人間関係がうまくいかない人がうまくなる心理

人間関係がうまくいかないある他人に対して厚かましく要求がましい人が、それ以外の人に対しては自責の人となってあらわれることがあることを忘れてはなるまい。

世間の人は「自責の人」を見て「人のよい人」と思うかもしれない。

しかしその人間関係がうまくいかない人こそ、実は身近な人に対しては相手の世界を決して許さない人なのである。

人間関係がうまくいかない人は要求がましくて厚かましくて、その上押し付けがましいい人が、他の場所では、他人によく思われようとビクビクしていることがある。

人間関係がうまくいかない人はある場所では気が引けて、気が引けてどうしようもない人が、他の場所では一切の相手の感情や考えを許さない暴君に変わってしまう。

人間関係がうまくいかない人は一方で他人の思惑や期待に脅えている人が、他方で押し付けがましく厚かましいということは、よく考えれば当たり前のことなのである。

なぜなら人間関係がうまくいかない人は自我の未形成、自他の関係が未分化であるからである。

人間関係がうまくいかない人は幼児のように自他の関係が未分化なのである。

ただ、人間関係がうまくいかない人は幼児と違って肉体的に大人になってしまったから始末がわるくなっているだけである。

人間関係がうまくいかない人は自他の世界が、心理的に健康な大人のようには分化していない段階で、人によく思われたいと願った場合、どうなるか。

人間関係がうまくいかない人は人によく思われたいという心性が、外の世界では迎合となってあらわれ、内の世界では幼児性となってあらわれることになる。

人間関係がうまくいかない人のように自他の関係が未分化であるということは、相手が自分と一体であるということである。

だから自分がこうしたいと思ったら、相手は何が何でも同じように望まなければならない。

相手は自分が望むことはどんなことでも喜ばなければならない。

人間関係がうまくいかない人は他人が自分を嫌うということは許さない。

しかしこれも小さな子どもを見ればわかるであろう。

母親に対して「ああしろ、こうしろ」といい、ちょっとでも母親が自分のわがままどおりに動いてくれなければ母親をぶつくせに、家の外の人に対しては、その思惑や期待でコチコチに緊張する。

さて、この心性のまま大人になったらどうなるだろう。

人間関係がうまくいかない人は一方でよく思われたいと世間体をとりつくろいながら、他方で内の世界の相手の感情を100%無視して行動する。

それは、相手がたとえ自分を嫌いであってもそのことを無視できるし、人間関係がうまくいかない人はそんな感情を許さないで強引に相手に触れるということである。

人によく思われたいとビクビクしているくせに、妻に対してはまったく逆の態度にでる人間関係がうまくいかない夫がいる。

外では身を低くして他人の意に迎合している人間関係がうまくいかない夫は自分の妻には平気で暴力をふるう。

人間関係がうまくいかない夫は他の女性に対してはよく思われようとして卑屈にさえなるのに、妻に対しては嫌われようが何をしようが平気である。

人間関係がうまくいかない夫は平手打ちをしてでもいうことを聞かせる。

平手打ちできない人間関係がうまくいかない夫は不機嫌に黙り込んで自閉的な世界に引きこもる。

なんと多くの人間関係がうまくいかない人が、外づらのよさに惑わされてその人の本性を見損なっていることだろうか。

親子関係にも夫婦関係にも悲劇の人はいる。

世間の人がまったく逆に考えているケースのなんと多いことだろう。

人間関係がうまくいかない人が陥りやすい「親切の押し売り」と「一体化願望」

「汝の欲せざること日に施すことなかれ」という言葉や、「自分のごとく他人を愛せ」などという言葉は、やはりある程度の情緒の成熟を前提にしてはじめていえることではないだろうか。

つきあいの前提は「他人が望んでいないことはしてはならない」ということだ。

それがどんなに自分の側から考えて愛情に満ちた行動であっても、その対象となる人がしてほしくないということは、やはりしないほうが正しいのではないだろうか。

相手が会いたくない、してほしくないというときは、自分がどんなに会うこと、してあげることが愛情だと思ったとしても、会ってはならないし、してあげてはならないのではないだろうか。

