒くさくなる

人前で緊張する人は他人から承認を得よう、他人との関係を円満にしようと無理な努力をすることで、他人と会いたくなくなる。

会うのが人前で緊張する人は面倒になる。

会わなければならないと思うと人前で緊張する人は気が重くなる。

周囲の思惑を気にしていると、人前で緊張する人は感情が鈍化してしまう。

気力が人前で緊張する人はなくなる。

自分を救うことに遠慮することはない

人前で緊張する人は他人との関係を円満にしようと配慮したところで、他人との関係は円満になるものではない。

むしろ逆に、人前で緊張する人は画一的な人間関係しかできず、自分は自分で抑うつ的気分に支配されることになる。

挙句の果て、人前で緊張する人は孤独に逃げ込むような場合もでてくるかもしれない。

他人との関係を円満にしようとすることで、むしろ人前で緊張する人は自滅する。

他人との関係が円満であることは、自信のある行為の結果である。

他人との関係を円満にすること自体は、目的にはならない。

それを目的とするから、人前で緊張する人は会合への出席が苦痛になったり、来客があると頭重感におそわれるのである。

人前で緊張する人は「イエス」も「ノー」もはっきり言える人になろう

自己をはっきり主張できるかできないか、ということは、その人が自分の人生に責任感をもっているか、もっていないかということである

イエスの時はイエスと言い、ノーの時にはノーと言えるようになるためには、まず人前で緊張してしまう人が、自分の人生は自分で責任をもたねばならないのだ、ということをはっきり自覚しなければならない。

自分の人生に対する責任感のない人は、けっしてポジティブな自己主張ができない。

たとえば、妻子のある人前で緊張してしまう男性が、ある仕事のことで連帯保証人になってくれと言われたとする。

頼んできた人物とは、べつに生涯をともにするほど親しい間柄ではない。

保証する額は、とても自分の経済的能力では負担しきれない。

しかし人前で緊張してしまう彼は「ただハンコを押すだけですから」とか「けっして迷惑はかけませんから」とか頼まれると断りにくい。

そんな時、自分の経済的能力の範囲においてなら、たいていの人はハンコを押す。

しかし自分の経済的能力をこえている額の保証をして、もし本人が返済できなくなれば、自分もまた妻子をかかえて路頭に迷うことになる。

幼児がお腹をすかせてミルクをほしがっても、ミルクを買ってあげるお金はない。

そんな可能性を十分にもっている連帯保証人のハンコを、断りにくいからといって押してしまう人前で緊張してしまう人は、やはり自分の妻子に対して責任感がないと言うべきであろう。

「このハンコを押せば、わが子が食べられなくなるかもしれない」

それを思えば、ノーと言いづらくても、人はノーと言うであろう。

ノーと言いづらいという気持ちより、「この子は自分の責任で食べさせなければならないのだ」という気持ちが勝ったのである。

学生の中では、父親が連帯保証人のハンコを押したために、会社が倒産して勉学を続けることができなくなって退学してゆく人が何人もいる。

しかしこんなケースでなく、まだ子どもが一歳であるとか二歳であるとか、あるいは妻が妊娠中であるとかいうケースだって、世の中には数えきれないであろう。

「この子はオレの責任で食べさせていかなければならないのだ」という強い愛情と責任感があってこそ、人は、ノーと言うべき時にはノーと言い、イエスと言うべき時にはイエスと言えるのである。

これをより基本的に言えば、自分の人生に対する責任感があって、人ははじめて自己主張ができるということである。

自己主張の人前で緊張してしまう人の第一歩は、イエスとノーをはっきりと言えるようになることである。

他人の顔を見ずに賛成の時は賛成の、反対の時は反対の手をあげられるということである。

自分の親にむかっても、賛成の時は賛成と、反対の時は反対と言えることが自己主張の第一歩である。

日本の政界や財界を見ていると、よくもまぁと関心するほど老人が支配している。

一つには老人の方がまだ有能だということが考えられる

しかしもう一つ考えられるのは、若手のほうが、老人に対して面と向かってはっきり退位を求めることができないから、ズルズルとこのような老人支配になってしまうのであろう。

「面とむかっては言いづらい」というような話をよく聞く。

しかし、人前で緊張する人が一人前の人間と言われるためには、腹をすえて、まなじりをけっして、かつての上役に対して面と向かって言いにくい事をはっきりと言えるようにならねばならない。

しかしこのようなことも、企業に対する責任感や、社会に対する責任感があってはじめてできるものだと思う。

自分が世話になった上役や親や恩師に対して人前で緊張する人は、その人達が最も嫌がることを面と向かって言うということは、やはり大変なことである。

老害に社会がおかされてもいいということはない

日常的な小さなノーであろうと、非日常的な大きなノーであろうと、人前で緊張してしまう人はイエスとノーははっきりと言わねば一人前ではない。

人前で緊張してしまう人はそのノーが言えずに、依頼人と会うことを避けて逃げ回ってみたり、電話のベルにビクビクしているようでは、一人前の人物とは言えないであろう。

同僚であろうと上役であろうと、ノーはノー、イエスはイエスと言えなければならない。

真の戦いの場を避けるならば、人前で緊張してしまう人は終始ビクビクしていなければならない。

あるいは不本意ながら、あることをしたりしなかったりするわけであるから、人前で緊張してしまう人は終始欲求不満でいなければならない。

今日の私たちの不満は、私たちをとりまく環境からくるものばかりではなく、主として人間関係からくる

他人の私たちへの行動の仕方によって人前で緊張してしまう人はもたらされるものである。

なかなか一人前の人間になれない人前で緊張してしまう人は、小さい頃から他人との葛藤にパッシブに対応するように教育されていることがある。

あるOLである。

彼女は人前で緊張してしまう自分に与えられている仕事が不満である。

彼女はそれならそれで上役に来客があってコーヒーをいれる時に、わざとまずくいれるというのである。

このようなパッシブな攻撃の仕方というのは、いよいよ人の心の底の不満を大きくし、他人との葛藤を重大なものにしていってしまう

そのようにまずいコーヒーをいれればいれるだけ人前で緊張してしまう彼女は、よけい上役への不満は大きくなる。

葛藤に際してパッシブな攻撃で対応する人前で緊張してしまう人は、葛藤を大きくしているだけである。

パッシブな攻撃を人前で緊張してしまう人はどのように繰り返しても、葛藤はけっして解決しない。

パッシブな攻撃は何ものをも私たちにもたらさない。

それよりも、「私はこういう仕事をやりたい」「私はこういうことをしたい」と上役に頼んでみることであろう。

もしそれが自己中心的な見当違いのものであれば、拒否されるであろう

アメリカのOLなどでも上役にパッシブな攻撃をする人がいる。

上役にタイプを頼まれると人前で緊張してしまう彼女は、わざとまちがえるというのである。

自分に与えられた真の戦いの場を人前で緊張してしまう人は避けてはならない。

自己主張とは、戦いなのである。

しかし、自己主張なくして自信はない。

自己主張が自信を生みだし、自信がまた自己主張をさせる。

※参考文献:『自信』加藤諦三著