人間関係に疲れた人が気が楽になる道

アメリカの精神科医、ジョージ・ウェインバーグの『自己創造の原則』という本の中に、ネリーという女性が出ている。

彼女は男友達をつくるが、結婚ができない。

結婚は、親密になる能力と自信とが関係している

それが彼女にはない。

結婚と同様に、人が幸せになれるかなれないかは、親密になる能力と自信とが関係している。

だから社会的に成功しても、人が幸せになれるかなれないかはわからない。

社会的に成功しても、人が幸せになれるかなれないかはわからない。

社会的に成功しても、人間関係に疲れた不幸で自信のない人がいる。

またこれは、日本社会で定年が問題になる所以でもある。

人は人間関係において三つの側面を持つと、ウェインバーグはいう。

「社会的役割を遂行する側面」と、「衝動を満たそうとする側面」と、「人間としての部分」の三つである。

定年を迎えると、その最後のものだけになる。

最後のものの中心が、「親しくなる能力」である

超高齢化社会の最大の問題は、「人と親しくなる能力」である。

幸せに老いられるかどうかは、人と親しくなる能力を持っているかどうかということによる。

人間関係に疲れた人が気が楽になる秘訣

人間関係に疲れた、人と親しくなれない人は、どのような人であろうか。

たとえば他人を紋切り型にしか認知できない人がいる。

人間関係に疲れた人から見ると、友人は誰でも皆、「やさしい人、冷たい人」という紋切り型の認知になってしまう。

個々の友人の特性は認知されない。

「やさしい人、冷たい人」ということでは割り切れない部分を認知することができない。

人間関係に疲れた人は、「この人が好き」という友達がいない。

「あいつとあそこに行きたい」という友達がいない

そのような人間関係に疲れた人は、具体的な生身の人間に接していない。

つまり人間関係に疲れた人は心理的にコミットしていない。

だからこそ人間関係に疲れた人は相手の中に、「他人と比較されない人間の価値」を認識できない。

人間関係に疲れた人は、そこで、誰に対しても優越しようとする劣等感が生じやすい。

つまり、人間関係に疲れた、他人を紋切り型にしか認知できない人は、相手に対して理想像への同一化が行われて、相手そのものに対する現実認知がない。

友人とはかくかくしかじかである「べき」だという立派な友人像があり、その友人像に照らし合わせる形でしか、友人を認知できない。

このように、人間関係に疲れた人は、友人とはかくかくしかじかである「べき」だという考えがあって、現実認知がないという認知構造の歪みが、人と親しくはなれない人の特徴である。

人と親しくなるということは、防衛的でもなく、依存的でもないということである

人間関係に疲れた人のように防衛的になると自意識過剰になる。

自分の弱点を隠すことにエネルギーを消耗してしまい、親しくなれない。

人間関係に疲れた人のこんな態度は、相手を嫌っているように見える

その他に親しくなることを妨害するものは、いくつか考えられる。

一つは「二重束縛」といわれるものではなかろうか。

愛情深い言葉を吐きつつ、気持ちは相手を拒否するような人である。

こうした人間関係に疲れた人は、他人とうまくコミュニケーションができない。

恥ずかしがり屋の人は、「行って下さい、私はあなたを必要です」のようなメッセージを自然発生的に送っていると、スタンフォード大学で心理学の研究をしているフィリップ・ジンバルドーはいう。

人間関係に疲れた人は確かに、一方では相手に対して「自分の側を離れて欲しい、向こうへいって欲しい」と思っている。

しかし同時に相手に「自分の側から離れないで欲しい」と真剣に思っている。

まったく矛盾する気持ちを同時に自分の中に持つ

そういう人間関係に疲れた人は、どう人と接していいかわからない。

相手とコミットしようにも、コミットしようがない。

そこで、人と会っても黙って食事をする。

もう一つは、潜在的敵意や不信感などの否定的感情であろう。

敵意を抑圧して、それを投影しているから、対人恐怖症の人は「人」が怖い。

アメリカの精神科医レオナルド・ホロビッチは、態度を二つに分けた

人に近づく態度を「タイプC」と名づけた。

遠ざけようとする態度を「タイプD」と名づけた。

この二つの態度を同時に持ってしまう人がいる。

このようなことが総合されて、恥ずかしがり屋の人は、他人といても居心地が悪いということになる。

つまり、人間関係に疲れた人は、他人といても居心地が悪いということは、心理的にはかなり深刻な問題を抱えているということなのである。

人間関係に疲れた人が「愛される条件」は存在するのか?

