反社会性パーソナリティは、倫理観の乏しさや他者に対する冷酷で搾取的な態度を特徴とするものだ。

他者に対する非共感的で、搾取的な態度という点では、自己愛性パーソナリティと共通する一面があるが、反社会性パーソナリティの人は、能力的にも低く、むしろ強い劣等感やひがみを抱えているのが普通で、その点は対照的である。

また規範意識の乏しさも相まって、暴力的な傾向も強い。

反社会性パーソナリティの人は、通常よりも危険なことに対して不安を感じにくく、命知らずな危険行為を楽しんだり、大胆不敵で、スリルや戦いを好んだりする。

こうした傾向が、ある種のアウトローな魅力にもなり、異性を惹き付ける場合もある。

進化論的に言えば、弱肉強食の時代や戦乱の時代においては、反社会性の傾向は生き延びるために有利であり、子孫をのこしやすかったため、反社会性の遺伝的素因が今日まで生き延びていると考えられる。

混乱した時代においては、善良な性質や思いやりのある性質が生き延びていると考えられる。

混乱した時代においては、善良な性質や思いやりのある性質が生き延びるのに不利だった場合もあるだろう。

それでも、反社会性の特性を備えた人が、社会にそれほど多くいるわけではなく、むしろ善良で、思いやりのある資質をもった人の方が今も大勢を占めているということは、長期的にみると、思いやりのある資質が、種として生き延びるのに役立ったということになるだろう。

ただ、社会構造の変化と利益至上主義の席巻によって、反社会的な特性にむしろ有利な状況が生まれているとも言える。

世界のトップに立つ指導者たちの顔ぶれを見ても、統治者として君臨するためには、善良で思いやりがある性質よりも、反社会性の特性の方が必要とされるということを示しているようにも思える。

社会のトップに立つものに、反社会性の資質が必要とされるという悲しい状況が、ある意味、人間の現実を雄弁に物語っているのである。

反社会性パーソナリティにも、知能が高いタイプがあり、そうした場合には、自己愛性の傾向も重なり、自分が相手を思いのままに操り、搾取できると考え、知能犯的な犯罪や他者への寄生がみられることもしばしばである。

独裁者はその最たるものと言えるかもしれない。

反社会性の人は、野生の獣のように縄張り意識が強く、にらみ合いながら暮らしている。

眼を飛ばすとか、眼をつけるということに、自己の威信をかけ、トラブルのきっかけにもなるように、他者への距離感というものにかなり過敏である。

縄張りへの侵入を許すのは、自分の配下だけであり、それ以外は排除しようとする。

間違っても、このタイプの人の縄張りに不用意に侵入し、挑発行為とみなされて、報復行動を受けないように、周囲をよく見渡して用心することは、いまのような平和な時代においても心得ておくべきことである。

アンドレ・マルローという生き方

後にフランスの情報相、文化相などの大臣を歴任することになる作家アンドレ・マルローの青春時代は、この世界の不条理性や反抗をテーマとした最初の作家らしく、極めてアウトローなものであった。

彼の名が最初に新聞に載ったのは、アンコール・ワットなどで名高いカンボジアのクメール朝仏塔遺跡の一つを盗掘し、運び出したレリーフの石像をアメリカのコレクターに売り払おうとしたかどで、当局に逮捕された事件を報じる記事においてであった。

つまり犯罪者として、最初にその名は世間に知れたのである。

1923年当時は、カンボジアはフランスのインドシナ植民地の一つであり、マルローは無罪判決を得るのだが、クメールの歴史や美術に関心や造詣があったとはいえ、今日的な基準で行けば、植民地宗主国の身勝手意外の何物でもなく、また、株で大損した穴埋めのため、盗み出したレリーフを、高値で売却して一攫千金を狙っていたという事情も、あまり同情はできないのだが、当時のフランスの前衛的な作家たちは、新進の作家であったマルローを擁護し、無罪判決を勝ち取ることになった。

