回避型愛着スタイルの克服

現代人に広がる回避型愛着スタイル

人と親密になるのを避けてしまう、一人の方が気楽、結婚や子どもをもつことに消極的、責任や束縛を嫌う、傷つくことに敏感、失敗を恐れる・・・。

そういった特徴をもつ人が急増していると言われている。

その典型は、回避性パーソナリティ障害と呼ばれるタイプである。

回避性パーソナリティ障害の人は、人と距離をおくだけでなく、失敗や傷つく恐れのあることを極力避けようとし、人生が小さく萎みがちになりやすい。

実力以下の人生に甘んじてしまうのである。

しかし、親密な関係や情緒的なつながりを避けたり、結婚や子育てといった責任を回避しようとする傾向は、回避性パーソナリティ障害のような消極的な人生を歩んでいる人だけでなく、一見、社交的で、人生をエンジョイしている人や、社会で活躍している人にも幅広く認められるようになっている。

その背景を探っていくと、根底に、愛着が希薄な回避型愛着スタイルが広がっているということが浮かび上がってくる。

それが、社会適応に支障を来すレベルになると、回避型愛着スタイルと呼ぶべき状態になってくる。

健常レベルの愛着スタイルには「回避型」を、障害レベルの状態に対しては「回避性」をもちいるが、どちらも英語で言えば、アヴォイダント(avoidant)である。

いずれの段階であるにしろ、両者は連続した現象であり、今こうした傾向が、現代を生きる人々に浸透し、拡大しているのである。

そして、このことは、環境汚染や地球温暖化に劣らないくらい重要な問題である。

われわれは、日々の対人関係や家族との生活、性生活や子育てといった親密さを前提とする関係において、ストレスや困難をかかえやすくなっている。

結婚率や出生率の低下は、主に経済問題の側面から論じられることが多いのだが、実際には、今よりずっと貧しい、食うや食わずの時代でも、高い結婚率と出生率を維持してきた。

飢餓ラインぎりぎりでくらしていても、家庭をもち、子どもをつくり続けてきたのである。

ところが、今では、多くの人が、自分一人で過ごす時間や自分のために使うお金を削ってまで、家族をもちたいとは思われなくなっている。

それは経済問題とは別のところに原因がある。

そこには愛着が希薄になり、回避型愛着スタイルが浸透していることが関わっている。

われわれの身には、かつて存在した人類から、別の”種”へと分枝していると言えるほどの、生物学的変化が生じているのである。

回避型愛着スタイルの克服はいかに人生を全うするか

この問題について考えていく前に、まずは回避型愛着スタイルというものが何であるかを知っていただきたいと思う。

それだけで、自分が周囲の人との間で抱えている困難や、やりにくさの正体が、ぐっと分かりやすくなってくることと思う。

これまで、パーソナリティ障害や愛着障害について、ある程度勉強され、知識をお持ちの方も、両者の関係について、さらに整理が進むだろう。

たとえば、回避型愛着スタイルに環境要因が加わり、それに対する適応戦略の結果、異なるパーソナリティに発展していくさまや、逆に、異なるパーソナリティの根底に、回避型愛着スタイルが共通因子として存在する状況がご理解いただけるだろう。

回避型愛着スタイルは、その人の人生を困難にするだけでなく、この社会自体の維持を困難にする問題でもある。

なぜそれが今進行しているのか、その理由を探ることも重要だが、回避型愛着スタイルの人にとってもっと重要なことは、自分の人生をいかに生きやすく、実りあるものにするかということだろう。

