「自信さえつけば」のジレンマ

「『他人の目』が気になる心」を考える際に、多くの人が思うのは、「自信さえつけば」ということだと思います。

自信さえつけば、体型がちょっとくらい悪くても堂々としていられるはず。

自信さえつけば、服装などにかまわずいられるはず。

自信さえつけば、そして颯爽と仕事ができれば、むしろ無造作なファッションでもかっこよく見えるはず。

自信さえつけば、ノーメイクでも堂々と人に会えるはず。

自信さえつけば、ブランド品を持っていなくても不安にならないはず。
あるいは、ノーブランドのバッグでも存在感を持たせられるはず。

自信さえつけば、「キャラ」を作ることなく、素の自分を見せられるはず。

自信さえつけば、自分の話し方や内容にオドオドせず、堂々と自己アピールできるはず・・・。

という具合に、「自信さえつけば」という考え方は、「他人の目」が気になる心と、密接な関係にあります。

「『他人の目』に合わせて自分を変えれば自信がつくはず」という思いと「自信さえつけば『他人の目』など気にならないはず」という思いが、「『他人の目』が気になるスパイラル」を作っていきます。

しかし、「自信」の問題は、「『他人の目』が気になる心」との悪循環にあるだけではありません。

そもそも、「自信さえつけば」という考え方そのものに問題があるのです。

「自信をつけよう」と思ったときに私たちの目がどこに向くかというと、「どういうふうにすれば自信がつくのだろうか。こんなに何もできない自分なのに」と途方に暮れる感じだったり、「〇〇の資格をとって自信をつけよう」というものであったりします。

いずれも、「何かができる自分」「何かを持っている自分」という、自分への評価に目を向けたものです。

つまり、「自信さえつけば」という気持ちは、「『他人の目』から見て自信がありそうに見えれば」ということであり、「自分への評価さえよくなれば」という気持ちとほとんど同じものなのです。

エンドレスであるところも同じだし、「自信さえつけば」と思えば思うほど自信がなくなる、というところも同じです。

「自信さえつけば」と「自分の評価さえよくなれば」は、現在の自分についての肯定感がない、というところも同じです。

「自信さえつけば」と言うことは「自信がない」と言っているのと同じことですし、「自分の評価さえよくなれば」と言うときには「自分への評価が低い」と言っているのと同じです。

そうやって「ダメな自分」をこれでもかと自分に見せつけているようなものなのです。

「自信がある」ことには、もちろん問題がありません。

しかし、「自信さえつけば」ということになると、「今現在、自信がない自分」というところに強烈に焦点が当たってきます。

「自信がない自分」に自信を持つことなどできず、「自信さえつけば」と思えば思うほど、自信がなくなっていく、という構造に陥ってしまうのです。

ポイント:「自信さえつけば」と考えることは、今現在の自分の自信のなさを浮き彫りにすることと同じ

多くの人が考える「自信」は「イメージ」に過ぎない

そもそも、皆さんが考える「自信」とは、どんなものでしょうか。

自分のことが好きで、自分には力があると思っていて、他人から何か言われたくらいでは動じない、という感じでしょうか。

人目を気にしないですむような「軸」が自分の中にあるという感じでしょうか。

いずれにしても、人から何か言われたくらいで傷つかない、強い自分という「イメージ」なのだと思います。

多くの人にとって、自信とは「イメージなのではないかと思います。

何故かと言うと、「自信さえつけば」と思っている人は、本当の自信とは何かを知らないからです。

自信がありそうな人を見て、「ああいうのが自信があるということなんだな」と思うことが、自信のイメージ通りに振る舞っても、自信が持てたとは言えないのです。

例えば、「自信があるということは、人前で物怖じせずに堂々と意見を言えること」というようなイメージを持っているとしても、実際に自分が意見を言ったときに誰かから少しでもネガティブなことを言われたら、やはり気になってしまうと思うのです。

形だけは堂々としていることはできるかもしれないけれども、内心はドキドキ、ということになってしまうでしょう。

これはもちろん自信とは言えないものです。

つまり、いくら「自信があるというイメージ」通りに何かをしても、本当の自信がなければ意味がない、ということになります。

ポイント:「自信があるというイメージ」はあくまでイメージ。本当の自信ではない

本当の「自信」とは何だろう?

