「偽りの自分」が現実の自分

統合と超越のために必要なことは、期待された役割を生きる自分をかけがえのない自分として受け入れることです。

「偽りの自分」を大事な自分として肯定的に受けとめることです。

「偽りの自分を生きている」「本当の自分を生ききれていない」。

こうした感覚は、多かれ少なかれ誰でも持っています。

人の中にいるときと、たった一人のときとで、変わらない人などいません。

人は誰でもいろいろな自分を持っており、対象と場面によって自分を使い分けているのです。

「偽りの自分」と「本当の自分」、「外に見せる自分」と「内面の自分」、このギャップに苦しんだり、このギャップに逃げ込んだり。

それが私たちが現実を生きる姿なのです。

「偽りの自分」も「本当の自分」も、自分以外の何者でもありません。

外に見せる自分も、内面の自分も、いずれも自分自身に他なりません。

とくに若いうちは、「本当の自分」の人生は、現在の自分と別なところにあると思いがちです。

そうではなく、将来も自分は自分にしかなれないのです。

これまでと違う別な人になることなどできないのです。

現在の自分という現実を出発点とし、その延長線上にしか将来の自分も自分の人生もあり得ないのです。

家族や周囲の人の思惑、義理やしがらみ、そうしたものに束縛されない「本当の自分」があるはずだ、という思いがあります。

そんなことはありません。

私たちは外界に適応することによってしか生存できません。

仲間、家族、学校、会社、社会の要請に自分を祈り合わせることによって生きていく存在なのです。

こうしてがんばってきたのが期待された役割を生きる自分なのであり、現実を担っているのは他ならぬ「偽りの自分」なのです。

他の人から見た「本当のあなた」とは、あなたが「偽りの自分」と思っている人物なのです。

「本当の自分」と思い込んでいるあなたこそ、他の人から見れば「偽りのあなた」に他ならないのです。

期待された役割を生きる自分を「偽りの自分」として否定することは、現実を否定することです。

現実から逃避することです。

「偽りの自分」を自分として受け入れ、他の人から認められることを求めなくても済むように、自分でしっかりと認めてあげることです。

期待された役割を生きてきた人は、「自分はよくがんばってきたな」と思えるはずです。

周囲の人も「がんばってるね」「えらいな」「安心して仕事をまかせられるよ」「いい人ね」などと言ってくれたはずです。

この褒め言葉を素直に自分として受け入れることです。

今、期待された役割を生きていることが自分を苦しめるとしても、遺伝的素質と置かれた環境のなかで、幼い自分にはその道しか選択のしようがなかったのです。

だから、「偽りの自分」をいとおしい大切な自分として受け入れ、褒め称えることです。

それは、いままでの自分とこれまでの生き方を賛美することであり、これからの人生をよりいっそう満足できるものに作っていく自分の力を信頼することにつながります。

偽りの自分を生きる人の人に尽くす喜び

「偽りの自分」を受け入れがたいのは、被害者意識が強いためです。

「親のせいでこうなった」とか「自分ではやりたくないのに親にさせられてきた」などと思うことです。

中年以降になってもなお、親に対して被害者意識を持っている人がいます。

それどころか、親が亡くなった年齢を越えてしまっても、親の被害者という意識から抜けられない人さえいます。

親が喜んでくれること、それが子どものよろこびとなり、目標となり、そのために自分をおさえてがんばるということは、生物学的にもまったく自然な姿なのです。

近年の脳神経科学や発達心理学等の発展は、偽りの自分ではなく、私たちには他の人の感情を自分のなかに再生し、他の人の願望や期待に応えて他の人の幸福に役立とうとする本性があるということを明らかにしています。

たとえば、脳神経科学は、何かを体験している他者を見ただけで、体験している人と同じ脳の部位が活性化するという現象を見いだし、この機能を受け持つ脳神経をミラーニューロンと呼んでいます。

