回避型か不安型かにかかわらず、愛着障害の人の結婚でよくみられるのは、愛着の傷を抱えた者どうしが、その場を共有するがゆえに結ばれるというケースである。
エリクソン夫妻も、そうした一例だが、児童文学者トールキンとその妻イーディスのカップルも、同じような傷を抱えていた。
トールキンが十二歳の年、前年あたりから体調を崩していた母メーベルが亡くなると、親戚から孤立していたトールキン兄弟は、事実上の孤児となる。
母親が後を頼んだカトリック教会の神父モーガンは、兄弟を下宿屋に預けるが、そこでの生活はみじめで、淋しいものだった。
下宿屋の女将は情愛に欠け、兄弟にとって形見の品と言える母親の手紙をゴミ屑のように燃やしてしまったのだ。
兄弟の暗い表情から事態を察したモーガン神父は、新しい下宿屋を見つけ、二人をそこに移す。
その下宿屋には、一人の控え目な少女が下宿していた。
その少女もまた孤児の身の上で、しかも、私生児として生まれ、父親の名前さえ知らないという境涯にあった。
ピアノが得意であったが、女将への遠慮から一日中縫い物仕事をして過ごしていた。
その少女こそが、後にトールキンの妻となるイーディスである。
このとき、トールキンは16歳、イーディスは19歳だった。
境遇の似た二人はしだいに惹かれ合っていく。
学校時代のトールキンは、友人たちとの関係を表面上は楽しみながらも、彼らにすっかり心を許したわけではなかった。
学校という場では、自分の不幸な身の上を忘れていられるが、私的な交友をしようとなると、たちまち境遇の差を思い知らされることになるからだ。
トールキンは、ありのままの自分を受け止めてもらえる存在を必要としていた。
それが、イーディスだった。
二人には、他人の慈悲にすがって生きるという、言うに言えない苦労を嘗めたものにしか、共有できない心中があった。
トールキンは、イーディスとの結婚を考えるようになる。
この恋愛に異を唱えたのが、後見人のモーガン神父だった。
これから大学進学を控えた若者が、恋にうつつをぬかし、しかも、相手が年上で、満足な教育も受けていない私生児の女性ということになれば、トールキンの将来を考える後見人としては反対せざるを得なかったのである。
悪いことにトールキンは、大学進学のための条件である奨学金の試験に落ちてしまっていた。
そのためイーディスとの交際を21歳の成人まで禁じられる。
トールキンも、父とも慕うモーガン神父の反対とあっては、逆らうことはできなかった。
二人は別々の下宿に移り、トールキンは奨学金の試験と大学受験に向けて勉強に励んだ。
元来は禁欲的で勤勉なトールキンのことである。
恋愛断ちの効果もあり、みごと両方の試験に合格し、オックスフォードへの進学を果たす。
トールキンはオックスフォードでの大学生活を楽しみ、言語学の研究に取り組みながら、イーディスのことなどすっかり忘れたかのように生活していた。
三年の間、彼女に手紙の一通も書かなかったのである。
しかし彼はイーディスのことを諦めたわけではなかった。
大学に無事進学し、成人になれば、イーディスに正式に求婚しようと心に決めていたのだ。
手紙を書かなかったのは、モーガン神父との約束を守ったからだった。
ようやく成人になったトールキンは、イーディスに求婚の手紙を書いた。
ところがイーディスは、トールキンから何の音沙汰もないことに不安になり、周囲の勧めもあって別の男性と婚約していたのである。
だが、トールキンからすれば、成人すれば一緒になるということも、手紙を書かないことも、約束を守ったにすぎなかった。
納得できない彼は、引き下がらなかった。
イーディスの方も心から望んで婚約していたわけではなかった。
彼女はトールキンに説得されて、婚約を破棄する決意をする。
それは、寄る辺ない身の上の彼女からすると、相当に覚悟のいることであった。
普段は控え目かつ、他人の顔色に敏感で、争いを好まないトールキンもイーディスも、このときだけは本心に従った。
