劣等感をバネに

アドラーは劣等感は誰にでもあるものだと認めています。
劣等感それ自体は何も悪いものではありません。

まず、人は無力な存在としてこの世に生を受けます。
そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。
アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

簡単に説明すると「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」と考えていただければいいでしょう。

例えばよちよち歩きの子どもが二本足で立つようになる。言葉を覚え、周囲の人々と自由に意思疎通ができるようになる。我々はみな、無力の状態から脱したい、もっと向上したいという普遍的な欲求を持っています。

人類史全体における、科学の進歩にしても「優越性の追求」でしょう。

これと対をなすのが劣等感です。
人は誰しも、優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。

なんらかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。
しかし理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。

例えばサッカー選手なんかはその志が高ければ高いほど「まだまだ未熟だ」「もっとサッカーを極めたい」といったある種の劣等感を抱くでしょう。

アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。

劣等感も使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです。

ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。何もしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」とあきらめてしまう人たちです。

それは劣等感ではなく劣等コンプレックスなのです。

注意してください。現在我が国では「コンプレックス」という言葉が、劣等感と同義であるかのように使われています。ちょうど「私は一重瞼がコンプレックスだ」とか「彼は学歴にコンプレックスを持っている」というように。

これらは完全な誤用です。
本来コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等感とは関係ありません。

劣等感それ自体は、別に悪いものではないです。
アドラーもいうように、劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものです。
たとえば、学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから「わたしは学歴が低い。だからこそ、他人の何倍も努力しよう」とけっしんするのだとしたら、むしろ望ましい話です。

一方の劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを指します。
具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。あるいは、わたしは「器量が悪いから、結婚できない」と考える。

このように日常生活の中で「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは劣等コンプレックスです。

※参考文献:嫌われる勇気 岸見一郎著

 

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