口下手を克服する初め

たったひとりの戦い

恥ずかしがり屋の口下手な人はスポットライトを浴びたいと願いながらも、実際にスポットライトが当たると身を引いてしまうとジンバルドーは言う。

そのとおりである。

口下手な人は自分はスポットライトを浴びるに値しないと思うからである。

しかし、そんなことはない。

恥ずかしがり屋の人は十分にスポットライトを浴びるに値する。

自信を持ってスポットライトを浴びていい

普通の人は生まれてから必要な時には助けがあった。

もちろん普通の人の周囲にいた人も、人間である以上、完全な人はいない。

だから完全なサポートはない。

だが、必要最低限の助けはあった。

普通の人はたった一人で生きてきたわけではない。

苦しい時にはだれかがかばってくれた

けれど恥ずかしがり屋の口下手な人はだれもかばってくれなかった。

口下手な人は周囲の人から責められているときに、誰もかばってくれなかった。

母親さえもかばってくれなかった。

そんな人間環境のなかで生きてきたらだれだって強い人に迎合する。

それしか生き延びる方法がなかったのである。

恥ずかしがり屋の人に「迎合するな!」などと言っても無理である。

それは困ったときにだれかが助けてくれた人の言うことである。

恥ずかしがり屋の人はたった一人で戦って生きてきた

口下手な人はいじめられてもだれも助けてはくれなかった。

ひとりで耐えなければならなかった。

周囲の人の「何か役に立つ」ということ以外には生き延びる道がなかった。

だからうつ病になるような人は、「役に立っている」という感覚があるときに心理的に好調なのである。

周囲の人の役に立っているときに安心できる。

恥ずかしがり屋の口下手な人は生まれてからずっと心理的にはまったくの孤児である。

実際の孤児には孤児院がある

そこで保護される。

しかし口下手な心理的な孤児はどこからも保護を得られない。

そしてだれも助けてくれない。

当然のことながらだれも口下手な人に生き方を教えてくれない。

恥ずかしがり屋の口下手な人の特徴で、たとえば「自己主張できない」というが、それは当たり前である。

自己主張するように教えられていないのだから。

恥ずかしがり屋の人は自己主張の仕方を教わっていないのである。

だいたい親をはじめ周囲の人はだれも「こういうときにはきちんと自分の意志を言ったほうがいいんだよ」と教えていない。

さらに「自分の意志を伝えてもだれも不愉快になんかならないよ」と教えられていない。

彼らが成長したのは、そういう人間環境なのである。

現実の世の中には、実際に不愉快になる人もいるし、ならない人もいる

「マナーはきちんと守らないと周囲の人に嫌がられるよ」とか「そんな態度は周囲の人には不愉快なものだよ」とか「大人にもいろいろな人がいるから、煽てられていい気になっていては将来苦労するよ」とかなんでもいい。

とにかくなんでもいいから、「生き方」を教えてくれるような人が口下手な彼らの周囲にはいない。

そして口下手な人には「自分には価値があるのだ」という感覚をだれも与えてくれない。

「学校の勉強は自分なりのきちんとしておいたほうがいいよ」とか「自分にできることをきちんとすればいいので、『実際の自分』以上の真似をしなくても、あなたはあなたでいいのだよ」とか教えていない。

