人間不信に陥った人が克服する初め

恐怖感と正面から向き合う

人間不信に陥った彼らは小さい頃から自分の感情を表現することよりも、相手に気に入られることが第一であった。

自分の感情を表現して、相手を怒らせたら大変である。

エディプス・コンプレックスやプロメテウス・コンプレックスで味わっている「親に殺されるかもしれないという恐怖感」がすべての人間関係の原点である。

エディプス・コンプレックスやプロメテウス・コンプレックスに現れる親がモデルになって、他者をイメージする。

したがって人間不信に陥った人はわけもなく他者を恐れる。

他人が怖いからほんとうの感情が表面化しては困る。

だから自意識過剰になる。

気軽に人に話しかけられない

気軽に人にものを頼めない。

人間不信に陥った人は気軽に人とお茶を飲めない。

人と一緒にいてはリラックスできない。

人と一緒にいてはなぜか不安な緊張をする。

恥ずかしさの特徴として「人と一緒にいて居心地が悪い」と言われる。

それはこの恐怖感があるからである。

恐怖感がなければ人と一緒にいて楽しい

人間不信に陥った人は恐怖感があるから自分のほうから人に近づけない。

自分のほうから積極的に友達になれない。

したがって、恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人が恥ずかしさを解消するために必要なことは、みずからの恐怖感と正面から向き合うことである。

恐怖感と正面から向き合うということは、どういうことであろうか。

それは単に女性恐怖症の人が女性と向き合うということではない。

なぜ自分は女性と向き合うと怖いのかということを、正面から考える

人間不信に陥った人はいったい自分はほんとうは何を恐れているのかということである。

女性が怖いという人もいるし、もっと一般的に人が怖いという人もいるし、多くの人が集まっている部屋に入るのが怖いという人もいるし、広場の真ん中を歩くのが怖いという人もいるし、風が怖いという人もいるし、馬が怖いという人もいるし、怖いものはいろいろである。

それらは多くの場合、それが怖いのではない。

たとえばニューヨークで活躍している精神科医であり、アメリカの著名な心理学者であるジョージ・ウェインバーグ博士が症例にあげている人のように、ほんとうに怖い者は父親である。

