人間関係がめんどくさいを楽にする初め

依存心というのはとても重要な問題である

人間関係がめんどくさい人など依存心が強いかぎり、人間はどんな環境を与えられても幸せになることができない。

幼児のころは別として、自立への願望が出始めると、この依存心は人間の幸せに対して破壊的な力をふるいだす。

こうなるとまず、人間関係がめんどくさい人はどうしようもなくその人の感情は両価的になってしまう。

親に対する依存であれ、配偶者に対する依存であれ同じことである。

これは一般に「内づら」といわれている集団内での感情の動きである。

私達の人間関係には外づらと内づらの両方がある。

人間関係がめんどくさい内づらのわるい人にとって内の世界とは不愉快な世界なのである。

内づらのわるい人はその集団に接すると、それだけで気持ちが不愉快になる。

人間関係がめんどくさい人は理由もなく不機嫌になる。

気持ちが行き場を失ってよどんでしまう。

敵意というような明快な感情ではない。

方向性を失った厚ぼったい感情である。

ある父親は人間関係がめんどくさいといった内づらのわるい人であった。

それにもかかわらずいつも家の者と一緒にいた。

ここが人間関係がめんどくさい人など内づらのわるさを理解するときのポイントである。

人間関係がめんどくさい人といった内づらの関係は本人にとっては不愉快なものである。

不愉快なものはないほうがよい

人間関係がめんどくさい内づらがわるくて外づらがよい人は、内づらを出す集団に属さなければよいのである。

ところがそれができない。

人間関係がめんどくさい人は外づらがよいのだから、そのような関係では本人は機嫌がよい。

外の人と接しているほうが気分が爽快なのである。

それなら内づらの関係などなくせばよいではないか、ということになる。

人間関係がめんどくさい人は何も好き好んで短い人生を不愉快に過ごすことはない。

ところが実際、内づらのわるい人というのは、内づらを見せる人との関係なしには生きられないのである。

それが人間関係がめんどくさい人の依存心である。

つまり人間関係がめんどくさい人は接すると不愉快になる人を必要としているのである。

いいかえれば、自分が必要としている人と接すると不愉快になる、ということである。

人間関係がめんどくさい内づらのわるい人は、外の人と接しているほうが気分がすっきりする。

そのくせ人間関係がめんどくさいその人が心理的に頼っているのは、外づらを見せる人ではなく、内づらを見せる人なのである。

その人間関係がめんどくさい人は生きていく上で誰かを頼りにしなければならない。

人間関係がめんどくさい人は誰にも頼らずに生きていくことはできない。

その人間関係がめんどくさい人の依存の対象はいろいろである。

ある人は親に、ある人は配偶者に、ある人は自分の子どもに、ある人は兄弟に、ある人は友人や恋人に深く依存している

人間関係がめんどくさい内づらとはまさに自分が依存している人に見せる面なのである。

つまり人間関係がめんどくさい人はその人なしには生きていけないのに、その人と接すると不愉快になる、ということである。

人間関係がめんどくさい人の不機嫌の引き金になるのはきわめて身近な人の言動である、というのはそのためである。

不機嫌になった人は、その自分の不機嫌な気持ちの引き金となった身近な人に心理的に依存しているのである。

人間関係がめんどくさい人が「思いどおりにいかない」ときには

成熟とは何よりも依存心の消化である

人間関係がめんどくさい依存心を持っていると、とかく腹の立つことが多い。

自分が心理的に依存している対象が、自分の思うように、つまり自分を保護してくれるように動かないと不満になる。

さらに人間関係がめんどくさい人はすべてが自分の思うようにならないと不満になり、その不満をすべて依存の対象にぶつける。

人間関係がめんどくさい人は努力もせずに成功したいと願う。

我慢することができないくせに望みは大きい。

人間関係がめんどくさい人はそれらは実現するはずもないのに、実現しないと依存の対象を責める。

家庭内暴力などもこれであろう。

勉強もしないくせに試験の成績がわるいと不愉快になって母親にあたる。

人間関係がめんどくさい人のこういった他罰傾向は依存心のあらわれである。

生きていく上でうまくいかないことというのはあまりにも多い。

しかし、情緒的に成熟した人はそれなりに解決していく。

しかし人間関係がめんどくさい情緒的に成熟していない人はその解決ができずに、その不満を心理的に依存している人にぶつける。

人間関係がめんどくさい人は思うように出世ができない。

