「『他人の目』が気になる心」を手放すと、ぐんと視野が広がる

本当の世界が見えていますか?

「他人の目」が気になっている間の私たちの人生は、「自分がどう見られるか」という一点しか見ていないようなものです。

実際の相手のことも、自分自身も、本当のところ見ていないと言えます。

まるで、強度の近視の人が、眼鏡もかけずに、ものすごく近くの一点だけを見て暮らしているようなもので、その周囲に広がっている本当の世界が見えていないのです。

相手もいろいろな事情を持った人間であり、そこには様々な心の動きがあり、努力してもできないこともあり・・・というように、相手のことも奥行きのある人間として見ることができるようになります。

また、自分自身についても、より深く見ることができるようになってきます。

「他人の目」を気にしているときの私たちは、常に自分の「足りないところ探し」をして、ダメだしばかりしています。

自分がどう見えるかを自分でチェックし、批判されるようなところがないかにばかり目を向け、批判されないように形を整えるために多くのエネルギーを使っていると、本来自分の中にある力に気づかなくなってしまいます。

相手の話を「データベース」を通して評価を下しながら聴いている限りその気づきはないのですが、「データベース」を手放して聴くようにすると、自分の中から温かさが湧きだしてきて、それが相手とつながるのを感じます。

その温かさは自分にももちろん向けられます。

「人間っていいな」というのが、よく聴かれる感想です。

自分の中にある豊かな力に気付こう

「他人の目」にとらわれながら生きるか、それを止めるか、というのはもちろん個々人の選択です。

でも、「他人の目」にとらわれて生きている限り、人生そのものの幅が狭くなり苦しくなるだけでなく、自分の中にある豊かな力に気付けなくなるというのはとても残念なことだと思います。

また、いつまでたっても「他人とは、自分に評価を下し傷つける存在という信念を手放せないのも、人生の質をとても下げると思います。

自分の中にある豊かな力に気付き、その力とつながりながらいろいろなもの(相手や、持ち物、食べ物、それらを作った人)とつながっていこうとするところに、人生の広がりが生じます。

相手のこと、持ち物のこと、食べ物のこと、それらを作った人のことについて、今までは気付かなかったような豊かな側面に気付いていくことができるでしょう。

それはまさに、強度の近視の人が、初めてめがねやコンタクトレンズをしたときと同じような、爽快で鮮やかな視野の広がりになります。

考えてみれば、「少しのトラウマ」を受ける過程で私たちは「お前はこの程度の人間だ」という信念を刷り込まれてきています。

それは私たちの特性によって決められた「程度」ではなく、単に「少しのトラウマ」を与えてきた人たち自身の「少しのトラウマ」を反映したものなのです。

その信念に従ったまま一生を生きるのか、つまり、自分自身も同じように自分や他人に「少しのトラウマ」を与える連鎖に入っていくのか、あるいは、思い切ってそこから一歩を踏み出して本当の自分に触れるのか、それを選ぶ力が自分にはある、ということを知っておきましょう。

ポイント:あなたには、「少しのトラウマ」から踏み出して本当の自分に触れる力がある

本来の「人の優しさ」に触れるために

人は本来、優しいものだと思います。

しかし、「少しのトラウマ」の影響を強く受けていると、「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という信念が固まっていますし、「つい言ってしまう人」「評価体質の人」などがその信念を強化してしまいます。

これらの人たちは「優しくない」というわけではなく、本来は優しい人であるはずだけれども、それぞれの事情の中、その優しさが見えない振る舞いをしてしまっている、ということになります。

もちろん、相手の事情をこちらが代わりに解決してあげることはできませんから、現時点ではどうしても本来の「優しさ」を感じさせてくれない人もいます。

でも、相手の事情をじっくりと聴いてみたり、「攻撃」に見えるものを「心の悲鳴」ととらえてみるなど視点の転換をしてみたりすると、「優しさ」までは感じられなくても、「一生懸命生きているのだ」ということくらいは感じられるようになります。