その父親への恐怖を馬に置き換えている。

ほんとうに怖いのは、何か。

それを考えていくことは本当の自分の姿を知ることになるかもしれないし、母親から拒否されている自分を知ることになるかもしれない。

恐怖感があると、どうしてもその恐怖の対象を避ける

このような人間不信に陥った人間は、ずるい人間にとっては扱いやすい人間である。

自分を抑えることで気に入られようとしている人間不信に陥った人は、ずるい人間にとって都合がいい。

したがって自分を抑えることで気に入られようとしている人間不信に陥った人の周囲には、ずるい人間が集まる。

恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人はそうしたつきあい方が身についてしまっている。

そこで心の底には不満が積もりに積もっていく。

毎日毎日、不満が心の底に堆積していく。

本人が気がつかないうちに、その不満は計り知れないほどの量になっている。

それがその人の性格に影響を及ぼさないわけがない。

傍から見ていても何か緊張している。

周りの人にコチコチの感じを与える。

人間不信に陥った人はリラックスしていないのが周囲の人にもわかる

上司に気に入られようと思って自分を抑える

人間不信に陥った人は自分を抑えて上司にとって都合のいい部下になる。

部下に気に入られようとして自分を抑える。

自分を抑えることで部下にとって都合のいい上司になる。

恋人に気に入られようと思って自分を抑える。

どうしたら気に入られるかということに気を遣う。

そうした自意識過剰で消耗する。

無意識に蓄積される憎しみ。

小さい頃、あなたは欲求を無視されて、悔しくて相手を殺したいと思った。

しかしそれは力によって抑え込まれた

そして意識から消えた。

たとえばあなたは小さい頃、何かのことで必死に頑張った。

そして認めてもらえると思ったら、逆に小馬鹿にされた。

皆に笑われた。

そこで悔しかった。

相手を憎んだ。

しかし、どうすることもできなかった。

その「殺したい」ほどの憎しみは、人間不信に陥ったあなたの無意識の領域に残っている。

あなたの意識は記憶していなくても、人間不信に陥ったあなたの無意識は記憶している。

それが大人になって、あるときに、相手が自分の期待に反した行動をした。

あなたの神経を逆撫でするようなことを言った

そのときに人間不信に陥ったあなたの無意識の領域にある挫折した欲求、つまり殺したいほどの悔しさが刺激されて、いま目の前にいる相手に向かって「殺してやる」となって現れた

多くの場合、その相手は人間不信に陥ったあなたが甘えている人である。

あなたが憎しみの感情を表現しやすい人である。

怖ければ憎しみの感情は昔のまま無意識に貯蔵されている。

あなたの無意識の領域にある挫折した欲望を知らない人は、その怒りがその場に不釣り合いだと思う。

「なぜこんな些細なことで、そこまで怒るのだ」と不思議に思う。

あなたがほんとうに「許せない」のは、昔、あなたの努力をからかった人なのである。

昔、あなたをバカにしながら自分の心を癒していた人である。

しかしそれは意識から消えて、無意識に貯蔵された

そしていま目の前にいる人に向かって「許せない」という怒りとなって表現されてきた。

人間不信に陥った人は多くの場合、昔あなたをからかった人をあなたは恐れているけれど、いま目の前にいる人に向かって「許せない」という怒りとなって表現されてきた。

多くの場合、昔あなたをからかった人をあなたは恐れているけれど、いま目の前にいる人を恐れていないし、むしろ甘えている。

そしてどこにもこの挫折した欲望を表現できない人間不信に陥った人は、最後にうつ病になるのではないだろうか。

こう考えると、ジンバルドーが恥ずかしがり屋の人がうつ病になりやすいと言うのもよく理解できる。

うつ病的傾向の強い人が、何をしても楽しめないのも同じことである。

挫折した欲望が無意識の領域にあるかぎり、何をしてもほんとうに楽しいということはない。

無意識の領域に貯蔵されている怒りや無念の気持ちは、いろいろなときに表現されてくる。

恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人はやりたいことができなかった。

あまりにも悔しいことが多かった。

人間不信に陥った人は自分の本性を裏切り続けた

心理的に不安定な人

ものごとが予想どおりにいかなかったとき、パニックになる人間不信に陥った人がいる。

ものごとはいつも予想通りいくものではない。

思いもかけない出来事が生じて、予想していた仕事ができなくなることがある。

そしてその被害は大きい。

そんなとき、心理的にパニックになる。

しかしこういう心理的に不安定な人間不信に陥った人は、もともと心の中が挫折した欲望でパニックになっているのである。

表面上は平静を装っている

意識の上では本人も自分は心理的に安定していると思っている。

ものごとが予想通りいっているときにはさして問題は起きない。

しかし、実はその人間不信に陥った人は無意識の領域ではいつも混乱している。

人間不信に陥った人はその混乱がトラブルに際して表に現れてくる。

そのときには自分でも自分をコントロールできなくなる。

頭では「焦ってもしょうがない」とわかっている。

「こんなことは人生にはよくある」とわかっている

人間不信に陥った人は、焦る気持ちをどうすることもできない。

強迫的名声追求者などが、何かトラブルがあって仕事がはかどらないと心理的にパニックになる。

「どうしてもしなければならないこと」ができなくなるからである。

この「どうしてもしなければならないこと」という感じ方が強迫的ということである。

強迫的ということは、それをしなければ気がすまないということである。

つまりそれをしなければ、無意識の領域の混乱が収まらないということである。

要するに人は挫折した欲望をうまく処理できなければ、心理的に不安定にならざるをえない。

すぐにカーッとなって怒ったり、とたんに落ち込んだりする不安定な性格の人間不信に陥った人は、挫折した欲望を心の底に抱えて生きているのである。

たとえば幼児的願望を満たそうとして満たせなかった。

それが挫折した欲望である。

単に満たせなかったのではなく、満たそうとして満たせなかったのである

挫折した欲望は、つねに屈辱の体験をともなっている。

しようとしてできなかった。

人間不信に陥った人は恨みを晴らそうとして晴らせなかった

そのうち、あきらめが先に立つようになった。

大企業のエリート・ビジネスパーソンがうつ病になったり、エリート官僚が自殺したりするのは、なぜだろうか?