回避型愛着スタイルの方は、いかにそのデメリットを克服し、自分のもてるものを活かした、その人にもっともふさわしい人生を送ることができるかということである。

それを考えるにあたっては、従来の常識的な価値観やライフスタイルの概念が通用しないことを念頭におかねばならない。

回避型愛着スタイルは、新しい種の誕生にも匹敵する、根本的なライフスタイルの変動であり、まったく新しい価値観でしか、その人生を測ることはできないのである。

ただ問題は、その新しい価値観が、社会の維持と両立するかどうかは、今のところ不透明だということだ。

われわれはまだ十分な見通しをもっているとは言えない。

あらゆる思想も哲学も、とうに置いてきぼりを食らっている。

テクノロジーの暴走と生物学的な崩壊に突き進んでいく状況に、さながらレミングの行進のように、誰もが引きずられながら道連れにされつつあるという状況である。

しかし、こうした状況の中でも、われわれは生きねばならない。

種としての生き残りの問題とは別に、われわれの͡個としての人生を全うしなければならない。

回避型愛着スタイルの克服に向けて

今、われわれは誰も経験しなかったような危機的な時間の中に生きている。

それは単に個人としての危機というよりも、共同体や種としての危機である。

つい忘れがちなことだが、われわれ人間も、少々頭でっかちとはいえ哺乳類であることに変わりはない。

巨大なテクノロジーを手に入れた驕りから、哺乳類としての宿命を”野蛮な風習”のようにみなし、それを脱することこそが”進歩”のように思ってきたが、哺乳類としての宿命を疎かにしたことに対して、早くも重い代償を支払わされている。

愛着の崩壊によって引き起こされているさまざまな問題―結婚率や出生率の低下、人口減少、子どもから老人にまで広がる虐待、頻発する子どもの問題、生きることへの虚無感、不安定な愛着が原因で起きる無数の精神疾患、境界性パーソナリティ障害やうつ、依存症、摂食障害・・・。

すべては哺乳類としての宿命、つまり、種の生存を支える愛着システムという仕組みを軽視したことから起きている。

その結果、人びとの脱愛着化が進み、急速に増えているのが回避型愛着スタイルをもつ人々である。

それは、社会の中心をなしてきた安定型愛着スタイルの人々とは”種”が異なると言ってもいいくら、振る舞い方や感性、ライフスタイルや価値観が異なるのである。

しかも、それは、個人レベルで回避型愛着スタイルをもった人が増えているというだけでなく、社会全体というレベルで、回避型の様相を強めているということだ。

回避型と判定されない人でさえも、かつて地球上に暮らした人々に比べると、はるかに回避型の特徴を示すようになっている。

このことは、ただ新しい行動様式やライフスタイルが広まっているということではない。

問題なのは、子育てや家族に関心が乏しく、単独生活を好む傾向が、生物学的とも言えるレベルで浸透することによって、個人レベルでも、人が幸福に暮らすことに本質的な困難を来すようになるとともに、社会レベルでも、社会の持続的な維持が危うくなり始めているということである。

回避型愛着スタイルと、個人の幸福や生物としての生存が共存する持続可能なライフスタイルを、われわれは近い将来見つけ出すことができるのだろうか。

親密な関係を必要とせず生物学的な均衡を維持する仕組みをわれわれは手に入れられるのだろうか。

それとも、現状が桃源郷に思えるほど、もっとおぞましい悪夢が始まろうとしているのか。

試行錯誤の多くは失敗に終わるにしても、われわれは生きねばならない。

希薄になる愛着の中で、自分なりの生き方を見つけていくしかない。

うまくいこうがいくまいが、模索を続けることが生きることだとしたら、ただ精いっぱい生きるしかない。

それでも逃げずに生き続けることができれば、あっぱれではないだろうか。

むしろこのような極限の時代にいることを歓迎しようではないか。

何百万年かの人類史において、その繁栄の絶頂と終焉の危機が今、同時に訪れようとしている、そうした稀有な瞬間に立ち会っていることを、むしろ幸運だと思おうではないか。

そうした危機に正面から向き合うことも、回避から脱し、自分に人生を取り戻す一歩ともなると信じたい。

これまでも人は、社会が滅びるような混乱した状況の中を生き抜いてきた。

強い社会不安と混乱の中で、愛着崩壊が起きたこともあった。

寄る辺ない状況にあろうと、生きねばならなかった。

感情や情緒てきなものを切り捨てることで身を守らねばならないときもあった。

幻想の中に逃避や陶酔を求めることで、現実から回避しようとしたこともあった。

社会の崩壊ということも、何度か体験してきた。

だが、そこからわかったことは、社会は滅びても、個は生き残り、そこからまた新たな社会が生まれるということである。

われわれの中には、そうしたしたたかな生命力と希望が宿されていることを願う。

※参考文献:回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち 岡田尊司著

 

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