~すべきの多くは、本当はどっちでもいい

「自分を中心にする生き方はすごくシンプルでラクだろうなと思うけど、反面『感情的になってはいけない。冷静でいなければならない。相手を責めてはいけない。怒ってはいけない。争ってはいけない。素直でなければならない』と要求されているようで、ちょっと息苦しいな」

「感情を言葉にしましょう」と言われると、彼女はそれをどんな感情も言語化『すべき』といういわば『べき思考』で解釈し、逆に「怒るべきではない。悲しむべきではない」という受け止め方をしてしまうのでした。

「感情的になるべきではない」とは一言も言っていません。

物事を『べき思考』でとらえると、例えば「感情はコントロールできる」と言えば、「感情はコントロールすべきで、それをできない人間は失格だ」ととらえるでしょう。

「マイナス感情をエスカレートさせなくてもいいはずだ」と言えば、「感情をエスカレートさせてはいけない」ととらえてしまうでしょう。

彼女がこのような『べき思考』に縛られ、カウンセラーの話を指示や命令だと受け止めて、自分に強制しようとすれば苦しくなるのは当然でした。

同じ言葉を使っても、その言葉の拘束力をどの程度の強さで受け止めるかは、人それぞれです。

「例えば、あなたは、『自分は変わらなければ』という言葉を使うとき、どの程度変わらなければいけないと思って使っている?パーセンテージで言えば、それはどのくらいだろう。50%、60%?」

「もちろん100%。絶対。完全に」

彼女がカウンセラーの話に同意して、「変えなければならない」と解釈するとき、それを「100%。絶対。完全に」と考えて自分に強制すればプレッシャーになるでしょう。

他者を中心に生きている人は、こういうふうに、自分で自分を束縛してしまう傾向にあります。

しかし、彼女にとっての『なばならない』はそうであっても、その『ねばならない』をもっと低いパーセンテージで「少しでも変わればいいんだ」という程度に受け止める人もいます。