「自信さえつけば」と言うときの「自信」とは、不動のもので、いったん獲得したらちょっとのことでは動じないもの、というようなイメージがあります。

また、「自分で身につけるもの」という印象があります。

まずは自分で自信をつけておいて、それから他人に接すれば、堂々としていられる、というような印象です。

こうやって見てみると、自信というのは、まるで何かの「もの」のようです。

筋力トレーニングをして筋肉をつけておけば、そのあとの重労働に耐えられる、というような感じでしょうか。

しかし実際のところ、自信とはそんなものではありません。

自信とは、「自分を肯定する気持ち」を感じられることです。

自分についての感じ方がよいときに私たちは自信を感じます。

「自分はこのままでよいのだ」という感覚こそが、本当の意味での自信です。

自分についての感じ方が悪いと、「自信がない」と感じるのです。

つまり、「自信がない」というのは、「実際の自分がどうか」という話ではなく、あくまでも「自分についての感じ方がどうか」という話なのです。

客観的に見たときに同じだけのことができても、ある人はそんな自分に自信があるし、ある人は自信がないのです。

「あんなに美人で、あれだけ仕事もできるのに、どうして彼女はあんなに自信がないのだろう」と疑問を感じてしまう人を時々見かけますが、これなどはまさに、「自信」というものが「自分についての感じ方」次第だということを如実に表しています。

ポイント:自信は「つける」ものではなく「感じる」もの。「自分を肯定する気持ち」を感じられることこそが本当の自信につながる

自分をプラスに評価するだけではだめ

「少しのトラウマ」が沢山ある人は、自信がないでしょう。

それは当然のことで、「だめな人間」と、自分についてのネガティブな評価ばかり下されてきた人は、自分についての感じ方がよいわけがないからです。

「ダメな自分」という言い方そのものが、自分についてのよくない感じ方を表していますね。

「自信とは、自分についての感じ方」というところは大切なポイントです。

自信というのは、筋肉のようにトレーニングによって「あらかじめつけておくもの」ではなく、「その場で感じるもの」なのです。

あるとき、ある場面での、自分についての感じ方が、「自信がある」「自信がない」という感覚につながっていきます。

つまり、自信を感じたければ、「まず自信をつけておく」ことが必要なのではなく、「その場その場での自分についての感じ方をよくしていく」ことが必要なのです。

「他人の目から見た自分」が気に入っていれば、じぶんについての感じ方はよくなるでしょう。

そういう意味では、「他人の目」と「自信」も無関係ではありません。

ただし、ここでのポイントは「自分が気に入っていれば」というところです。

「自分は他人からプラスの評価を得ている」ことに重きを置くのではなく、「自分がよい感じ方をしている」ことが重要なのです。

注意したいのが、「気に入っている」というときには、「自分で自分をプラスに評価している」ケースもあるということです。

「感じている」のではなく「評価している」のです。

例えば、「今日の自分の髪型が気に入っている」と言う場合、それは自分という評価者が「今日の私の髪型」をプラスに評価している、ということかもしれません。

この場合、よりよい髪型の人が現れると、この「気に入っている」という感覚はひっくり返されてしまいます。

評価は、あくまでも相対評価だからです。

一方、評価を超えて、なんだか今日の自分にしっくりしている感じが気に入っているのであれば、よりよい髪型の人が現れても大した影響を受けないでしょう。

「しっくりしている感じ」は脅かされないからです。

ポイント:「自分がよい感じ方をしている」場合の「気に入っている」気持ちは、ちょっとやそっとのことでは脅かされない

自分の好きなところを見つけよう!」の罠

「自信をつけたい」と同様によく言われるのが「自分を好きになりたい」という言葉です。

「自分を好きになろう!」というのは、最近ちょっとしたはやり言葉だとも言えます。

もちろん自分を好きになることはすばらしいことなのですが、どういうふうにすると自分を好きになれるのでしょうか。

また、そもそも、「好き」とはどういう感情なのでしょうか。

実は、「好き」というのは案外紛らわしい概念です。

「ありのままに対する愛情」を意味する場合もあれば、「プラスの評価」を意味する場合もあるからです。

前者の「ありのままに対する愛情」は「無条件の愛」と呼ばれるもので、後者の「プラスの評価」は「条件つきの愛」と呼ばれるものです。

後者の場合、「仕事がうまくいっている自分が好き」ということであれば、仕事がうまくいかなくなったときには自分のことを嫌いになってしまうでしょう。

「自分の好きなところを見つけよう!」というようなアプローチは往々にして不自然になり効果も上がらないのですが、それも当然のことで、「自分の好きなところ」というのは、「条件つきの愛」のための「条件」に過ぎないからです。