それは彼らは社会的には成功者であったけれども、心理的にはすでに挫折していたからである。

その心理的な挫折を意識できなかった。

心理的に安定するためには、挫折した欲望をなんらかのかたちで意識化して、それを処理することである。

社会的成功だけでは、どんなに成功しても無意識の領域にある挫折した欲望は処理できない。

人間不信の人の「すべきこと」という呪縛からの解放

心の病の説明で「イドと超自我との葛藤」という言葉がよく出てくる

恥ずかしさの説明でもジンバルドーは、「シャイネスは<イドと超自我との葛藤>から生じる症状である」と説明する

問題はこの葛藤の内容である。

さらには超自我の内容である。

超自我で大切なことは、それが恐怖感を含んでいるということである。

うつ病者などはこの「イドと超自我との葛藤」で超自我が勝ってしまう。

それは「恐怖感がイドに勝つ」ということである。

人間不信に陥った人は「したいこと」より「すべきこと」が勝つ。

「すべきこと」が勝つのは恐怖感があるからである。

いつも「すべきこと」をしていると「したいこと」がわからなくなる。

無気力、無関心にならないほうがおかしい。

愛情が基礎になっている規範意識なら、「べき」は暴君にはならない

しかし恐怖感が基礎にある規範意識は「べき」の暴君になる。

ジンバルドーによると、恥ずかしがり屋の人を十年以上調査した結果、25%は思春期以降に内気になっている。

しかし思春期までは親を恐れて、表面では陽気に振舞っていたということがある。

ニューヨークの精神科医ドナルド・カプランは「シャイの起源はナルシシズムと同じように自分自身に夢中になること」と言うが、考えてみれば、殺される危険があるときに、だれだって自分を守ることしか考えない。

部屋のなかで殺人者と向き合えば、恐ろしくてほかのことは考えられない。

「この殺人者はどんな人だろう」と相手を見るゆとりなどない。

恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人は人と会って、相手が自分をどう見るかが気になって、相手のことを考えないという。

人間不信に陥った人は相手が何を着ていたか、相手が何を身につけていたかも覚えていない。

心理的に健康な人にとっては、それは不思議なことであるかもしれない。

覚えていないはずがないと考える。

しかし恥ずかしがり屋の人が「殺されるかもしれないという恐怖感」を持っているということを考えれば、それは当たり前である。

そして恥ずかしがり屋の人はこの恐怖感ゆえに、さまざまな感情や行動を抑える

結果として、人間不信に陥った人は心の底に敵意が蓄積されていくということはすでに述べた通りである。

そしてその敵意が外化されて、他人が自分に敵意があると勘違いする。

そのように他人を勘違いすれば、もともと小さいころから持っている恐怖感が増大する。

こうして恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人は、人と会っても、相手と何を話したか、相手がどのようなカバンを持っていたか、ときには相手の名前さえも忘れてしまう。