とにかく誰も自己肯定感を持つようには指導していない。

自分にできることをしてそれで立派なのだ、ということをだれも教えていない。

だから恥ずかしがり屋の人は自分を守るために迎合する。

あるいは人に優越しようとする

優越できないと口下手な人は自暴自棄になる。

努力しなくなる。

いずれにしても口下手な人は落ち着きのない生き方である。

口下手な人は真面目なのだけれども、「実際の自分」以上のことをしようとするから結局は実りのない人生になる。

最後は社会的にも挫折するか、挫折しないときにはものすごい不満を心の底に堆積させている。

恥ずかしがり屋の口下手な人は人間関係が理解できていない。

何をどの人に頼めばいいのかが理解できていない。

口下手な人の孤立感がもたらす心の闇

スタンフォード大学の心理学者レビンはサルに光を当てて、そのときに穏やかなショックを与えるという実験をした

そして突然ショックがなくなっても、光がフラッシュするとサルには恐怖の反応が起きる。

血圧が上がる、コルチゾールのレベルが上がる。

でもサルが仲間のサルといると反応は半分になる。

別の実験では血圧の上昇はなかった。

メランコリー親和型の人は血圧が高いとテレンバッハの著作『メランコリー』に出ているが、そのとおりである。

その原因の一つは、自分を助けてくれる人がだれもいないと感じていることからくるのではないか

現在の日本人の高齢者には血圧が高い人が多い。

いろいろと原因はあるだろうが、孤立感が大きな原因ではないだろうか。

お医者さんは血圧が高いというとすぐに塩分の摂り過ぎだとか、運動不足だとか生理的な事を言うが、そればかりが原因ではない。

オハイオ州立医大で免疫学を教えるロナルド・グレイザーと心理学者のジャニー・グレイザーは学生の調査をした。

試験のときにはストレスで免疫システムの細胞は活動が弱くなった。

しかし医学部の学生で友達や家族とつながっていると感じている学生は、孤立な学生よりも免疫の変化はなかった

恥ずかしがり屋の口下手な人にも家族や友人はいるが、自分を助けてくれる家族や友達はいない。

口下手な人は助けてくれないばかりではない。

その家族や友人がストレスの原因なのである。

普通の人は家族や友人に助けられるが、恥ずかしがり屋の口下手な人は家族や友人にいじめられるのである。

ふつうの人にとっては家族や友達はプラスであり、恥ずかしがり屋の口下手な人にとっては家族や友達はマイナスである。

恥ずかしがり屋の人は家族や友達のマイナスの感情の捌け口となっている。

それだけに恥ずかしがり屋の人のストレスは普通の人よりも強い

したがって免疫システムの細胞は活動が弱くなり、病気がちにもなる。

メランコリー患者も同じである。

口下手な彼らはなぜ助けを求められないのか。

「彼女は他人から恩を着るのが嫌だったから人に物を頼みたくなかった」(『メランコリー』)

みんなが親切だということも彼女の心をますます束縛するだけだった(『メランコリー』)