そしてその「条件」とは、基本的に自分への評価に基づいています。

「自分の明るいところが好きです!」と言っても、何となくわざとらしくて本当に「好き」という感じを持つのは難しいですし、次の瞬間に誰かが「明るければいいってもんじゃないよね」などと言おうものなら、自分が好きだという気持ちはすぐにぐらついてしまうのです。

また、自分のよいところを見つけようとしても、それを相対評価に委ねてしまうと、自分の「だめなところ」ばかりに目が向くようになってしまいますので、逆に自分を好きになれなくなってしまいます。

本当に自分を好きになりたいのなら、「好きなところを見つける」のではなく、自分に対してネガティブな目を向けて評価しない、という考え方のほうがわかりやすいのかもしれません。

自分に対してネガティブな評価の目を向けない、ということは、自分のありのままを受け入れるということです。

どこか気に入らない点があっても、「まあ人間なんだから仕方ないね」と自分に言える、ということなのです。

つまり、「自分が好き」ということは、「自分に批判的でない」ということであり、「自分のありのままを受け入れている」ということなのだと思います。

それは、「自分の好きなところを見つける」のではなく、長所も短所も含めて、今の自分はこれでよいのだ、と思う穏やかな気持ちだと思うのです。

ポイント:条件をよりどころにすると、「ありのままの自分」を好きになれなくなるおそれがある

自信のもと1.「自分のありのままを受け入れる」

自信を持つにしても、自分を好きになるにしても、そのキーワードの一つが「自分のありのままを受け入れる」ということだと言えます。

そうは言っても、自分には確かに欠点と言える部分があるし、今後もっと改善していきたい部分もある、と思うでしょう。

または、ありのままを受け入れてしまったら人間としての成長すら止まってしまうのではないか、と心配になるでしょうか。

実際にはそういうことはありません。

ありのままを受け入れるということは、「現在」の自分を受け入れることです。

現在、自分は何らかの状態にあるのですが、それは、ここまでの事情を反映したものです。

ここまでの事情というのは、持って生まれたものや、小さい頃から今に至るまで経験してきた様々なことです。

その結果として、現在の自分の状態があるのです。

そのありのままを受け入れるということは、「ここまでの事情の結果として今の自分がある」と認めるということ。

その際に重要な視点は、「自分はどんなときにもベストを尽くしてきた」ということです。

そんなことはない、自分はいつも努力が足りないのだ、と思われるでしょうか。

この感じ方がそもそも「少しのトラウマ」を反映したものだとも言えるのですが、私たちはベストを尽くしていないことなど、あり得ません。

「今日はここまでしかできない」と思うときには、それなりの理由があるのです。

我慢や努力が足りないわけではなく、疲労の蓄積であったり、体力の限界であったり、あるいは精神状態であったり、何かしらの理由があります。

そのときの自分のコンディションを反映した何らかの理由があって、そのために「できない」のです。

これは努力不足などと呼ぶべき性質のものではなく、単なる限界です。

そんな限界の中、できるだけのことをやってきた結果が現状ですから、それは単にそのまま受け入れればよいのであって、「努力が足りない」などと評価を下す必要はないのです。

現状を受け入れても今後の進歩は可能ですし、逆に、現状を受け入れなければ、「もっと努力していればよかった」と過去のことばかりにとらわれてしまい、これから可能な進歩すらできなくなってしまうでしょう。

ポイント:現在の自分は「ベストを尽くしてきた」結果であり、決して努力不足などではない

自信のもと2.「今の自分は、これでよい」

長所も短所も含めて、今の自分はこれでよい、とありのままを受け入れている人の場合、他人から何か言われてもそれほど動じません。

他人が言ってくることをすでに自分の短所として受け入れているため驚かないということもあります。

あるいは、

「あの人はそう思うのかもしれないけれども、私はこのままでいいから」

「確かによくないところはあるけれども、今の自分はこれしかできないから」

という感じ方かもしれません。

こういう人は、流すところは流す一方で、相手が言うことの中で、取り入れた方が自分の役に立ちそうだと思うところがあれば、取り入れることができるものは取り入れるでしょう。