これは、他者の心に共感する脳神経学的裏付けといえます。

マウスやアカゲザルを使った実験では、仲間の苦痛を取り去るためにバーを押してあげたり、自分が餌を手に入れることさえ我慢するなどの行動が示されています。

アカゲザルのなかには、仲間の苦痛を避けるために、自分が餌を食べるのを12日間も我慢したものさえいたということです。

犬など心通じ合うペットが、主人の悲しい様子に心を寄せるかのような行動を示すことがあります。

野生の動物は仲間を守るために闘うことが少なくありません。

母親が悲しい顔をしたとき、生後四ヵ月頃の赤ん坊が笑ったとしてもそれは自発的微笑反応と判断すべきですが、生後九ヵ月ごろになれば、自分が笑うことによって母親を慰めようとするはっきりした意図が読み取れることが指摘されています。

また、赤ん坊は、他の赤ん坊が泣いているとつられて泣き出しますが、一歳二ヵ月を過ぎることからは、泣いている子を慰めようとする行動が増えていきます。

4,5歳になれば、自分一人では我慢できないことも、自分より下の子の面倒を見るためならば我慢する、という行動が見られるようになります。

子どもでも大人でも、ボランティアなど、他の人に尽くすことによって心洗われる気持ちになります。

このように、偽りの自分とは違う他の人に役立とうとする心は、私たち人間にとって自然なものなのです。

自分が他の人の役に立っているということは、偽りの自分を演じている時とは違う、自然で心地よいものなのです。

相手によって自分の幸福を決めることが良くないことなのではありません。

他の人に喜んで尽くせること。

それ自体尊いことです。

それ自体人間の本性に根ざした喜びなのです。

ですから、他の人の喜びに奉仕してしまうということが期待された役割を生きる偽りの自分の問題なのではありません。

それが、そもそもの自分の感覚、感情、欲求と感じられるものと切り離されてしまうということが問題なのです。

このためにも、被害者意識という偽りの自分を捨て、人に尽くす心地よさを堪能するように心がけることです。

「共働きなのに、夫は家事を手伝ってくれないし、子どもの面倒も見ない。

『なんで私だけ?』っていう思いでした。

子どものときからそうでした。

私はいつも損な役回り。

兄も妹もいるのに、働く母に代わって、家事をするのは長女の私。

『なんで私だけが』っていつも思っていました。

でも、女性の悩みを語り合うある会に参加したことで変わりました。

そこでは、ただ本音で長い時間語り合うだけでした。

私はほとんど何も言えず、涙を流しながら他の人の話を聞いているだけでした。

それでも、他の人の言葉に照らして自分と家族を新たな視点から見直すきっかけになりました。

今は、家族の幸福に役立っていると感じられることが、私にとっての幸せ。

洗濯したり、食事を作ったり。

前は子どもと話すときは要求ばかりしていたのですが、今は子どもとのたわいない会話がとても楽しいひととき。

セックスはほとんどいつもしてあげる方。

夫が喜んでくれるということで満足。

その代わり、彼がしてくれる時は、思い切り自分を開放して甘えるの。」(四十代 女性)

期待された役割を生きる自分の長所

心理学でよく知られている隠し絵があります。

同じ絵が、見方によっては老婆の横顔に見え、見方によっては毛皮のコートを羽織った若い女性に見えるのです。

しかし、一つの絵が見えてしまうと、もう一方の絵を見るのがなかなか困難です。

期待された役割を生きる偽りの自分とは、見方によって短所となり、長所となるのです。

短所としてみてしまうと、長所を見逃してしまいます。

苦しみを生み出している期待された役割を生きる自分ではあっても、次のような多くの長所があるのです。

●すすんで人に尽くすことができる
●粘り強く努力できる
●周囲の人の気持ちに気を配ってあげられる
●責任ある丁寧な仕事をする
●誠実で真面目な生き方をする。

これらの特性により、周囲の人に心地よい感情をもたらし、周りの人を幸福にしているのです。

期待された役割の自分を生きている人は、まずはこのことを誇りにして、自分の喜びとすることです。

※参考文献:「いい人に見られたい」症候群 根本橘夫著