喜んで何かをしてもらった経験がない。

なぜか?口下手な人は恩を着せられて育っているから。

口下手な人は分離不安から人に近づけない

恥ずかしがり屋の人に近寄るのは困難である

そして口下手な人は人といると居心地が悪い。

恥ずかしがり屋の研究家として名高いジンバルドーは、恥ずかしがり屋の口下手な人が人に近寄るのが困難な原因として「臆病、警戒心、不信感」をあげている。

それ以外にも口下手な人は「低い自己評価」や「実際の自分以上の自分を他人に見せる」などがあるだろう。

そして、もっとも重要なのは、育つ過程で人と接するときに主導権をとることが身についていないということである。

恥ずかしがり屋の人は、小さいころ、たとえば病気になったときにお母さんが側についていてくれなかった。

お母さんにかまってもらいたくて袖を引っ張ったときに、お母さんは無視してあっちに行ってしまった

要するに口下手な人はお母さんが側にいてほしいときに、お母さんは側にいてくれなかった。

お母さんに話しかけた時にお母さんから望むような応答はなかった。

そうした体験が重なっている。

人格発達の分野で優れた業績を上げ、母子関係の研究者として世界でもっとも名高いボウルビィ博士の言葉でいえば「愛着人物の有効性」を信じられなかった。

恥ずかしがり屋の人は、小さい頃から分離不安に悩まされたのである。

分離という語はつねに、主導権が母親かあるいはほかの第三者によって握られていることを意味している

分離不安は、愛着人物の「接近性と応答性」についての不安である。

「接近性と応答性」とは、子どもは母親にいつでも接することができるし、接すれば母親は応答してくれるということである。

恥ずかしがり屋の人は小さい頃から、愛着人物に近づくのに、人に主導権をとられてきた。

自分の意志で好きな人に近づけない。

近づくのは相手の意志。

その状態が分離不安である。

その分離不安が恥ずかしがり屋の口下手な人にはある。

お母さんであれ、保育士さんであれ、愛着人物に近づくのは子どもにとってもっとも重要なことである。

口下手な彼らはそのことで主導権をとられてきた。

自分が近づきたいときに、好きな人に近づいていれば、自分の主導権で自分の欲求を満足させることを学習できる。

残念ながらそれが小さいころからできなかった。

口下手な人は他人とかかわりたくない

恥ずかしがり屋の人は他人とかかわりあいたくない

口下手な人は人と話をするのも気が進まない。

人と話すのにエネルギーがいる。

話すという事は頑張って話すということである。

リラックスして話すことができない。

人と一緒にいて相手に失礼になることをしないかといつも恐れている。

相手の話を楽しめない。

緊張して聞いている。

だから人と一緒にいることで消耗する。

長くなればクタクタになる。

パーティに出席すれば楽しそうにしていないとみんなに失礼になると思うから、楽しくないのに無理に楽しそうにする。

何かを聞かれれば無理をして楽しそうに笑って返事をする

口下手な人は沈黙になると身の置きどころがないから、話すことがないのに無理に話題をつくって話をする。

沈黙になりそうになっただけで、沈黙になったらどうしようと不安な緊張に襲われる。

だから話をしている間にエネルギーを消耗して、疲れる。

パーティが終わってホッとするが肩がコチコチに凝っている。

相手を見れば話すことは出てくるのだが、相手を見ないし、相手に関心がないから話がない。

恥ずかしがり屋でない人は、話をするのが楽しい。

話すのにエネルギーはいらない

逆に会話でエネルギーが出る。

恥ずかしがり屋の口下手な人を表すのに「寡黙」という言葉が使われる。

寡黙は、恥ずかしがり屋の人の他人に対する嫌悪感をよく表す言葉である。

しかし恥ずかしがり屋の人も、もともと寡黙であったというわけではない。

口下手な人は寡黙になるような人間環境のなかで育ったのである。

まず人間嫌いの人に囲まれていた。

そういう集団のなかで成長した。

話をすることを学習していない

どうしたら話ができるのかがわからない。

小さい頃に、人と触れ合って生きなかったことの悲劇である。

口下手な人は小さい頃に、楽しい話題で食事をしなかったことの悲劇である。

そこにいるのがおもしろくないときには話をしない。

黙っている。

楽しいときには話す

つまり恥ずかしがり屋の人が話をしたくないというのは、いる場所が楽しくないということである。

