それぞれの家庭が社会の標準化刺激としての役割を十分に果たした時代には、大多数の子どもは学校という枠に比較的容易に適応できる資質を育てられました。

このために、学校は、家庭で育てられた性格的な偏りを修正する場所として機能していました。

ところが、子どもの性格の極端化のために、現在の学校は自分を表現し伸ばすよりも、自分を押さえて適応すべきつらい場所としての性格を強めることとなりました。

自分の心を開放し鍛えるよりも、自分が傷つかないよう自分の心を秘めて防衛すべき場所となりました。

中学三年生の女の子は次のように言っています。

「放課後同じクラスのコ、4人でしゃべってたとき、4人とも自分のことを二重人格だと思うって言った。

学校の門をくぐるとそこから『えんぎ』がはじまるって。

ヨーイ、スタートでパッと表情をかえて学校用に顔をつくるって。

家にいる自分と学校にいる自分は全然ちがう。」
(「進研ゼミ」中学講座編『学校で起こっていること 中学生たちが語る、いじめの「ホント」』ベネッセコーポレーション、1997年)

たしかに学校は、昔から楽しい反面、つらいところでもありました。

しかし、現在の学校は、昔以上につらい場所になり、子どもの心を傷つけやすい特性を強めています。

優劣が明らかになることで傷つく

学校では、同じことを同じ時間で達成することが求められます。

このために、どうしても優劣が明確になります。

劣っている現実を明らかにされることで傷つかざるを得ません。

また、日本では、偏差値による確固とした学校間格差が存在します。

比較的優劣への敏感さを持たない子どもも、高校へと進学する段階で、自分の優劣上の位置をいやというほど確認させられます。

優劣とは競争であり、相対的な自己価値の順序づけを争うことであります。

だから、大多数が負け組にならざるを得ません。

そして、こうしたことから形成されるプライドは、自分より下のものが居ることで保たれるものになります。

上の者に対する劣等感と下の者に対する優越感の同居という形でのいびつな自己価値感になります。

ストレスの発散により傷つく

学校では、エネルギーが非常に強い児童期から青春期に、狭い空間に多くの人間が押し込められ、長時間を過ごします。

また、ほとんど興味がないことにも取り組まなければなりません。

このために、学校は大きなストレスの場でもあります。

このストレスの発散がうまくできず、鬱屈すると、相手を傷つけて喜ぶ傾向が出てきます。

いじめたり、バカにしたり、陰口や悪口を言ったり、からかったり。

こうしたことで、標的になりやすい弱い子どもは深く傷つくことになります。

多様な個性の集まりのために傷つく

性格の極端化現象のために、教室は昔とは比べものにならないほど、多様な個性のぶつかり合いの場になっているのです。

このことと、傷つくことへの耐性が育ちにくいこととがあいまって、教室は傷つけあいの場になっています。

多くの子どもは、傷つくことから必死に自分を守っているという状況です。

守りきれないために、不登校や中退する子どももいます。

そして、そうした子どもは、強く生きられないふがいない自分に、深く傷ついています。

「学校で学んだ一番のことは、自分が傷つかないようにいかに仲間のなかで立ち回るかという術だった」。

この言葉を完全に否定しきれる学生は、そう多くありません。

集団の中でのショッキングな出来事

学校という集団の中でのショッキングな出来事は、深く心を傷つけます。

・ほかの友達から頼まれたお金を先生に渡すのをうっかり忘れてしまい、家に持ち帰ってしまった。
次の日、皆から盗んだと疑われた。

・クラスのお金がなくなったとき、犯人と疑われた。

・生理の手当てをしているのを男子生徒に見られ、みんなの前ではやし立てられた。

・自分は騒いでいなかったのに、朝礼のとき校長から名指しで叱られた。

・卒業式で賞状を受け取るときに、間違えて笑われた。

・ちょっとした行き違いから、仲良しグループから仲間はずれにされた。

・クラス全員からいじめを受けた。

少女は、ときに男子よりも残酷なことをすることがあります。

男子の単純で一過性の暴力的いじめではなく、自己価値感を破壊するような執拗ないじめをすることがあります。

こうした嫌な記憶を消し去ろうとしても消えず、大人になっても苦しんでいる人がいます。

こうした体験がきっかけで、性格が変わってしまったと語る人もいます。

学校は子どもの幸福のための制度という楽天的な誤解があります。

そうではありません。

日本における学校制度は、富国強兵政策の一環として始まったものです。

最初から日本の学校とは、国に奉仕する心と身体を持った人間をつくるために作られたものなのです。

戦後は教育基本法により、子どものための学校という性格を強めたことは事実です。

しかし、公的な制度ですから、どうしても画一化という性格を免れず、一人ひとりの子どもの楽しみや充実感、個性や要求等と合致しない部分が多いのです。

時間割一つとってみてもそうです。

たとえば、国語の「走れメロス」が面白いのでもっと読んでいたいと思っても、次の時間になれば、算数に興味を移すことを強制的に求められます。

どこの学校でも例外なく行われている時間割という制度は、全ての子どもの関心を時間区切りで強制的に他のものに移させる制度なのです。

子ども一人ひとりの幸福のための学校にするためには、行政も、親も教師も、そして子ども自身も、学校制度の画一性を打破しようとする大きな努力が求められるのです。

※参考文献:傷つくのがこわい 根本橘夫著