このとき収監された体験が、不条理さと反抗という彼の生き方や文学的なテーマにもつながるわけであるが、少し冷めた見方をすると、世界を自分のもののように勘違いし、自分の思い通りにならないことに対して、それを不条理だと罵り、憤っているようにも見え、その本質は、自己愛的怒りと呼ばれるものに他ならないようにも思える。

彼はこの体験をもとに『王道』という作品を書いたが、そのタイトルにも、彼の意図とは別に、平凡では満足できず、英雄的な冒険の道を求めてしまう、歪に肥大した自己愛性の本質が現れ出ているようにも思える。

平穏無事ではなく、わざわざ危険を求めてしまう彼の生き方こそが”不条理”なのに、その生き方によって生じる世界との摩擦を、彼は不条理だと感じていたようにも思える。

むしろ問題なのは、彼はなぜわざわざ”不条理な”までに危険で、反抗的な生き方をしなければならなかったのかということの方だ。

この点、私は同じようなタイプの青年にたくさん出会ってきた。

彼らも人生の不条理さに対して、怒りを抱え、反抗することだけを生きがいに生きていた。

彼らは何に怒っていたのか。

ほとんどの青年に共通していたことだが、彼らが抱えている障害の本質は、親から適切に愛されなかったということだった。

本来、仲良く自分を見守ってくれるはずの両親が離婚したり、いがみ合っていたり、いなかったりしたということの不条理さに対する怒りから、すべては始まっていた。

それがやがて自分を認めてくれない社会への怒りへと変わっていく。

マルローはどうか。

マルローもまた、当時のフランスでは珍しく両親の離婚を経験していた。

彼が不条理と感じるものの根底に何があるのかと問い詰めれば、非行少年たちと、その本質において何ら変わらないように思える。

いや、だからこそ彼は、多くの人の心を捉え、時代の旗手となり得たのだ。

反社会的なパワーは、身を滅ぼすこともあるが、人を惹き付ける魅力ともなる。

反社会的傾向がつよすぎることは、人生を破綻させるだろうが、そうした要素も、生き抜いていくためには必要なのである。

真面目で、正しいだけでは生き残れないときもある。

カンボジアにまで盗掘に出向いていく行動力や、法や常識的な規範さえ恐れない反社会的な性向は、マルローの最大の魅力でもある。

彼が不条理と呼ぶ、神なき世界で、彼に生きる根拠を与えるのは戦、戦うことであり、セックスであった。

敵を征服するか、女を征服するかの違いはあれ、そこで追求されるのは、征服である。

征服されて死ぬか、こちらが征服するかというぎりぎりの戦いや冒険こそが、彼にとって生きるということだったのだ。

マルローは、インドシナで新聞を発行し、既得権層と戦い、中国国民党に入党し、革命を支援した。

第二次世界大戦中は、ゲシュタポと戦い、戦後はドゴール政権に加わって、今度は統治する側に身を置いた。

しかし、大臣の椅子に納まってしまっては、彼は自分の本質と自己矛盾を犯したことになり、もはやマルローはマルローでなくなっていたと言える。

反社会的な魅力は人間のスパイス

反社会的な一面を抱えた人がもつ野生の魅力は、飼い慣らされることを拒み、自由に一人で生きていく強さにも由来するだろう。

戦うことや孤立することを恐れない姿勢は、生き抜いていく上で有利な面をもつ。

社会適応に有利に働くパーソナリティの一つに、反社会性パーソナリティの傾向も含まれている。

悪いことや攻撃することも辞さないことは、相手の攻撃や身勝手な振る舞いを抑制し、有利に物事を進めていくことにもつながるのだ。

実際に殺さなくても、この人に逆らうと殺されるかもしれないと思わせることは、相手をコントロールする力をもつ。

それが現実なのである。

パーソナリティの反社会的な要素は、いわばスパイスのようなものである。

そればかりあっては毒でしかないが、少しくらいはあったほうが、人間的な魅力にも通じる。

悪いことなど一度もしたことがないというのでは、人間として面白みがないのである。

反社会性の味がするスパイスをどう使いこなすかは、親密さを操る技術の一つなのである。

※参考文献:対人距離がわからない―どうしてあの人はうまくいくのか― 岡田尊司著