愛情の押し売り、親切の押し売り、思いやりの押し売り、それは人間関係がうまくいかない一体化願望を持つ人がよくやることである。

二十歳を過ぎたら、相手の意志を無視してはならないということが、つきあう上での大原則である。

もちろん、こうしてあげたいということをしてあげたほうがその人のためになるのかもしれないし、実際そんな場合もあろう。

しかし相手がそれを望まず、そのために結果としてわるくなったとしても、それはまさしくその人の責任なのである。

結果のよしあしは当の本人が責任を負うべきで、他人がとやかくいうべきことではない。

人間関係がうまくいかない愛情の押し売りをする押し付けがましい人は、心の底のどこかに攻撃性を隠している。

人間関係がうまくいかない一方で他人への一体化願望を持ち、見捨てられることを恐れながら、他方で攻撃性を抑圧する。

したがって、人間関係がうまくいかない相手が押し売りの愛情を拒むと、ものすごい勢いで怒りだしたりすることがある。

冷たい人間が、自分は冷たい人間だと思っているときは別に人間関係に差しさわりはない。

問題は、冷たい人間が自分は心の温かい人間だと思っているときである。

実際のその人と、その人の持っている自我像とが一致しているときはいいが、実際のその人と、その人の持っている自我像とが反対のときは人間関係がうまくいかない人は対処に困る。

人間関係がうまくいかない押し付けがましい人は、「自分は愛情の人」という自我像を持っている。

しかし本当は人間関係がうまくいかない一体化願望と攻撃性の二つを抑圧している人なのである。

「山あらしのジレンマ」ということがよくいわれる。

そのような名前の本もある。

寒い朝、山あらしのカップルがお互いを温めあおうと近づいたが、自分の棘で相手を傷つけてしまう。

そこで山あらしは近づいたり離れたりを繰り返して適当な距離を見つける、というのである。

人間関係がうまくいかない近いものほどエゴイズムでお互いに相手を傷つける。

この人間関係がうまくいかない山あらしのジレンマは、やはり情緒未成熟者のみにあてはまる。

人間関係がうまくいかない人は押し付けがましい人、要求がましい人、外づらがよくて内づらがわるい人たちである。

人間関係がうまくいかない内づらのわるい人は、たしかに近くなればなるほどその人を傷つける。

人間関係がうまくいかない人はそのくせ激しく傷つけてしまう人ほど、いざ別れることになれば逆に別れられない人である。

なぜなら、人間関係がうまくいかない人は自分にとって近い人を激しく傷つけるというような人は、その近い人に対して心理的依存が強いからである。

人間関係がうまくいかない人と甘やかされすぎた人、甘えられなかった人

人間関係がうまくいかない過剰な責任感と責任転嫁はともに自我防衛である。

自分の責任ではないことにまで責任を感じて悩む人間関係がうまくいかない人はがいる。

あるいはそのことで自分を責める人間関係がうまくいかない人はがいる。

人間関係がうまくいかない人の過剰な責任感というのはどこか自己卑下に似ている。

人間関係がうまくいかない人は先手を打って自分で自分を軽蔑してしまえば、他人がさらに自分を軽蔑したり攻撃してきたりすることはない。

つまり人間関係がうまくいかない人の自己卑下は他人の攻撃を避けるためのものである。

同じように人間関係がうまくいかない過剰な責任感の持ち主も、いかにも自分の責任であるかのごとくふるまいながら、実は他人からの責任追及を避けようとしているのである。

人間関係がうまくいかない過剰な責任感の持ち主は責任をとろうとしているのではなく、責任をとらずに、しかも他人からの責任追及をかわそうというずるい人間である。

人間関係がうまくいかない人は「申し訳ない、どうしよう、こんなことをしてしまって、まったく私の不手際で皆さんにご迷惑をかけて、どうお詫びしてよいやら・・・」とくどくどとつづくが、現実にどのように自分が責任をとるかということについては一言も触れない。