自分を傷つけるような言動は、その一生懸命さの中で余裕なく起こってきたことで、自分を傷つけることが主目的で起こってきたものではない、ということもわかります。

「攻撃された!」と思って反撃したり自己正当化したりすると相手もまた反撃や自己正当化をしてくるのですが、「そんなに大変なんだ」という優しい思いで見ていると、相手からも攻撃のエネルギーが減り、優しい側面が見えてくることもあります。

少なくとも反撃が激化するということはないでしょう。

「『他人の目』が気になる心」を手放すということは、自分をオープンにさらけ出すということです。

例えば、「他人の目」が気になるという気持ちを伝えるだけでも、かなりのさらけ出しになります。

すると、自分も同じように気になるという人も出てきて、つながりを感じることもありますし、優しくなってくれる人も出てきます。

相手の優しさに触れるためには、ただ待っているだけでなく、自分側の視点を転換したり自分をさらけ出したりすると、とても効果的なのです。

なぜかというと、本来人は優しいものなのにそれが発揮できないのは、自己防衛をしているからです。

優しさなどをさらけ出してしまうとやられてしまう、と思っている人たちには、「さらけ出しても大丈夫」という安心感を与えると、優しさを見せてくれることが多いものです。

ですから、まずはこちらからさらけ出す、というのはとても有効な手段になります。

ただし「評価体質」の人に対しては、さらけ出すよりも「心の悲鳴」という視点の転換のほうが安全でしょう。

活動範囲が広がっていく

「『他人の目』が気になる心」は、私たちの行動をずいぶんと縛るものです。

例えば、体型が気になる人は、「やせさえすれば〇〇できるのに」と思うことによって、同時に「やせていない今は〇〇できない」と自分の行動を縛っていることになります。

あるいは、「もっと人付き合いに自信が持てれば、いろいろなところに顔を出せるのに」と思っている人は、「人付き合いに自信がない今は、いろいろなところに顔を出せない」と思っているのと同じです。

「『他人の目』が気になる心」を手放すことができれば、これらの行動制限も手放すことができるでしょう。

「やせていないけれども〇〇したいからしよう」
「人付き合いにはちょっと自信がないけれども、それでもいろいろと顔を出してみよう」

と、活動範囲が広がるのです。

そしてもちろん、活動範囲が広がれば、それだけ視野が広がり、いろいろな人とのリアルなかかわりもでき、人の事情を知ったり、自分を受け入れてもらったりする機会が増えますから、結果としてますます「『他人の目』が気になる心」を手放しやすくなるでしょう。

これは、「現在とのつながり」という観点から見ることもできます。

「やせさえすれば〇〇できるのに」と言っているとき、私たちは「やせるまでは人生を保留にする」と言っているようなものです。

本当の人生はやせてから始まる、ということになると、それまでの人生は何なのでしょうか。

これが、「未来が現在を乗っ取る」という現象なのです。

「もっと人付き合いに自信が持てれば、いろいろなところに顔を出せるのに」というのも同じです。

本当の人生は人付き合いに自信が持てるようになってから始まる、ということだと、人生は永遠に始まらないでしょう。

なぜかというと、人付き合いに自信を感じる自分は、「現在」にしか存在し得ないからです。

現在、少しずつ自分をさらけ出し、少しずつつながりを感じ、ということを積み重ねていく先にこそ、「人付き合いに自信のある未来」、つまり「人付き合いしている自分についてよい感覚が持てる未来」が来るのです。

「未来」というものは独立して存在するわけではなく、単に現在を一歩一歩積み重ねていった先のことを言うのです。

ポイント:「『他人の目』が気になる心」を手放すと活動範囲が広がり、活動範囲が広がるとさらに「他人の目」が気にならなくなる

「『他人の目』が気になる心」の活用法

ストレスの見直し

実は「『他人の目』が気になる心」はいつも一定しているわけではありません。

人生の中には、「他人の目」が気になる特徴的な時期がいくつかありますし、小さなところでも、「『他人の目』が気になる心」が強く感じられるときとそうでないときがあります。

