他人は自分とつきあうことを喜んではいない、というような自己無価値感に苦しんでいる人は、もう一つ別の感情をもっていることが多い。

それは自己罪責感である。

つまり、何か悪いことがあると、自分に責任がないのに、自分が悪いように感じてしまう。

何かグループで不愉快なことがある。

すると、自分が原因ではないのに、自分が悪いと感じてしまって、いたたまれない気持ちになる。

なぜであろうか?

不機嫌な人は、自分の自我が未形成であるから不機嫌になったなどとは、決して認めない。

不機嫌になった夫は、妻のあげ足をとり、そこに自分の怒りの原因を押し付ける。

父親が不機嫌になると、子供は常にその原因で責められる。

子どもは、自分が原因で父親が不機嫌になったと感じるように、強制されていくのである。

よく不機嫌になる人は、いったん不機嫌になるとなかなか機嫌が直らない。

悩み相談で、夫が、ハシの並べ方ひとつで不機嫌になり、夜中の2時、3時までネチネチと怒っているというものである。

「こういうように乱雑にハシを並べるのは、俺をたいせつにする気持ちがないからだ、俺は会社で疲れてるんだ、少しは俺に事もわかってくれないかなあ、これじゃあかなわないなあ、俺は本当に疲れてるんだ、並べ方そのものを俺はいっているんじゃないんだ、並べるときの気持ちを言っているんだよ、俺の言っているのは気持ちなんだよ、それが君にはわからないのかい、ひどいねえ、いったいどういうつもりなんだ。

かなわないなあ、疲れて帰ってきて、こんな不愉快な気持ちで食事させられるのは。

俺はまた明日仕事があるんだよ。

やだなあ、これだけ俺が一生懸命やっていて、しかもこれじゃ、俺も持たないよ、俺がこんなに家庭のことを真剣に考えるから、かえっていけないのかなあ。

君は俺を不愉快にして喜んでいるんじゃないのかい、俺をこんなにしちゃって、ああ、たまらない・・・」

このようにネチネチクドクドとやられたら、誰だって逃げ出したくなる。

しかし、妻は逃げ出せても、幼い子供は逃げ出せない。

そのうちに子供が、何か悪いことがあると自分が悪いと感じてしまうのは当然だろう。

あるうつ病患者は、小さい頃、元気がなくて、親に「元気がなくてすみません」と謝っていたという記憶を語ってくれた。

不機嫌な親は、子供の不機嫌に動揺する。

そして子供の不機嫌を責める。

「何が気に入らなくて、そんな顔をしているんだ。嫌だなあ、家の中が不愉快になって」
そうなると子供は、常に元気で笑顔をつくっていなければならない。

喜んでいなければならない。

喜んでいない状態は、子供に罪の意識を覚えさせる。

そのような家庭にあっては、元気でいること、喜んでいることは、子供の親に対する義務である。

義務をおこたれば罪責感をもって当然である。

子供は親の要求を内面化し、その要求を義務と感じるようになる。

したがって、「元気がなくてすみません」と親に謝るという、痛々しいことが起きてくる。

そのような子供が元気に楽しんでいる姿は、きわめて不自然な印象を与えるが、親は他人の気持ちには極めて鈍感であるから、それがわからない。

それはちょうど躁病者が楽しむ時の姿と同じなのである。

テレバッハの「メランコリー」のなかにも、それはよく記されている。

躁期間中に”喜ばなければならない”のにもかかわらず”喜べない”という状態は躁病者にとって、絶対的な苦痛となる。

まさに負い目を感じて生きている人は、喜ばなければならないのである。

喜ぶことによって、親を自己満足させなければならない。

喜んでみせることで親を無力感から解放させなければならない。

それができなければ、親の不機嫌に責められることになる。

かくて子供は、成長してから長期にわたって、不眠、非哀感、焦燥感、不安感に苦しむことになる。

そして、情緒的成熟は停止し、感情は本人から分離してしまう。

このような子供は、成長してから、他人の感情に責任を感じてしまうのである。

したがって、自分とは関係のない他人の不機嫌に巻き込まれてしまうし、何か不愉快な雰囲気がその場をおおうと、自分が責められているように感じてしまう。

よく会話が途切れたくうはくの時間に耐えられないという人がいる。

それはその人だけの責任ではないのに、耐えられなくなるのである。

要するに、このような子供は、成長してからも人間関係における要求水準が極めて高い。

他人をよろこばせなければならない、他人を愉快にさせなければならない、しかしこの要求水準に通常は遅れをとる。

そして、この遅れをとるという事態の本質が負い目を感じることなのである。

対人恐怖症、社交不安障害を克服したい人は、自分への要求水準を下げてあげることである。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著