「私が話していることは、提案にすぎないわけでしょう。仮に私が正しかったとしても、それを受け入れるかどうかは、あなたが自分の意思で決めることじゃないかな。

あなたにそう『すべき』だと強制しているわけではないのです。

あなたが自分に合わなければ、採用しなくてもいいわけでしょう。

しかも、その『すべき』だって、絶対にすべきととるか、少しずつ努力しましょうととるかで違ってくると思います。」

それに世の中に『すべき』というものがそれほどたくさんあるとも思っていません。

自分が『すべき』と信じていることは、たいていの場合、『してもいいし、しなくてもいい』ものなのです。

ネガティブ感情が”心の傷”を教えてくれる

彼女が感情を抑えて冷静でいなければと思ってしまったのには、もう一つ理由がありました。

それは、彼女が感情を「マイナスなものとしてとらえている」ということです。

彼女はネガティブ感情を抱きやすいために、感情的=マイナスととらえ、感情的であることに罪悪感をもってしまったのでしょう。

しかし、たとえマイナス感情であっても、肉体の痛みが肉体の疾患の場所を教えてくれるように、心の傷を傷として教えてくれる大切なものなのです。

そんな感情を、二つに分けて考えています。

一つは純粋に自分のために感じる感情。

これは癒しと浄化につながります。

「第一の感情」と呼んでいるものです。

もう一つは、他者を支配したりコントロールしたりするために使われる感情。

他者を操作する目的で使われるので、癒しや浄化にはつながりません。

これは「他者を中心にした感情」「第二の感情」と呼んでいます。

例えば、子どもが親に叱られた時、いつもは黙ってうつむいていたが、あるとき涙を流したら親が許してくれた。

その次も涙を流したら許してくれた。

こういうことがつづけば、子どもは「涙を流せば許してくれる」ということを覚えるでしょう。

これは涙を、相手をコントロールするために使っていると言えるのではないでしょうか。

「あなたは彼の前で泣いたことがありますか?」

「ウーン、独りで泣くことが多いから・・・。でも、何度か、あります。」

「あなたが涙を流したとき、彼はどういう反応を示していましたか?」

「そう言えば、ケンカしたとき、私が泣きだしたら急に謝ってくれたりしたことがありました。」

もし「ケンカをして彼女が涙を流す」というやり方を何度も繰り返して、それがうまくいくようになると、彼女は何を学ぶでしょうか。

「彼とケンカになったら、涙を流せばいいと思います、きっと。意識的にそう考えなくても、彼が怒ると条件反射みたいに涙が出てくると思います。」

むろんその涙の意味するところは、相手に自分を認めさせたいということなのでしょう。

このように我々は自分の目的のために、涙を流す以外にもいろいろな感情を使って相手を操作しているものです。

例えば、怒りで自分に従わせようとする。

ムッとふくれっ面をして主張する。

あきらめ顔で我慢する。

このあきらめ顔も、無気力や無力感という態度で主張していると言えるでしょう。

しかし、相手と心を通い合わせたいならば、「感情を使って相手を支配しようとする」より「自分の気持ちや感情を言葉にして伝えてみましょう」

同情という支配

カウンセラーは「感情を使って相手を支配すること」を端的に伝えるために、いまにも涙を流しそうな悲しげな顔をつくり、助けがほしいという悲痛な瞳で、彼女にこんな言葉を語りはじめました。

「お母さんがこれまでどんなに苦労してあなたを育ててきたか、知っているの?お父さんは仕事しないし、育児もしないし。私はあなたを家に置いとくわけにはいかないから、あなたの手を引いて仕事を探して回ったのよ。

誰の助けも借りずに、血を吐く思いであなたを育ててきたのよ。

あなたが大きくなって、やっとこれでラクができると思ったら、今度は苦労して育てたあなたまで、私を捨てて去ってしまうというの?

辛いばっかりで、楽しいことなんて一つもなかったわ。

どうして私だけがこんな目にあわなくちゃいけないの」

「わあ、なんだか辛いです」

「もしあなたの母親がこんなふうに言ったとしたら、家を出て独立できますか?」

「いいえ、出て行けません」

「それでも振り切って出て行こうとしたら?」

「すごく悪いことをしているような気がして、自分を責めてしまいます」

これが”同情”という名の支配。

例えば、子どもが結婚して別の家庭を築いて暮らしているとしますね。

そこへ母親が毎日毎日、過去を引っ張り出してきて「私は不幸だった。私は不幸だった」と、自分がいかに不幸だったかを延々とグチるとしましょう。

母親は、子どもが楽しそうにしていると、自分が取り残されたような気がして「私を残して旅行に行った。私に内緒で食事に行った。私をのけ者にして、私が知らない話題で楽しそうにしている」と、訴え続けます。

そのとき子どもは自分の幸福をどう感じるでしょうか。

「自分が幸福であろうとすると、罪の意識を覚えるでしょうね」

「そう、自分が幸福であることを許せなくなります」

子どもは不幸な母親を差し置いて、自分が幸福なのは不当だと思ってしまうでしょう。

自分が幸福になる前に、母親を幸福にしてあげなければならないと考えます。

しかし、母親は同情を引くやり方しか知らないため、相手が自分の同情に乗って、不幸でいてくれなければ満足できません。

こうした同情と本当の愛との違いはどこにあるのでしょうか。

「協力したい。できるだけ力になりたい」が愛情だとしたら、「協力しなければ悪い。協力を断ろうとする自分はなんて冷たいんだ」と自分を責めてしまうのが同情でしょう。

「あなたが手助けを求められたとき、その手助けを断ろうとすると後ろめたさや罪悪感をもってしまうというのなら、それは相手があなたを同情で支配しようとしているのかもしれない、と考えてみるといいです」

同情の支配への対処法

「それじゃあ、相手が同情を求めてきたら、どうすればいいの?手助けするなということなの?本当に困っている場合もあるでしょう」

「力になりたいと思う気持ちは大切です。でも、相手が同情を求めてきたとき、それに乗るか乗らないかはあなたの選択でしょう。

同情に乗ってしまったら、極端な話、相手が一緒に死のうと言ったら一緒に死ななければならない」

大事なことは、「自分が納得できるかどうかを基準にして関わる」ことです。

もちろんその根底には、相手を愛する気持ちがあります。

あなたを大切に思う気持ちは変わらない。

自分の気持ちを気づいて感じて表現して手放す

これまで『同情』という「他者を中心にした感情」「第二の感情」についてお話ししてきました。

今度はもう一つの感情、「第一の感情」について考えてみましょう。

恐怖や不安、心の傷や手放せない憎しみなどは、それを自分を中心にして表現し、その気持ちよさを実感したときに癒すことができます。

決してそれは、相手を支配したりコントロールしたりしようとするためのものではありません。

心の癒やしや浄化につながるのは、こうした自分の感情の表現と体感です。

プラス感情だけでなく、マイナス感情でもそれは同様。

自分のために流す涙、哀しみや怒りや憎しみを感じている自分、不安や恐怖を感じている自分、それを素直に認めて、そういった諸々の感情を自分のために味わうことができれば、それが癒やしと浄化になるのです。

