とくに相手が子供の時に言えることだが、安全基地になることを妨げる要因として非常に多いのは、親が叱り過ぎてしまっている状況である。

そしてじつは、このことは、大人にも当てはまる。

部下を叱り過ぎる上司、配偶者を責めたりけなしたりする夫(妻)も、安全基地となることはできない。

叱られる側との関係が悪化するだけでなく、相手の自己肯定感や安心感を損ない、病気にしてしまうことも珍しくない。

そこまで深刻な影響が及んでしまうのも、叱ったりけなしたり責めたりすることが、虐待と同様、愛着システムにダメージを与えてしまうからだ。

ことに感情的に叱ることは、ダメージが大きい。

強いストレスを与え、症状や問題行動を表面化させたり、さらに激化させてしまう。

子どもの場合、叱れば叱るほど反抗的になり、もっと困ったことが起きるが、大人でも似たようなものだ。

叱れば叱るほど、責めれば責めるほど、駄目になっていく。

失敗は無論、悪いことをしたときも、感情的に叱るのはマイナス効果である。

親の金を持ち出すとか、嘘をつくといった事態に接すると、親は慌ててしまい、厳しく折檻を加えてしまうこともある。

しかし、そんなことをすると、逆にそうした問題行動を繰り返させてしまうことになりやすい。

行動療法の原理に従えば、罰を与えれば、その行動が減るはずなのに、実際にはそうはならない。

とくに、親が子を罰するような場合には、正反対なことも起きる。

なぜだろうか。

その理由も、愛着モデルで考えれば納得がいく。

罰を与えることがさらに愛着にダメージを与え、そのマイナスの影響の方が、罰による抑止効果を上回ってしまうと考えられる。

叱ったり、罰を与えたりしても、うまくいかないのである。

ところが親自身(上司や配偶者の場合でも同じ)に愛着障害があり、とくに親もその親から虐待されたことによる未解決な課題を抱えているという場合には、知らず知らずのうちに親が自分に強いたことと同じことを我が子(部下や配偶者)に強いてしまうことも多い。

怒りのスイッチが入ると、頭が真っ白になり、誰か別の存在に操られるように、激しく怒鳴ってしまうというケースもある。

過去のトラウマが無意識的な支配を及ぼして、自動的な反応を生み出しているので、いくら注意していても、スイッチが入るとコントロールできないということになりやすい。

軽い解離状態が起きている場合もある。

こうした場合には、トラウマケアを併用したり、薬による治療を併用することも助けになる。

このように、治療すべき親は(上司、夫)の方であるということも珍しくない。

子ども(妻または夫)に薬を飲ませるよりも、親(夫または妻)が薬を飲んでイライラしなくなったことで、子ども(妻または夫)の問題がなくなってしまうということも起きるのである。

繰り返しになるが、とくに子どもの場合、叱れば叱るほど、行動の問題が悪化することは、無数の例が証明する事実である。

同じ轍を踏まないようにしてほしい。

むしろ
1.良い行動をしたときにほめるようにし、
2.このましくない行動は無視したほうがいい。

ただ
3.どうしても看過できない、生命にかかわるような重大な問題行動については、しっかり反省させることも大事だ。

このように大きく三つに分けて対応すると良いだろう。

叱れない関係もまずい

ただし、中にはまったく叱れないという場合もある。

この場合も、安全基地としては、うまく機能しない。

そこが安全な避難場所であるためには、少々のことではびくともしない頑丈さや危険から守ってくれる強さも必要なのである。

我々が幼子だった頃、母親がどれほど大きな存在だったか覚えているだろうか。

まるで神のように万能な力を持ち、どんな問題にも対処してくれると同時に、いけないことは「駄目!」と言って、しっかり止めてくれる。

地団駄を踏もうと、有無を言わせず抱えあげられてしまえば、もう抵抗などできない。

しかし、それは決して暴力的な攻撃や強制ではなく、愛情を込め、身を挺して守ってもらえているという安心感がそこにはあったはずだ。

まだニ十歳のアン・サリバン女史が六歳のヘレン・ケラーに出会ったとき、ヘレンは、何の躾も教育も施されず、手づかみで食事をし、他の人の皿にも手を伸ばし、少しでも自分の欲求を邪魔されると、癇癪を起こすという状態だった。

