他者から承認されることは、たしかに嬉しいものでしょう。
しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。
そもそもどうして承認を求めるのでしょう。
もっと端的にいえば、なぜ他者から褒められたいと思うのでしょう。

では、身近な場面で考えてみましょう。
たとえばあなたが職場や学校でゴミ拾いをしたとします。
それでも、周囲の人々は全く気付かない。
あるいは、気付いたとしても誰からも感謝してもらえず、お礼の言葉ひとつかけてもらえない。
さて、あなたはその後もゴミを拾い続けますか?

承認欲求の危うさは、ここにあります。
いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?
多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです。

適切な行動をとったら、ほめてもらえる。
不適切な行動をとったら罰せられる。
アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。
賞罰教育の先に生まれるのは「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。
褒めてもらいたいという目的が先にあって、ゴミを拾う。

そしてだれからもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。
明らかにおかしな話でしょう。

我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、私も他者の期待を満たすために生きているのではない。
他者の期待など、満たす必要はないのです。

ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。
あなたはあなただけの人生を生きています。
誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。

そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、一体誰があなたの人生を生きてくれるでしょうか。
我々は、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。
そう考えてはいけない理由はありません。

これはニヒリズムではありません。
むしろ逆です。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。

承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、本当の自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。

そして、覚えておいてください。
もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのだはない」のです。

相手が自分の思う通りに動いてくれなくても、怒ってはいけません。

それが当たり前なのです。
承認が得られないと苦しい。
他者からの承認、両親からの承認が得られなければ自信が持てない。
はたしてその生は、健全だといえるのでしょうか。

たとえば「神が見ているから、善行を積む」と考える。
しかしそれは「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。
我々は、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。
むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。

では、社会的地位を確立した人々は、幸福を実感できていますか?

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。
しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。

なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。

意外に思われるかもしれませんが、カウンセリングを受けに来られる相談者の方々に、わがままな方はほとんどいないそうです。
むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいる。
いい意味で自分本位に振る舞うことができないわけだそうです。

傍若無人に振る舞うのではありません。
ここを理解するにはアドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには「わたしは他人の期待に応える為にいきているのではないんだ」と自分に言いきかせることです。

※参考文献:嫌われる勇気 岸見一郎著