二段構えの課題

回避的な生き方を克服しようとするとき、二つの課題を区別しておく必要がある。

それは、その人に備わった回避型の愛着スタイルという課題と、現実や問題に向き合うことを避けようとする回避という課題である。

回避型愛着を抱えていても、現実適応がうまくいっているケースでは、回避の問題は起きていない。

しかし、行き詰っているケースほど、その二つの問題が累乗して関わっている。

回避型の愛着スタイルは、すっかりかえなければならないという性質のものではない。

それはその人のいわば特性であり、心理学的というよりも生物学的な性格を帯びたものである。

その特性を踏まえつつ、より安定度を増したものに変化させればよいのである。

その場合、周りがその人を叱咤激励し、変えることを強要するというよりも、ありのままの特性を受け止めつつ、それを活かす方向に働きかけることが、より安定したものに変わるのを助けることになる。

それに対して、回避という課題は、自分で変えることができるし、そもそも変えなければならないものである。

現実や問題にきちんと向き合わず、逃げることばかりしていれば、自分の人生を生きることはできない。

人生を自分のもとに取り戻したければ、回避をやめねばならない。

ただし、そのためには、同時に、回避型の愛着スタイルも、より安定したものに変えていく必要がある。

そこでまず深刻な回避に陥っている人や、その人を助けようとしている人を想定して、回避を突破する心構えや技術について述べたい。

続きは、回避型愛着スタイルを抱えている人が、実りある人生を送るための方法や、回避型愛着スタイルを、より安定したものに変えていく上での実践的な知恵について述べることとしよう。

回避を合理化する思考

問題に向き合わず、回避しようとする人には共通する思考パターンがある。

その一つは、「努力しても、チャレンジしても、どうせ自分は失敗してしまうので、やるだけ無駄だ」という考え方だ。

実際、何もうまくいかなかったではないか。

やっても傷つくだけだと。

それなら、やらない方がましだという結論になってしまう。

だが、本当にそうと言えるだろうか。

幼児が立って歩くようになるためには、驚くべき努力とチャレンジの繰り返しを必要とする。

何度も何度も失敗し、痛い思いをしたあげく、ようやく自分の足で一歩を踏み出せるようになるのだ。

服を着る、自転車に乗る、読み書きができるといったことも、一人でにできるようになったわけではない。

根気のいる試行錯誤の末、ようやく獲得した能力だ。

「何もうまくいかなかった」と言う人は、そうしたことを忘れている。

ちゃんと思い起こせば、他にもいろいろと挙げることはできるだろう。

実際には、果敢に挑戦し、一つ一つの行為を可能にしてきたのだ。

ひきこもって六年ほどになるニ十四歳の男性は、「自分は何をやっても失敗してバカにされるか、途中で投げ出してきてしまった」と言い続けた。

小学校からやっていたスポーツも、高校ではやめてしまい、勉強に本気で取り組むことも一度もなかった。

習い事は、すべて途中でやめてしまったし、何か目標に向かって努力したこともないと語った。

だが、その男性は、中学校のとき、部活のキャプテンを務めていた。

それなりに努力し、成果が認められたから、キャプテンにも選ばれたのではないかと訊ねると、男性は、小学校からやっていたので、他人より多少うまかっただけだと述べてから、そのスポーツを離れる原因になった、ある屈辱的な体験について語った。

中学三年の終わりに、彼のチームは、後輩のチームと試合をして、完敗を喫してしまった。

そのことが、彼の選手としての、キャプテンとしてのプライドを粉々に打ち砕いたのだ。

それ以降、男性はそのスポーツそのものに興味を失ったかのようにチームを離れ、かといって、他の何に対しても積極的な意欲をみせることもなく、無気力な生活に陥ってしまったのだ。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著