これは、一般に、「自信がある人」としてイメージされる姿だと思います。

人から何かを言われても動じず、役に立ちそうなところは取り入れる、という力強さがあるからです。

ですから、「自信」の一つの重要な要素は、間違いなく、「自分のありのままを受け入れている」ということなのだと思います。

考えてみれば当たり前のことで、自分のありのままを受け入れていなければ、常に自分に対して「このままではいけない」という目を向けていることになります。

そんな状態を「自信がある」とは呼びません。

ありのままの現状を受け入れてしまうと成長できなくなるのでは、という疑問についてはどうでしょうか。

自信のある人、つまり自分のありのままを受け入れている人は、自分を前向きに成長させていくことができます。

なぜなら、成長とは、今の自分を肯定するという土台の上にあるからです。

逆に、「このままではいけない」というところに何かを積み重ねようとすると、土台から崩れてしまいます。

自分のありのままを受け入れる、と言うと、「それがどういうことかわからない」「何をすればよいのかわからない」と言われることも時々あります。

ありのままを受け入れるというのは、「何かをする」という意味ではありません。

むしろ「何もしない」ということ。

自分の現状に対して、プラスの評価もマイナスの評価も下さず、ただ「とりあえず今の自分はこれでよいのだ」と思うだけです。

これから変化させていきたいところがあるとしても、それは今の自分の延長線上に追加していけばよいだけであって、「今の自分はだめだ」という意味ではないのです。

もちろん、「今の自分はダメだ」という感覚は、「少しのトラウマ」によって作られるもの。

本当に自分がだめだという意味ではなく、自分はそれだけ多くの「少しのトラウマ」の影響を受けてきたのだ、ということに気づけばそれで十分です。

ポイント:「今の自分はダメだ」と思う感覚は、実際に自分がダメなのではなく「少しのトラウマ」のせいだと気づくこと

自信のもと3.「まぁ、自分は大丈夫だろう」

自信の一つの要素に、「自分は大丈夫」という、自分には力があるという感覚があると思います。

これは何も学力や仕事の能力のことを言っているわけではありません。

むしろ、表面的な学力や仕事の能力は、「他人からの評価」に分類されてしまうもので、自分よりもできる人が現れるととたんにねたましく思い自信を喪失してしまうような、不安定なものになりがちです。

ここで言う「自分の力」とは、「まあ、自分は大丈夫だろう」という感覚です。

いろいろなことはあるかもしれないけれども、まあ、自分はなんとかなるだろう、というような気持ちなのです。

自分についての信頼感であり安心感であるとも言えます。

これは単に「自分」についてだけではなく、自分を助けてくれる周囲の人達、頼れば何とかしてくれる社会なども含んだ、「誠実にやっていれば助けてもらえる自分」についての信頼感や安心感だと言えるでしょう。

この感覚は、実はとても大切です。

人生は様々な変化への適応の連続なのですが、そんなときに「自分は結局のところ大丈夫」と思えるか、それともいちいち土台から崩れてしまって圧倒されてしまうのか、というのは大きな違いだからです。

「まあ、自分は大丈夫だろう」というのは、自分の内から出てくる感覚で、実はここまでにお話してきた「自分のありのままを受け入れる気持ち」と深い関係があります。

「今は、これでよい」と思えれば、全体に、「まあ、自分は大丈夫だろう」と思えるようになるのです。

もちろん結果がどうなるかを予測することはできません。

しかし、どんな瞬間にも「今は、これでよい」と思えれば、いつでも「大丈夫」と感じられるようになります。

結果がどうなるかということよりも、いつでも「今は、これでよい」と思えることのほうが、ずっと「大丈夫」感につながるのです。

ポイント:ありのままを受け入れ「今は、これでよい」と思う気持ちが「自分は大丈夫だろう」という信頼につながり、自信が生まれる

※参考文献:「他人の目」が気になる人へ自分らしくのびのび生きるヒント 水島広子著