口下手な人はボロを出してはいけないと思っていたら緊張して饒舌にはならない。

これらのことを総合して考えると、要するに恥ずかしがり屋の人は「人が嫌い」ということである。

だから恥ずかしがり屋の口下手な人も、人の悪口を言うときには饒舌になる。

たまたまリラックスしたときである。

口下手な人は楽しい体験を避ける

恥ずかしがり屋の人は、人に近づくことが難しく自己主張や自己表現が難しい

ジンバルドーはそうした恥ずかしさの心理の結果として「新しい人に会ったり、友達をつくったり、潜在的によい体験をすることが難しい」と言う。

すでに恥ずかしがり屋の人は臆病で、警戒心があり、不信感を持っていることは説明した。

その結果、口下手な人はいろいろな新しい人間関係の体験には消極的になる。

口下手な人は引っ込み思案になる。

新しい人に会ったり、新しい友達をつくったりということを積極的にしない。

新しい人に会うことを嫌がる。

新しい人に会うくらいなら一人でいた方がいい

もちろん誰でも新しい人に会うことが、すべて結果としてすばらしい体験に終わるわけではない。

あるときにはイヤな体験に終わることもある。

しかし嬉しい体験になることもある。

それは接してみなければわからない。

恥ずかしがり屋の口下手な人は、そうした可能性のある経験をはじめからしようとしない。

恥ずかしがり屋の人は、嬉しい体験をする機会はあるが、その機会を活かせない

たとえば、たまたま隣に好きな人が座っても話しかけられない。

口下手な人は抑制型の人である。

恥ずかしがり屋の口下手な人は美人でもハンサムでも、その機会を活かせない。

チャンスを活かせるか活かせないかは人による

口下手な人は恥ずかしいから、歌わない。

下手だから、歌わない。

下手だから泳がない。

下手でも平気で泳ぐ人がいる。

恥ずかしがり屋の人は、人目を気にして、したいことをしない。

口下手な人はそのうちに自分のしたいことがわからなくなる。

下手だとみんなから笑われると思っている

口下手な人は下手なことが恥ずかしいことと思っている。

こうして泳ぐ楽しさ、歌う楽しさを捨てている。

恥ずかしがり屋の口下手な人はいままで人一倍頑張ってきたにちがいない。

しかし認めてもらえなかった。

そればかりか失敗したときには親からさえも叱責されてきた。

だから失敗するのが怖い。

人が怖い

口下手な人はそこでいままでの失敗のつらさを再体験することを恐れて、何事にも消極的になっている。

「うまくいかなかったらどうしよう?」と小さい頃からいつも心配だった。

何をするのも、自分の力を試されているような気がして心配だった。

そうしたら自分が嫌になるだろう。

自分が自分をもてあますだろう。

相手も自分のことをもてあますのではないかと恐れる

口下手な人は相手が自分といて楽しくはないだろうと思う。

そして、自分が楽しくないことを相手は察知するのではないかと恐れる。

そこで申し訳なくて萎縮する。

また、そう恐れれば恐れるほど相手に卑屈にならざるを得ない。

そして相手に迎合したり、相手に迷惑をかけてはいけないと恐れたりしてビクビクする。

ジンバルドーは恥ずかしさの結果として、潜在的によい体験をすることが難しいと述べている。

ところで、「潜在的によい体験」とはどういうことだろうか

ジンバルドーその内容を書いていないが、たとえば一緒に楽しく食事をすることであり、会話をしてお互いの心にふれることである。

大学生であるなら、ゼミの仲間と楽しく研究することであり、クラブに入って仲間と合宿することである。

ビジネスパーソンでも主婦でも同じことである。

一緒に仕事をしたり旅行に行ったり、おしゃべりをしたりする。

それは愛すること、楽しむこと、笑うこと、満足すること、自分の中に力を感じることなどであろう。

なぜ恥ずかしがり屋の口下手な人はこれらの体験ができないのであろうか。

それは恥ずかしがり屋の人が、心の底に憎しみがあるからである

口下手な人はまた、いままでそうした体験を楽しもうとして失敗した挫折経験があるからである。

その苦い気持ちを再体験したくないからである。

「体験することが難しい」とは、仲間と一緒にいてもそれが楽しくないということであり、また同時にそれらの体験の機会から逃げてしまうということであろう。

それらの体験を避けてしまうということであろう。

やればできるのに、恥ずかしがり屋の人はそれらの体験の機会を自分から避けてしまう。