誰がわるいのでもない。

自分が能力不足ということもあろう。

経済が不況だということもあろう。

会社の人事が間違っていることもあろう。

ところが望む出世ができないと、「お前のせいだ」と妻を責める人間関係がめんどくさい人がいる。

「同僚たちは家に帰って安心できる。それで明日のエネルギーがわく。それなのに俺は家で安心できない、イライラする。・・・お前のせいで出世ができない」

こういった類の人間関係がめんどくさい人は自分の情緒未成熟を認められない。

人間関係がめんどくさい人はきわめて一方的で自己中心的な考え方しかできない。

不況の時代ならそれは妻のせいではない。

会社の人事がおかしいなら会社に間違いがある。

しかし人間関係がめんどくさい人はこのように考えても出世できない不満は解消しない。

人間関係がめんどくさい人はおもしろくない。

おもしろくないときに誰がもっとも責めやすいか

人間関係がめんどくさい人はそのもっとも責めやすい人を責める。

依存心の強い者はどうしても内づらがわるくなる。

「俺が出世できないのはお前が働いて、家事子育てをきちんとしていないからだ。

人間関係がめんどくさい人は家でくつろげないからだ。

うちの会社でお前のようにできのわるい妻などいない」と、出世できない責任を配偶者に転嫁する。

そして、人間関係がめんどくさい人はそんなに不満なら別れればいいのだがそれができない。

これこそ人間関係がめんどくさいといった情緒未成熟の特徴である。

人間関係がめんどくさい人は内側の者に対して他罰傾向があるのに、その責めている人間と離れることができずに内づらがわるくなる。

勉強もしないで有名高校に入ろうとする。

人間関係がめんどくさい人はその高校に行けないといって親を責める。

しかし人間関係がめんどくさい人は親なしには心理的にいきてはいけない。

人間関係がめんどくさい人は親を責めながらも親が心の支えであることには変わりない。

親に対する両価性が内づらのわるさである

人間関係がめんどくさい人は他人が自分のためにつくすのは当然と思っているが、自分は他人のために何かしようとはおもわない。

そんな自己中心的人間でありながら、いや、そうだからこそ、いつも不満なのである。

人間関係がめんどくさい人は会社でも同僚や上司は自分に特別、目をかけてくれるものと勝手に決め込んでいる。

そして、人間関係がめんどくさい人は上司に目をかけてもらいながらも不満になる。

人間関係がめんどくさい人は他の同僚よりことさら自分にだけ何か特別なことをしてくれないと気がすまないのである。

したがって人間関係がめんどくさい人は上司に頼りながらも、上司に対して常に不満である。

ただ、人間関係がめんどくさい人は上司には外づらを見せて不満は内の者に向ける。

人間関係がめんどくさい人は家に帰って暴れる。

親に頼りながら、親に不満な中学生がある。

親が自分の身のまわりの世話をしてくれないと不満になる。

しかし身のまわりの世話をされると「うるさい」と感じる。

人間関係がめんどくさい人は「放っておいてくれ」と思いつつ、放っておかれると腹が立つ。

進むこともできず退くこともできないで、心の中はパニックに陥ってしまう。

人間関係がめんどくさい人は何をするにも他人とは一緒にやりたくない。

自分ひとりでやりたい。

人間関係がめんどくさい人はしかしいざとなると自分ひとりでは何もできない。

自分ひとりで何もできないで他人の助けを求める

人間関係がめんどくさい人は助けてくれないとおもしろくない。

それでいて人間関係がめんどくさい人は他人が助けようとすると不愉快になる。

人間関係がめんどくさい人は何かしてもらわなければ何もできないくせに、してもらうと不快でたまらない。

未成熟のさまざまな現象とは回避不可能な心理的課題を避けて、生きてきてしまったツケである。

人間関係がめんどくさい人は恋人や奥さんや母親に何やかやと因縁をつけ、責めさいなむ。

それらの人なしには生きていけないものを嫌悪するのが情緒未成熟の特徴である。

最近の大学生を知らない人には信じられないような話だが、彼らの中には、母親がいないと試験を受けられないという人がいる。

地方から出てきている子などは大変である。

しかし、それでは完全に母親ベッタリかというとそうではない。

母を責めたりする。

試験をうまく受けられないのは自分がわるいのだが、母親にあたって殴ったりする。

そのくせ母親が地方に帰れば不安で大学にも行けなくなる。

愛憎ともに渦巻く彼らの心の中は、パニックに陥ってしまう。

人間関係がめんどくさい人はひたすらちゃかして「心の葛藤」を無視していないか?