しかし、涙を支配や操作に使おうとしているときは、人に悲しそうにしている姿や泣いている姿をみせたいという意識が働いているために、自分の純粋な感情を、自分のために感じることができません。

例えば「私を傷つけた相手が憎い」とその感情を相手に向かわせるのと、相手に傷つけられて「私はこんなに傷ついている」という思いを味わうのとでは、どちらが癒しにつながるでしょうか。

「『彼が憎い』と思うと苦しい。でも『私は悲しい』と思うと心がかわるわ」

「その悲しいという感情だけをみつめて、味わってみたらどうなる?」

「・・・自分がとてもいとおしくなる。もっともっと私を大事にしてあげたいという気持ちになります。それに、心が自由になったみたい・・・」

この瞬間、彼女の体の中で変化が起こっていました。

体の硬直が溶けていったのです。

繰り返しますが、自分を大事にするというのは、こういうことなのです。

その時々に起こる自分の感情や気持ちに気づいて、それらを丁寧に扱って味わう。そしてそれらを言葉で表現して、自由になる。

感じて表現して、手放す。感じて表現して、手放す・・・。

そこには相手を支配したり、操作したりしようとする意識はありません。

なぜなら相手に無理やり理解を求めなくても、自分自身が自分の最良の理解者となれるのですから・・・。

逢いたいと大切にするか逢えないと否定的になるか

私は彼女に自分を中心にして、彼へのいまの気持ちを言葉で表現するように頼みました。

「いまもあなたが好き。彼女がいると知ったときは傷ついたし、悲しかった。許せないという気持ちと好きだという気持ちの両方を行ききするけれど、やっぱり忘れられない。すごく逢いたい。でも、逢えない」

私は待ったをかけました。

彼女の思考が否定的なほうへと向かいそうな気がしたからです。

「逢いたい」という気持ちに焦点を当ててその気持ちを味わうと、そこでいったん思考がストップします。

そしてそのまま自分の気持ちを味わっていると、「あのときは楽しかった。充実した日々を過ごしたんだ」というふうに、自分を中心にした体感へと流れていきやすいでしょう。

しかし「逢いたい、でも逢えない」とつぶやくと、「でも逢えない」というところに意識が集中してしまい、「彼の裏切りが許せない」と他者に意識を向け、相手を責める方向へと流れていってしまいます。

「逢いたい」という気持ちを大事にしてその気持ちを味わうか、「逢いたい、でも逢えない」とつぶやきつづけて思考を否定的な方向へと拡大させていくか、そのどちらを選ぶかは、彼女が自分で決められること。

そういう見方をするなら、感情はコントロールできないものではなく、自分が選んでいるとも言えるのです。

彼女は再度「逢いたい」という気持ちに自分を引き戻し、味わいました。

そうやっていると、彼との思い出が息を吹き返してきます。

やがて彼女の中から憎しみの感情が影をひそめ、楽しかった彼とのさまざまな光景がよみがえってきました。

二人のはしゃぐ声が聞こえる。

彼の楽しそうな顔が浮かぶ。

彼女にとって彼が憎いと思う気持ちが事実とするなら、彼との楽しい過去も事実であるはずです。

彼は最後に裏切ったかもしれませんが、彼との素晴らしい体験も無数にありました。

「すごく楽しかった・・・」

自分の気持ちに焦点を当てていると、最後には、自分をいたわり慈しむ気持ちが生まれます。

しばらくの間、私はそんな彼女を見守りました。

そうしながら、私は彼女を美しいと思いました。

そして、こんなふうに自分の気持ちを大切に扱うことができれば、いつか、自分の人生のひとコマを一緒に彩ってくれた彼やその日々に対して、感謝したくなるときがくるかもしれない、そう思いました。

彼はそんな彼女の貴重な相手役だったのです。