「できの悪い子ほど可愛い」という格言があるように、愛されるためにはできがいい必要がない

しかし恥ずかしがり屋の人は、もともと「愛される」ということがどういうことだか知らないので、居心地の悪さを感じるのである。

「優れているから愛される」ということは、本当の意味で「愛される」ということではない。

人間関係に疲れた人は、本当の意味での愛を体験していないのである。

そしてこの「親しくなることを恐れる」ということは、甘えを知らないという事でもある。

人間関係に疲れた人はこんな自己中心的な自分でも、相手は自分を愛してくれるというのが甘えである。

甘えが満たされないままで、甘えを自分の中から排斥している

だから誰と付き合っても、人と付き合う喜びを体験することができない。

「自分が相手に求めることは、立派なことではない、それでも自分は見捨てられない」というのが愛の体験である。

自分が、自分の年齢にふさわしくない幼児的なことを相手に求めても、相手は自分を拒否しないという安心感が愛の体験である。

「自分が考えていることがわかったら、他人は自分を好きにならない」と恥ずかしがり屋の人は思っている。

ということは、人間関係に疲れた人は、「自分が年齢にふさわしくないほど幼稚なことを求めたら、相手は自分を拒否するだろう」と思っているということである。

恥ずかしがり屋の人は、愛の体験がないのである。

人間関係に疲れた人が「心からの親友」を見つけ癒されるヒント

人間関係で本当は、自分を出してしまったほうが愛される

親の要求に適応した子どもは、愛されるためにはお行儀よく振舞うことだと思い込んでいる。

しかし無理をする「いい子」は、自分のしたいことをして親に嫌われるのが怖いから、自分のしたいこともできない。

そして、このように自分を裏切り続けるから、いつしか親に対して憎しみを持つ。

「いい子」は、親を愛していない。

「いい子」は、冷たい。

そして無力感に悩まされている親は、子どもの「無理」に気がつかない。

「いい子」は今日も無理をした

明日も無理をする。

明後日も無理をする。

そして燃え尽きる。

「いい子」は、消費者金融からお金を借りて、贅沢な生活をしているようなものなのである。

無理をしなければ愛されるのに、無理をするから愛されない。

他人は「あそこまでしなくてもいいのに」と痛々しく思っている。

しかし本人は、他人がそう見ているということに気がついていない。

人間関係に疲れた人は、「人からは自分が見えている」ということがわかっていない。

「いわゆるいい子」は、大人になって心理的にいろいろと問題を起こす

適応した「いわゆるいい子」は、他人を愛する能力のない人から愛されようとしているのである。

そのためには、確かに迷惑をかけないでお行儀よく振舞うことが大切である。

子ども時代にはそれが正しかった。

しかし、大人になって、愛する能力を持つ人に囲まれたときには違う。

愛する能力を持つ人は、子どもの可愛さがわかる人である

「しょうがないけど可愛い子」と、しょうがない子を受け入れてくれる。

ところが「いわゆるいい子」は、大人になってからも、愛する能力を持った人に対してまで自分を隠す。

人間関係に疲れた人は自分を隠すから”その人らしさ”がない。

個性がない。

そこで愛する能力を持った人からは「魅力のない人」と映ってしまう。

本当は無理をしないほうが愛される。

このことが、人間関係に疲れた「大人になったいい子」にはどうしても理解できない。

もっと単純に類型化すれば、こうなる。

神経症者に受け入れられるためには、子どもは「いわゆるいい子」を演じていることが大切である

しかし自己実現している人は、相手が「しょうがない」にもかかわらず、その「しょうがない子」を愛する。

「いわゆるいい子」の悲劇は、その人間観を、神経症者をモデルにしてつくってしまっていることである。

したがって、受け入れられるために一生懸命努力しながら結果として誰にも親しまれない。

「いわゆるいい子」が好かれるためにしている行動は、実際には好かれないための行動になってしまっているのである。

「いわゆるいい子」には、心の中を打ち明ける本当に親しい人がいない。

「いわゆるいい子」は淋しい子どもである。

「いい子」の人生はつまらない

「いい子」が大人になり、無理して「いい人」を演じていると、関係の形が崩れる

こっちがいい人を演じていると、周りは自分勝手に世界に入ってくる。

綱引きをして、引いているフリをするひとがいる。「よいしょ、よいしょ」と言っている。

逆に本気で引っ張る人がいる。

綱が切れたときには、本当に引っ張っている人が怪我をする。

前後を見ないで、全身で綱引きをしているから怪我をする。

頑張る人が出れば出るほど、周りは頑張らない

怠ける。

現実の世界にはそういう人がいる。

人間関係に疲れた、周囲の人を見ないで無理して頑張る人は、やがて悔しくて「眠れない夜」を迎えるような人になる。

気がついてみると、自分一人が頑張っている。

人間関係に疲れた人は頑張って愛されるようになったのではなく、なめられる人間になってしまったのである。

やたらに愛想よくする人がいる。