会社で失敗してくどくどいってる人間関係がうまくいかない人は責任を逃れようとしているのである。

人間関係がうまくいかない人は「自分は失敗した。自分の能力ではこのポストは無理だ。このポストは降りよう」とは決していわない。

人間関係がうまくいかない人は失敗しながらも、なおそのポストに居座ろうとするから、責任感を過剰に誇示しなければならないのである。

人間関係がうまくいかない人は過剰な責任感を誇示することで、今まで持っていた他人からの好意をそのまま保持しようとしているのである。

人間関係がうまくいかない人は要するに責任感を誇示することで許しを求めているのである。

ひと言でいえば人間関係がうまくいかない人は周囲に甘えているにすぎない。

人間関係がうまくいかない人は実際に仕事上の失敗があって、これに対し責任をどうとるかという場合でなく、単に仕事をしているときでも、いかにも責任感の強そうな”ふり”をする人がいる。

これなども人間関係がうまくいかない人は他人からの尊敬を求めているものであろう。

いいかえれば人間関係がうまくいかない人は他人からの軽蔑を避けようとしているのであろう。

責任転嫁というのも同じことである。

人間関係がうまくいかない人の責任転嫁は過剰な責任感のように、他人からの攻撃を避けるために手の込んだ真似などしない。

単に、人間関係がうまくいかない人は自分には責任がない、わるいのは自分ではなくあいつだと主張しているにすぎない。

人間関係がうまくいかない人は自分を攻撃するな、攻撃を向けるべきはあいつだと単純にいっているにすぎない。

人間関係がうまくいかない人はもっとも単純に他人の攻撃から自分を守ろうとしているのである。

俺が勉強できないのは先生の教え方がわるいからだ、仕事がうまくできないのは上司が無能だからだ、子育てがうまくできないのは姑のせいだ・・・。

もちろん中にはこれらが事実であって責任転嫁でないときもあるだろうが。

甘やかされて育った人間関係がうまくいかない人はどうしても責任転嫁をしやすい。

何かわるいことがあると、人間関係がうまくいかない人は「おばあちゃんが全部他人のせいにしてくれた」などというケースである。

ただ人間関係がうまくいかない責任転嫁については、現実と人々の認識のあいだにあまりズレがないから問題は少ない。

つまり人間関係がうまくいかない責任転嫁ばかりしている人を見れば、まわりは困ったものだと感じ、それではいかんと忠告する人もいる。

しかし人間関係がうまくいかない過剰な責任感を示す人の場合にはそう単純ではない。

人間関係がうまくいかない人は忠告する人もいない。

人間関係がうまくいかない人は責任逃れの手段が責任感の誇示であると見抜けない人もいる。

甘やかされすぎてスポイルされたのが責任転嫁の人である。

それに対して、小さい頃甘えることができないで、甘えの欲求を残したまま大人になってしまったのが過剰な責任感の持ち主、人間関係がうまくいかない人である。

考えてみれば、過剰な責任感というのも言葉としてはおかしい。

なぜならその人間関係がうまくいかない人には、もともと責任感なんてないのだから。

人間関係がうまくいかない人は何かを避けようとするから”過剰”になってしまうのである。

人間関係がうまくいかない過剰な責任感の持ち主は、甘やかされてスポイルされた人とはまったく逆に、小さいころからとうてい背負いきれない責任をとらされて成長してきた人なのである。

人間関係がうまくいかない人はもともと負えない責任を追及される中で、それを避けるずるさを身につけてしまったのである。

たとえば親が責任転嫁の人であったとしよう。

何か家の中でおもしろくないことが起こったとする。

その責任は実は親にある。

しかし親は甘やかされて育ってスポイルされている。

まともに自分の責任をとれない。

そこでそのおもしろくない事件の責任を子どもに押し付ける。

こんなことが繰り返されれば、子どもは自分の責任でないことまで自分の責任と思うようになろう。

何かわるいことがあるとすぐに、自分が責められるのではないかと恐れるようにさえなるだろう。

人間関係がうまくいかないといったことが起こる。

子どもの責任ではないことまで子どもの責任にしてしまう親は、子どもの自我の発達にとってたいへんな障害である。

人間関係がうまくいかない人は自我境界が不鮮明になりやすい。

人間関係がうまくいかない人は自我境界が鮮明な、つまり情緒的に成熟した人と付き合うことである。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著

 

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