恥ずかしがり屋の口下手な人には自分の心を鼓舞する体験が今までにない。

「楽しかったなあ」という思い出がない。

口下手の人はじつはエネルギッシュなはずなのに・・・

恥ずかしがり屋の人は利用する、利用されるの関係しか経験していない

口下手な人は「持ちつ持たれつ」という経験がない。

「持ちつ持たれつ」の長い時間があって、はじめて人は親しくなっていく。

恥ずかしがり屋の人は、温かい感情を表現しあう環境のなかで生きてこなかった。

憎しみの環境のなかで生きてきた。

人を思いやることをいつも感じながら成長してくれば自然と身につく習慣が、口下手な人は身についていない。

恥ずかしがり屋の人が助けを求められないもう一つの理由は、助けを求めることで人とかかわってしまうからである。

恥ずかしがり屋の人は人とかかわりたくない

それは恥ずかしがり屋の口下手な人がいままで、他人に巻き込まれて損をするという体験が多かったので、すでにそれを予想するからである。

さらに重要なことは、口下手な人は人が嫌いなのである。

恥ずかしがり屋の人は「食事をつくってくれ」と言えない。

彼らは自分を守るということは、自分の意志を伝え、親しくなることなのである。

口下手な人は食事中にテーブルの上の物を指して「それ取って」が言えない。

それはみんなが嫌いだから。

心理的に健康な人でも嫌いな人には頼みたくない

口下手な人は相手に「こうしてほしい」が言えない。

「あなた、コピーして。あなた、部屋を掃除して。お花を買ってきて。私はこれをするから」-これが親しくなるということである。

恥ずかしがり屋の口下手な人は、自分が相手にしてほしいことを要求しても愛され、好かれるということが理解できない。

自分が相手に何かを与えることによってしか愛されないと信じている。

事実、小さい頃にはそうだったのである。

環境が変わったのだけれども、口下手な彼の心のなかでは環境は変わっていない。

彼らは人から物を借りられない。

「貸して」と言えない。

恥ずかしがり屋の人と心理的に健康な人とでは、成長の過程でさらに大きな違いがある。

子どもをエネルギッシュにする親がいる。

逆に子どもを萎縮される親がいる

この違いは大きい。

川の流れに沿ってカヌーを漕いでいる人と、激流に逆らって漕いでいる人がいる。

流れに沿って漕いでいる人はスーと進んでいける。

しかし激流に逆らって漕いでいる人は死に物狂いで漕いでもなかなか進まない。

恥ずかしがり屋の口下手な人は、激流に逆らってカヌーを漕いで、ここまで生きてきたのである。

それはものすごいことなのである。

恥ずかしがり屋の人は、心理的に健康な人を見て、「エネルギッシュだなー」と思うかもしれない

しかし、ほんとうにエネルギッシュなのは恥ずかしがり屋の口下手な人かもしれない。

母親さえもが検察官であった人と、母なるものを持った母親に育てられた人とでは、育つ環境に天と地の開きがある。

子どもにとってもっとも重要な母親にプラスとマイナスの違いがある。

子どもをエネルギッシュにする親と、子どものエネルギーを萎縮させる親とがいる。

恥ずかしがり屋の人は親からエネルギーを殺がれながらも、なんとかここまで生きてきたのである。

「私はよくやった」と自分に誇りを持つのが当たり前である。

他方はエネルギーをポンプで注がれながら生きてきたのである

人間のパーソナリティはどう形成されてくるのか。

「大人のパーソナリティは未成熟な時期を通じての重要な人物たちとの相互作用、なかでも愛着人物たちとの相互作用の所産と見なされる。

したがって幸運にも、ふつうのよい家庭で愛情のある両親と一緒に成長してきた個人は、支持、慰め、保護を求め得る人達を、またその人たちをどこで見いだせるかをつねによく知っている。

これが繰り返されて出来上がる。

成人した時にそれ以外の世界を想像できない。

困難にぶつかったときに、いついかなるときにも彼に援助の手をさしのべてくれる信頼に足る人物がつねに存在するという無意識に近い確信を彼に与える」

愛されて育った人は、恐れを感じる事態に直面すれば、信頼できる人物を上手につかまえ、助けを求める。

それに対して恥ずかしがり屋の口下手な人は、恐れを感じる事態に直面してもだれにも助けを求めることができないで、ここまで生きてきたのである。

口下手な人はその自分に自信を持っていい。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著