全般に、「『他人の目』が気になる心」が強く出るときは、ストレスが強いときです。

「『他人の目』が気になる心」とは、自信のなさを反映したものであり、自分についての感じ方を反映したものです。

自分についての感じ方が悪くなるときや、苦手意識でいっぱいになるときには、当然「他人の目」が気になるようになるのです。

ですから、「『他人の目』が気になる心」が強いときには、「今、自分はどういうストレスを抱えていて、自分についての感じ方がなぜ悪くなっているのか」をよく考えてみるとよいでしょう。

ここが運命の分かれ目です。

「『他人の目』が気になる心」が強く出るときは、自信のなくなるスパイラルにもはまりやすいとき。

本来は癒しが必要なときなのに、スパイラルをぐるぐる回ってしまうと、ますます自分を傷つけていってしまいます。

ポイント:「他人の目」が気になるときは、自分が癒しを求めているとき。ストレスのバロメーターとして活用しよう。

「他人の目」が気になる思春期の方へ

思春期は「他人の目」が気になることが多い時期です。

これは、この時期に身体が実際に変化すると同時に、親から離れた自分を確立するために「自分」に目がいく時期だということもあります。

また、特に女子などは「群れる」時期だということもあります。

小学校高学年くらいから、グループごとに群れるということが始まるのです。

そして、同質なものを求め、異質なものを排除するような空気が芽生えます。

これも、自分を確立していくための一つの社会経験なのでしょうが、そのような対人関係パターンが向かない人にとっては苦しいものとなります。

このころによくある「人がヒソヒソと話して自分のことを笑っているような気がする」というのは、大人であれば「人はそんなに他人のことを気にしない。妄想的」ということになるのかもしれませんが、実際に、思春期の子たちはヒソヒソと笑ったりします。

つまり、それだけ他人のことを気にしており、異質なものを排除しようとしていると言えるでしょう。

スポーツなどに熱中している人の場合、そういう傾向が低いのは、実際に他人のことをあまり気にしていないからだと言うこともできます。

「自分」という意識が出てくる頃には、「他人」にも目がいくようになる、と考えれば、わかりやすいかもしれません。

この時代に、ヒソヒソ笑いをされたり、あるいはもっとひどいケースでは疎外されたりした、ということを背景に、大人になってからの対人関係にもダメージが及んでしまう人もいます。

実際には、大人になってしまえば、それぞれにやるべきこともたくさんできますから、人は他人のことをあまり気にしないものです。

逆に、他人のことばかり気にして群れてヒソヒソ笑いをしている、などというのは子どもっぽい、社会的に不適切な言動として嫌がられるものでしょう。

ところが、思春期の対人関係様式を「人間の本性」だと思ってしまうと、大人になってからも「他人の目」が気になり続ける、ということになります。

そして、実際には何も気にしていない相手に対してすら、「自分はどう見られているのだろうか」ということを気にしてしまうのです。

思春期の環境は時に残酷です。

大人であれば、自分の環境が合わないと思えば変えることもできますが、思春期は基本的には親元にいなければならないし、学校もそうそう変わることができません。

学校というのは、案外社会から孤立した空間ですから、そこで苦しんでいる子どもが孤立無援のまま絶望を深めていかざるを得ない、ということもあるのです。

ですから、「他人の目」問題をはじめ、どうして自分の環境はこんなに苦しいのだろうか、と思うときがあったら、ぜひ信頼できる大人に相談してみて下さい。

それは親かもしれないし、親でないかもしれません。

「評価体質」の人でないほうがよいでしょう。

「評価体質」の人に話すと、「気にし過ぎ」「そのくらい自分で乗り越えなさい」などと言われかねません。

話しても大丈夫そうな、わかってくれそうな大人であればよいと思います。

その大人に、誰に相談したらよいかの意見を求めてもよいでしょう。

「大人になればもうこんなことは起こらないよ」
「これはこの時期に特徴的なものだけど、それにしてもたちが悪いから、学校からは距離を置いたら?」

などと、その状況を位置づけてもらえるだけでも違うと思います。

ポイント:思春期は「他人の目」を気にしがちな時期。苦しいときには、学校という閉鎖空間から離れた視野で話せる大人に相談を。