人間不信に陥った人はこうした恐怖感のなかでは相手に対して関心を持てるわけがない。

会話が途切れることを恐れて、相手の髪型も名前も覚えていなくて当然である。

要するに自意識過剰な人間不信に陥った人は、情緒的未成熟で自分がない。

周囲の世界に対して興味も関心もない。

したがって自発性も意欲もない。

自意識過剰にならない人は、心理的に健康で自分のある人である

したがって周囲の世界に対して興味も関心もある。

自発性も意欲もある。

しかし、だからといって恥ずかしがり屋で自意識過剰な人間不信に陥った人は、自分に誇りを失うことはない。

恥ずかしがり屋の人間不信に陥った人は、いままで心理的に健康な人よりも頑張って生きてきた。

現実はあるがままに受け入れなければならない。

大切なのはその後である。

「それにもかかわらず、私は価値がある」と自分に誇りを持つことである。

実際、理想の環境に生まれ、理想の環境で育った人で偉大な人というのはいるだろうか。

偉大な人とは、その理想でない環境を乗り越えた人なのである。

恥ずかしがり屋の人は、恥ずかしがり屋にならざるをえない環境に生まれた。

そのことを、「私は神から愛されている」と解釈することである。

誰にでもいい顔をしてしまう人間不信に陥った人

嫌われている人で、幸せな人もいれば、不幸な人もいる

嫌われることを恐れている人間不信に陥った人もいれば、恐れていない人もいる。

ほんとうは「いいえ」と断りたいのに、嫌われるのが怖いから「はい」と言ってしまう人間不信に陥った人もいれば、断りたい時には「いいえ」と言って断る人もいる。

また嫌われているということが心にどう影響するかは、その人によって違う。

大きな影響を被る人間不信に陥った人もいればほとんど影響を受けない人もいる。

つまり嫌われることで、自分はダメな人間と思う人間不信に陥った人もいれば、なんとも感じない人もいる。

嫌われるという事実そのものが恐ろしいわけではない。

問題は嫌われるという事実をどう感じるかということである

人間不信に陥った人がむしろ恐ろしいのは、嫌われるという事実よりも、それを恐ろしいと思う心である。

嫌われるのが怖い人間不信に陥った人はどのような問題を心に抱えているのか?

嫌われるのが怖くない人はどのような心を持っているのか?