その結果イーディスは、これまで頼ってきた人たちを裏切ったことで非難を浴び、縁を切られ、住まわせてもらっていた家も引き払わなければならなかった。
しかし、彼女が払った婚約破棄の大きな代償に対するトールキンの反応は、どこか他人事のようだった。
同じ回避型スタイルの持ち主でも、トールキンは、よく言えば楽観的、悪く言えば自己中心的な傾向があるが、それは、母親から愛され、肯定されたことで育まれた自己肯定感と不可分だった。
それに対して、私生児で生まれたイーディスの方は、母親の愛情が必ずしも安定したものではなかったため、その分、不安も強かった。
ともあれ、そういう二人が運命的に出会い、幾多の困難を乗り越えて、結ばれることとなったのである。
幸福な結婚生活
その後、そんな二人の前途がいかなるものとなったか、気になるところである。
二人が結婚したのは、トールキンがオックスフォード大学を卒業した翌年のことだった。
しかし第一次世界大戦が始まっていたため、新婚気分を味わう間もなく、トールキンは兵士として前線に送られることになる。
彼がたどり着いたのは、激戦地として有名なフランスのソンムであった。
雨に濡れたまま何日も塹壕で過ごさなければならない過酷な状況で、トールキンも塹壕熱に倒れる。
だが、それがトールキンの命を救った。
彼は後衛に送り戻され、再び前線に戻されることはなかった。
落ち着いて結婚生活を営めるのは、除隊してからのことである。
その間、長男がすでに生まれており、イーディスの苦労は並大抵ではなかった。
トールキンは大学を出たとはいえ、辞書の編纂の手伝い程度の仕事しかなく、収入は家計を支えるにはまったく不十分だった。
そのため、とにかく生活費を稼ぎ、暮らしを安定させる必要があった。
だが、トールキンにとって、「必要は発明の母なり」であった。
トールキンは、研究だけでなく、生計を立てるための仕事にも精を出した。
どんな仕事も手抜きなしで熱心に取り組んだので、教師としての評判もとてもよかった。
やがてリーズ大学に招かれ、四年後、32歳の若さで教授に昇進する。
さらにその半年後、オックスフォード大学の教授に選ばれる。
こうした職業的な成功を支えたのは、イーディスとの家庭を守ろうとする思いだった。
三男一女に恵まれたトールキンは、また子どもとの関わりをとても大切にした。
どんなに忙しくても、毎年子どもたちのために絵入りの手書きのクリスマスカードを作成し、サンタクロースからのようにみせかけて贈った。
お話しをして聞かせることもよくあり、『ホビットの冒険』などの名作のアイデアも、その中で生まれたものだった。
子どもたちに良い教育を受けさせるために出費を惜しまなかったのは、母親と同じであった。
子どもたちの学費を稼ぐために、トールキンは試験官のアルバイトをしたり、多くの講義をこなした。
回避型愛着スタイルの人は、子どもをもつことや家庭生活を営むことに消極的な傾向がみられがちだが、トールキンの場合は、イーディスへの愛を貫き、子どもや家庭をもったことが、重荷となった以上に、働くことへの原動力や生きる張り合いとなった。
創作の世界においても、子どもたちへの愛情という要素がなければ、世界中から愛されるトールキンの物語の世界は成立していなかったであろう。
イーディスは引っ込み思案で、あまり社交を好まなかった。
自分の出自や満足な教育を受けていないことへの引け目もあり、教授のご夫人たちの集まりにも溶けこみにくかった。
だが、表舞台で活動しない分、家庭生活を大切にし、夫が心おきなく仕事に取り組めるように内助の功に徹したのである。
そのことがかえって、家庭生活を落ち着いたものにするのに役立った。
夫と子どもだけが彼女の世界だったことが、むしろメリットになったのである。
※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著