ヘレンは、一歳七カ月のときにかかった熱病の後遺症で、視力と聴力を失った。

娘を不憫に思った両親は、ヘレンが何をしても叱らず、やりたい放題にさせていたのである。

このためサリバンが何かを教えようとしても、気に入らないことは一切受け付けようとしなかった。

また躾をしようとしても、父親のケラー大尉がすぐ横やりを入れてしまうので、埒が明かなかった。

その事態を何とかしようと、サリバンは、ヘレンと二人だけで暮らさせてほしいと申し出る。

ケラー大尉も同意して、離れの家で二人の格闘の日々が始まる。

サリバンはヘレンに食事のマナーを教え込もうとするが、ヘレンは頑なに受け入れようとしない。

この段階で、ヘレンがサリバンに対して示していた特徴的な反応は、体に触れられることを強く拒否するということだった。

一緒に寝ることも嫌がった。

しかし、他に頼れる人がいないと観念したヘレンは、次第にサリバンを受け入れ、体に触れられることや、一緒に寝ることも受け入れるようになる。

そうなると、ヘレンは、サリバンに親しみを覚えるようになり、その指導も受け入れるようになる。

サリバンに対して生まれた愛着のゆえに、相手を異物とみなして戦うのではなく、相手を受け入れることができるようになったのである。

いったん二人の間に信頼関係が生まれると、ヘレンは進んで学ぼうとするようになり、サリバンがヘレンと格闘する必要も一切なくなったのである。

そうなるまでの期間は、意外なほど短かった。

あの奇跡的な変化までは、何カ月も何年も要したわけではないのだ。

わずか二週間でヘレンは別人に成長していたのである。

安定した愛着が生まれてしまえば、不必要に叱る必要もないが、安定した愛着を生むためには、体を張って向き合い、格闘するような時期も必要だったのである。

このことは、障害の種類や事情はまったく異なるものの、少年院で非行少年と法務教官が向き合い、体を張って格闘する状況と重なるところがある。

愛着には身体的な要素が強い。

体や心が痛むことを嫌って、腰が引けた対応しかできないのでは、やはり本当の安全基地にはなれないのである。

一番いいのは、幼い頃、それが必要だったときに、親がしっかりそうした対応をすることである。

ところが、親の方に叱れない引け目があったり、可愛すぎて愛情に溺れてしまうと、後に禍根を残すことになる。

時期が遅れれば、その分対応は大変なものになるが、体を張って止める覚悟がなければ揺るぎない愛着を取り戻すことは難しい。

求められたら応える―感受性と応答性

安全基地となる上で、もう一つ重要な原則は、応答性である。

応答性とは、一方が何かすれば、もう一方が、それに反応することである。

何か言えば、振り向くなり、笑うなり、返事をするなり、とにかく反応する。

求めたら、応える。

最悪なのは、何も反応がないことだ。

つまり、無反応や無視することである。

反応が乏しいと、それだけで印象や好感度が悪くなってしまうのは、それが安全基地の条件から大きく外れてしまうからである。

そのことは、生物学的に何千万年もかけて、われわれに組み込まれているので、反応の乏しい人に対しては、生理的な不安や警戒心が湧き起ってしまう。

能面のような顔は、不気味で怖い。

何の悪意もなくても、仏頂面を見ると、自分のことを拒否された、否定されたと思ってしまう。

愛着は元来、子どもを危険から守るために進化したと考えられている。

安全基地である存在は、文字通り、子どもに危険が迫った時、そのことを素早く察知して、ただちに保護するための行動を起こす必要がある。

そのためには、安全基地となる存在は、子どもだけでなく、その周囲にも目を光らせていなければならない。

子どもが泣き声を上げても、それを聞いていなければ、応えることはできない。

万一に備えて、神経を張り巡らせていることも必要になる。

そうしていて初めて、いざというときに素早く応答できるのだ。

これは、「高い感受性」とエインワースが呼んだ特性でもある。

感じ取れなければ、応えることもできない。

高い感受性と高い応答性は、二つで一組なのである。

ただ求められたら応えるというだけでなく、いつも気を配っていることも大事なのである。

求められたら応えると聞いて「求めるまで放っておいたらいいのですね」という方がいるが、それは少し違うのである。

放っているように見えるときも、ひそかに目を光らせて、何が起きているのかをさりげなく見守っていることが求められるのだ。

もちろん、成長と共に、本人に任せていくという事はあるが、決して放っておくという事ではない。

いつも心にかけ、気づかっているという姿勢が大事である。

※参考文献:愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる 岡田尊司著