人間関係に疲れた人は何かをしてもらおうとすると愛想よくなる。

そこでずるい人になめられてしまう。

親切な人は相手の親切がわかるが、一度も人に親切をしたことのない人は、相手の親切がわからない

そういう人に無理をして親切をしても、相手は親切をされたとは感じない。

逆に弱みがあると誤解される。

人間関係に疲れた人は感謝されようとして、無理をして親切をする。

そしてとんでもない仕打ちにあう。

「恩を仇で返す」と言う言葉がある。

しかしこれは違う。

恩を受けた側は、恩を受けたとは感じていない。

人間関係に疲れた人は立派に見えるのに、実は身勝手な人

自分の世界に相手を取り込もうとするということは、別の言葉で言えば強要性ということである

そのような人間関係に疲れた人は相手の世界というものを認めることができない。

このような人間関係に疲れた親は子供が自分の世界を持つことを許さない。

人間関係に疲れた人は子どもが結婚してからも、あくまでも親と子という世界で共生的関係を結ぼうとする。

相手に対して何かをするときはすべて、相手の人格を認めない共生的関係を取り結ぶことが真の狙いなのである。

人間関係に疲れた人は子どもが結婚して新しい生活をはじめても、子どもにまとわりつき、親と子という世界に子どもをとりこもうとする。

子どもは人格を否定され、情緒的に成長することを妨害される。

まとわりつかれて子どもが悲鳴をあげたとしよう

しかし第三者から見ると、ご立派な両親、よく息子夫婦の面倒を見る親というふうに映りかねない。

が、これでは子どもはいつまでたっても情緒的に成熟できず、他人と協力して生活をつくりあげていくということには情緒の成熟が不可欠なのである。

人間関係に疲れた人が子どもを自分の世界にとりこみ、子どもが決して大人にならないようにし、自分の身勝手な感情を一方的に押し付ける親を考えてみよう。

子どもは情緒的に未成熟なまま結婚適齢期を迎える。

結婚するが、協力して生活を築きあげることはできない

そこには離婚の悲劇が待っている。

それは、どこまでも親にとりつかれ、親の幼稚な感情を押し付けられた子どもの悲劇である。

悲劇がここで終わるならよいが、このような人間関係に疲れた親は最後まで子どもにからみついていく。

強要性と搾取性、恐ろしい言葉である。

人間関係に疲れた上役の中にも、部下を自分の身勝手な世界にとりこもうとする人はいる。

彼らは、母親らしさの背後に、子どもを自分の支配下に置こうとする意志を隠している親たちと同じである。

人間関係に疲れた親のもつ強要性と搾取性のもとに、以下に多くの子どもが地獄の苦しみを味わわされていることだろう。

子どもに自分が期待する感情を持つことを要求する

もし子どもがそういった感情を持たなければ、人間関係に疲れた親は凶暴になる。

その凶暴さが人間関係に疲れた親の内づらである。

しかし人間関係に疲れた親の凶暴さの現場を見ていない第三者から見ると「なんて立派な親」ということになる。

そういう人間関係に疲れた親は感謝の念をたえず要求することはもちろん、あらゆることについて要求がましくなる。

そのように要求がましい人間関係に疲れた親は、子どもに対してはきわめて厚かましい。

人間関係に疲れた親の内づらである。

しかし、人間関係に疲れた人は外の世界に対しては身を低くして他者の意に従おうとする。

それが親の外づらである

第三者が誤解するのはこのためである。

人間関係に疲れた人は外の世界で身を低くして他者の意に従おうとする人が、内の世界においては自分本位の身勝手な世界を他者に押し付ける。

その厚かましさは、まさに外の世界での姿勢の裏返しなのである。

人間関係に疲れた人の内の世界にあって、相互性を持ち得ないのだろう。

だから、人間関係に疲れた人は対人的に敏感な反応をして他者の意に迎合していくのである。

ニコニコと他者にとりいる笑顔を外で見せながら、内の世界では鬼のような凶暴性を発揮する。

人間関係に疲れた人は外で「やさしくて本当にいい方」と言われる人が、内の世界で凶暴になって物を投げつけたり「お前なんか死んじまえ」などと怒鳴る。

内づらと外づらはあらわれているものはまったく違うが、人間関係に疲れた人はその心の底にあるのは同じ不安である。

ひどい内づらの動機と、よい外づらの動機は同じ不安である

人間関係に疲れた人は「イライラ」が家での狼の心理状態で、「増大する従順」が外での心理状態である。

内と外ではあらわれていることはまったく正反対だが、その隠された真の動機は同じである。

つまり劣等感である。

もっと正確に言えば、理想の自我像と「現実の自分」との乖離である。

人間関係に疲れた人は家で狼になるのは、心の葛藤を狼になることで解決しようとしているのである。

そして人間関係に疲れた人は同時に外での子羊も、子羊になることで心の葛藤を解決しようとしているのである。

狼と子羊は症状としては反対であるが、本質は心の葛藤という同じ心理である。

人間関係に疲れた人は「家で狼、外で子羊」はどちらも受け身の姿勢である。

いってみれば、人間関係に疲れた人は両方とも「助けて」と叫んでいるようなものである。

※参考文献:無理しない練習 「自分らしく」生きたほうが好かれる 加藤諦三著