音楽サークルに属している人の話である

「サークル関係の友人と喫茶店や飲み屋に行く。

政治のことなどが話題になることは、けっしてない。

政治的話題を避けているのではなく、関心がないからなのだ。

音楽の話もあまりしない。

それは、人間関係がめんどくさい各人が関心をもっているのだが、意識的に避けているのである。

それは、各人の音楽観とまでいわないまでも、各自の好み、志向がそれぞれ異なっているからである。

音楽のことを話題にすれば、人間関係がめんどくさい人はそういう対立が明らかになってしまって何となくしらけた雰囲気になってしまうのを恐れるからである」

音楽関係のサークルの仲間が喫茶店に行って、音楽についての意見対立を恐れてそれを話題にしないという。

音楽について語りたいということより、人間関係がめんどくさい人は対立の気まずさを避けたいということなのだろう。

真の相互性は意見の対立ぐらいでこわれるものではない。

自己主張は大切な自己実現である

人間関係がめんどくさい人はここまで気まずさを避けてしまうと”自然な内気さ”とは言えないだろう。

それは自分自身への信頼の欠如、自我の強さの欠如とでも言ったほうがよいであろう。

では音楽サークルの人間が喫茶店で何をするか、というと”しり取り”だそうだ。

しかも”白黒しり取り”といって、卑猥なことを連想させるような言葉でする、しり取りだそうである。

「その場は面白くてたまらないが、いい意味でも悪い意味でも何も残らない」

このような言葉を聞くと、自我が立脚すべき基盤そのものが脆弱だという感じがしてくる。

人間関係がめんどくさい人は原信頼というか基本的信頼感というか、そのようなものがないのである。

したがって、人間関係がめんどくさい人は付き合いも、大学を卒業すれば、サークルがなくなれば自然と消えてなくなっていくようなものになりがちである。

人間関係がめんどくさい人はお互いに何か”むき出し”のような感じがしているのではないだろうか。

だから、ほんのささいな対立にも気まずくなってしまう。

人間関係がめんどくさい人はほんのささいな言葉にも傷ついてしまう。

今の人が真面目に話すべき時にちゃかしてしまったり、相手が真剣になっている時に冷笑したりするのは、心の中に葛藤があるからではないか

人間関係がめんどくさい人は抑圧された感情が”ちゃかしてしまう”というかたちで発散されているのではなかろうか。

人前で緊張する人は”孤独感”がつきまとう・・・なぜ?

「おもむろにギターを取り出し、アンプのスイッチを入れ、ギターとアンプをシールドコードで結ぶ

そして、できるだけバカみたいに、”何か演ろうぜ!”と叫ぶ。

”ろ”の音を巻き舌で発音するのがコツだ。

すると他の連中が同じようにバカみたいに”じゃあ、ブルースでも演ろうぜ!”ということになり、たちまちセッションがはじまる。

何人かは楽器を弾かずに、ただ無為のまま坐っている。

坐る所がなければ立ったままだ。

部屋の中は大音量なので話はできない。

一時になるとあわててギターを片づけて足早に教室にむかう」

ここでの疑問は、自分たちの好きな音楽を演奏するのに、なぜわざわざバカみたいなまねをしなければならないのか、ということである。

そんな馬鹿なまねをする当人はまだしも、そうしないとついてこない人間関係がめんどくさい人が問題であろう。

人間関係がめんどくさい当人は、そうしたくてしているのではないのである。

音楽サークルの人にとって、音楽は大切なものであろう。

その自分にとって大切なものを、なぜバカにしたようにしてはじめねばならないのか?

何かマゾヒスティックにさえ感じないでもない。

人間関係がめんどくさい人は自分の中に抑圧されている敵意が、そのようにして放出されるのであろう。

その抑圧された敵意がもたらす罪の意識のようなものが、自分にとって大切なものを、正々堂々と大切なものとして扱うことを許さないのであろう。

人間関係がめんどくさい人は自分の心を支配する者に対する反逆心はある。

しかし、人間関係がめんどくさい人はいまだに、その支配者に世話されたい、かまってもらいたいという願望は残っている。

となると、人間関係がめんどくさい人は思い切って反逆して独立し、自由な行動をとるわけにもいかない。

かといって人間関係がめんどくさい人は反逆の気持ちが芽生えてきているから、心ゆくまで相手に身をゆだねることもできず、かといって一人でもやっていけない。

人間関係がめんどくさい人は物事をちゃかしてしまうという形で、この心の葛藤を解決しようとしているのではなかろうか。

「したがって、他人といわゆるまともな会話をすることが苦手である。

そこで会話の欠如をもたらし、他人との触れ合いがなくなっていく」

心の葛藤をちゃかすことでごまかさずに解決することが、人間関係をきずく第一歩である。

※参考文献:「いい人」をやめたほうが好かれる 加藤諦三著
※参考文献:『自信』加藤諦三著