嫌われるのが怖い人は「なんでここまで嫌われるのが怖いのか?」という理由をハッキリと理解することである。

本気で自分に「なんでここまで嫌われるのが怖いのか?」と尋ねたときに、そこにさまざまな自分の心の問題を見つけるにちがいない。

たとえば自分のナルシシズム、甘えの欲求、自己蔑視、自己不在、愛情飢餓感の強さ等々に気がつくにちがいない。

要するに、嫌われるのが怖い人間不信に陥った人には、自分を守るための心の砦がない。

そこに気がつき、それを認めないかぎり人間不信に陥った「嫌われたくない症候群」から救われる道はない。

ひと口に言って「嫌われたくない症候群」の人間不信に陥った人は、さびしくて劣等感の深刻な人である。

だれでも好きこのんで嫌われることをしない。

だれでも嫌われたくない

それなのに「嫌われたくない症候群」とあえて言うのは、その嫌われることが怖くて、自分を見失う人間不信に陥った人がいるからである。

人間不信に陥った人は嫌われるのが怖いからどこででも相手に合わせてしまう。

あっちでもこっちでも相手に合わせる。

その場の雰囲気にすぐに合わせる。

その動機は、他人の好意を得るためであり、それを維持するためである。

「嫌われたくない症候群」の人は周囲への極端な同調性から自己喪失に陥る

だれかが「私はラーメン好き」と言うと、「私も好き」と言う人間不信に陥った人である。

そして人間不信に陥った人は食べても食べた満足感はない。

ラーメンを好きではないのだから。

「嫌われたくない症候群」の人間不信に陥った人には、自分がほんとうに食べたいものがない。

よく自殺などの事件が起きると、周囲の人は「朗らかで、明るい、明朗な人」などと言う。

そして「あの明るい人がなぜ?」という例の問いが始まる

その人間不信に陥った人が周囲の人に合わせていたことに周囲の人は気がついていない。

合わせるのは周囲の世界が脅威に満ちているからである。

また、「あの人は陽気だか陰気だかわからない」などと言われる人間不信に陥った人もいる。

陽気は相手に好かれるためのもの、陰気は本来の自分、そこで自分がバラバラになる。

人生が確実に行き詰まる生き方が一つある。

それは、みんなに嫌われないようにすることである。

みんなに嫌われないようにするには、つねにみんなの気持ちを害さないように気をつけなければならない。

これを言ったら相手は気分を害すると思えば、そのことは言わない。

これを知りたいが、これを聞いたら、この人は怒るのではないかと思えばこれは質問しない。

しかし言いたいことはそのまま心の中に残るし、聞きたいことはそのまま心の中に残る。

人間不信に陥った人は日々不満は積もるばかりである

不満が積もれば当然、敵意も出てくる

人間不信に陥った人はその敵意も吐き出せない。

ケンカができないのだから。

「敵意が抑圧されると、しばしば敵対的衝動の他人への投射がそれに伴う」

つまり周囲の人が自分に敵意を持っていると錯覚しはじめる。

それはさまざまな誤解を生む。

相手が好意を持ってしてくれることのなかにさえ、いちいち敵意を感じるかもしれない。

その人とは話したくなくなるのは当たり前である。

人を誤解すればコミュニケーションはできない

長い時間をかけて話していれば、お互いにわかるというものではない。

人間不信に陥った人はコミュニケーションができないで、誤解をする人はますます孤立することは避けられない。

しかし本人にしてみれば「自分は、相手のためにこれだけ我慢をした」という気持ちになる。

言いたいことも言わず、聞きたいことも聞かずに、相手の気持ちをおもんぱかって我慢に我慢を重ねて過ごしてきたと人間不信に陥った当人は思う。

それなのにすべてがうまくいかない。

「物事は予想した通りにはいかない」

相手は期待したように動いてくれない

人間不信に陥った人は褒めてくれると思ったら、貶された。

認めてくれると思ったら、冷たくあしらわれた。

遠慮をしたらやさしくしてくれると思って遠慮したら、無視された。

遠慮したら謙遜な人と言ってくれることを期待したら、軽くあしらわれた。

嫌われるのが怖いからストレートにものを言えない。

仕事は思うようにはかどらない

人間不信に陥った人は家庭も仕事もうまくいかなくなる。

頑張っているのに何もかもがうまくいかなければ、気持ちは腐ってくる。

そうなれば近い人々にはますます敵意を持つしかなくなる。

敵意を持っても、まだ言いたいことが言えない。

聞きたいことが聞けない。

人間不信に陥った人はそれは嫌われるのが怖いから

心身ともに消耗してくる

人間不信に陥った人は欲求不満で無気力になる。

嫌われるのが怖いと、トラブルは起きやすい。

そして相手を恐れていると、いったんトラブルが起きれば、トラブルはいよいよ深刻になっていく。

みんなに嫌われないためにいい顔をするから、物事は解決しないで複雑になっていく。

「嫌われたくない症候群」の人間不信に陥った人は、我慢しているのだけれども、物事がうまくいかない。

「嫌われたくない症候群」に陥った人は、自分と周囲との間に厳しい対立をつくらない。

しかし周囲の人と気持ちがふれていない。

だから嫌われることを恐れている人間不信に陥った人よりも、嫌われている人のほうが、よほど真実があるときがある。

人間、だれでも嫌われる。

しかし「アイツは信用できる」というところで、危機を乗り切れる。

こんなに地上にたくさん人がいるのに、なんで同じ人間のしがらみのなかで苦しむのだ

嫌われるのは怖い。

でも、みんなに好かれても、生きやすくはならない。

みんなに好かれたからといって幸せになれるわけではない。

「嫌われたくない症候群」の人間不信に陥った人は、それがわからない。

嫌われるのが怖い人には親しい人がいないのに、嫌われるのが怖くない人には親しい人がいる。

嫌われることを恐れている人間不信に陥った人よりも、嫌われることを恐れていない人のほうが周囲の人から好かれていることが多いし、信頼されていることが多い。

人間不信に陥った人はそのことに、まず気づいてほしい。

※参考文献:だれにでも「いい顔」をしてしまう人 加藤諦三著
※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著